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150万円の電源ケーブルよりも、拾ったワッシャーの方が「良い音」だった #タイタンの妖女(The Sirens of Titan) #カート・ヴォネガット

プロローグ:悪夢の時代と、内なる静寂

「たぶん、天にいるだれかさんはおれが気に入ってるんじゃないかな」

―—マラカイ・コンセント

いまではどんな人間も、音質の真実を自分自身の内側に見つける方法を知っている。

いまや人類は、鼓膜を震わせる空気の振動など、単なる物理現象に過ぎないことを理解している。真に豊かな低域も、煌びやかな高域も、すべては大脳皮質の聴覚野と、海馬に蓄えられた記憶の相互作用によって合成される「幻聴」の一種であることを、誰もが知っているのだ。

もっとも、人類がまだ蒙昧だったころは、そうではなかった。 かつて、ウェスタン・エレクトリックとおなじくらい遠いむかしには、男も女も、自分たちの聴覚よりまさったなにかがないか、自分たちの外をのぞきこんだものだ。

当時の人々は、音質の真実を自分自身の外側に見つけようとした。彼らは「外へ、外へ(Outwardness)」と求めた。

彼らは、より純粋な電気を求めて、部屋の壁コンセントを掘り返した。さらに太い銅線を求め、家の外へ、電柱の変圧器へ、さらには原子力発電所のタービンへと遡っていった。彼らは、宇宙の果てから届くクリーンな正弦波を夢見て、物理的な接触点をひたすら磨き続けた。

しかし、彼らがそこで見つけたのは、ただの酸化した金属と、抵抗値と、無慈悲なオームの法則という、空っぽの空間だけだった。

結局、彼らの空っぽのリスニングルームが、彼らの望む「絶対的な静寂」で満たされることはなかったのだ。

未知の国テラ・インコグニタとして残されたのは、人間の大脳だけとなった。

では、その昔、まだ大脳が音質の主成分として観測されていなかった時代、人びとはどんなふうに生きたのか。

これから物語るのは、あの悪夢の時代の実話である。

心理音響的インピーダンス漏斗について

この「外へ、外へ」という無益な探索が終わったのは、ある特異点が発見されたからである。

その特異点は、心理音響的インピーダンス漏斗(Psycho-Acoustic Impedance Infundibulum) と呼ばれる。

「インファンディブラム(Infundibulum)」とは、古代ローマ人が「漏斗じょうご」を呼ぶときに使った言葉だ。この言葉はまた、かつて「時間」のようなものが存在した時代に、時空のねじれを表すのにも使われた。

心理音響的インピーダンス漏斗は、論理的な場所ではない。それは、「主観的な聴感」と「客観的な測定値」が完全に一致し、かつ互いを否定しない領域である。

この漏斗の中では、次の二つの命題は矛盾しない。

1.「電源ケーブルを変えると、S/N比が劇的に向上し、天使の歌声が聞こえる」
2.「測定器上のノイズフロアは微動だにしておらず、変化は完全にプラセボである」

『いろいろなふしぎと、なにをすればよいかのオーディオマニア百科』第十四版

この漏斗に入った人間は、あらゆるオーディオアクセサリーの効果を「実在する幻覚」として体験することができる。彼らは嘘をついていないし、騙されてもいない。彼らはただ、物理法則と認知心理学が握手をして休戦協定を結んだ、稀有な空間にいるだけなのだ。

この現象を最初に発見したのは、ウィンストン・ノイズ・ラムフォードという男だった。彼は自宅のオーディオシステムの「アースループ」を解消しようとして、誤ってこの漏斗の中に落ちてしまったのだ。

その結果、彼は「波動現象」として拡散してしまった。

彼はもはや、特定の一人の人間としては存在しない。彼は50Hz(東日本では50Hz、西日本では60Hz)の交流電流として、世界中の送電網の中に遍在している。彼が「人間」として実体化できるのは、電源電圧が誤差なく100.00ボルトになった瞬間と場所だけである。

それゆえ、彼が選ばれた者たちへ送った招待状には、開催時刻の指定はなく、ただ太字でこう記されていた。

Punctual時間厳守(単時点的)であれ』

単時点的な意味における物質化

ロードアイランド州ニューポートにあるラムフォードの屋敷、「無酸素銅の館(The OFC Mansion)」の前には、群衆が押し寄せていた。

群衆の数は約3万人。その大半は、耳を大切にするあまり、外界の雑音を遮断するための巨大な密閉型ヘッドホンを装着していた。そのため、群衆は奇妙なほど静かだった。彼らは互いに会話をせず、ただそれぞれの「内なる高音質」に浸りながら、門が開くのを待っていた。

整理にあたっている警官隊は、群衆を鎮めるために催涙ガスではなく、可聴域外の超音波を発する特殊スピーカーを使用していた。

「門」の内側には、大理石でできた巨大なインシュレーターの上に、一人の男の出現が待たれていた。

ウィンストン・ノイズ・ラムフォードである。

太陽系で唯一、すべてのオーディオ論争の答えを知る男。 過去と未来のすべての新製品レビューを読み終えている男。

予報によれば、あと15分で、この地域の電力需要が安定し、電圧が100.00ボルトに達する。その瞬間、彼は物質化する。

群衆をかき分けて、一台のレンタカーのリムジンが門の前に到着した。

リムジンは長かった。あまりに長いので、運転席と後部座席の間にはタイムラグが生じ、会話をするにはリップシンクの補正が必要なほどだった。

後部座席から降りてきたのは、この時代で最も裕福で、最も運が良く、そして最も音質について無知な男だった。

彼の名前は、マラカイ・コンセント(Malachi Constant-Voltage)。

彼はハリウッドの投資家であり、投機によって巨万の富を得ていた。彼の資産は、彼がこれまでに購入したオーディオ機器の総重量(トン単位)で計算されることが多かった。

彼は背が高く、健康で、見るからに導電性が良さそうだった。彼の皮膚は、最高級のロジウムメッキのように滑らかだった。

彼が身につけているスーツは、静電気を一切発生させない特殊繊維で織られていた。靴底は制振ゴムでできており、歩くたびに床の不要な共振を吸収した。

しかし、彼の表情は退屈しきっていた。

彼は、自分がなぜここに呼ばれたのかを知らなかった。彼はただ、招待状にこう書いてあったから来ただけだった。

「あなたのシステムには、致命的なジッター(時間軸の揺らぎ)がある」

マラカイ・コンセントは、ジッターが何なのかを知らなかった。たぶん、性病の一種か何かだと思っていた。だが、彼は「致命的」という言葉には敏感だった。金持ちはみんなそうだ。

警官が彼に敬礼し、重い防音扉のような門を開けた。

「ラムフォード氏がお待ちです、コンセント様。ただし、電圧が安定している間だけですが」

マラカイは肩をすくめた。

「構わんよ。どうせ私の人生も、電圧みたいなもんだ。上がったり下がったり、不安定なことこの上ない」

彼は門をくぐった。その瞬間、彼の背後で世界中の電源トランスが唸りを上げたような気がした。

それは、彼がこれから向かうことになる、火星、水星、そしてタイタンへと続く、長く不毛な「配線の旅」の始まりを告げるハムノイズだった。

第1章:予言とRCA端子

100.00ボルトの男

屋敷の中は、死ぬほどデッド(無響)だった。

壁という壁には吸音材が貼られ、床には分厚い絨毯が敷き詰められていた。歩く音はおろか、呼吸音さえも瞬時に吸収された。まるで巨大なヘッドホンのイヤーパッドの中に迷い込んだようだった。

マラカイ・コンセントは、案内された部屋の中心に立った。 そこにはプールがあった。ただし、水は入っていない。代わりに、無数の黒いケーブルがうごめいていた。まるで蛇の巣だ。それらはすべて、部屋の奥にある一脚の椅子に向かって這っていた。

その椅子は「玉座」に見えたが、実際には歯科医の椅子を改造したリスニングチェアだった。

「座りたまえ、コンセント氏」

声はどこか特定の場所からではなく、部屋の四隅に配置された巨大なスピーカーから同時に聞こえた。定位が良すぎて、逆に気持ちが悪かった。

「まだ姿は見せられない。現在の商用電源電圧は99.8ボルトだ。あと0.2ボルト足りない」

声の主、ウィンストン・ノイズ・ラムフォードは言った。

「私の存在を維持するには、完全な正弦波が必要なのだ。近隣の工場が操業を停止し、夕食の電子レンジが一斉に止まるその一瞬だけ、私はここにいられる」

マラカイは不快そうに鼻を鳴らした。 「あんたは幽霊か何かか?」

「私は波動だ」ラムフォードは答えた。「正確には、解決されなかったグラウンドループだ。私はある日、自分のシステムのアースを強化しようとして、庭に深さ200メートルの穴を掘り、そこに純金の延べ棒を埋めた。その瞬間、私は心理音響的インピーダンス漏斗に落ちた」

「ふん、金持ちの道楽だな」

「その通り。そして今、私は太陽からベテルギウスまで伸びる一本の長いノイズとして存在している。私が実体化するとき、私は全知だ。過去と未来のすべての周波数特性が見える」

その時、部屋の照明が一瞬明るくなり、安定した。 空調の音が止んだ。 部屋の隅にある電圧計のデジタル表示が、ふらつきを止めて「100.00V」に張り付いた。

椅子の上に、青白い電気火花が散った。 バチッ、パチッ、というスパーク音が収束し、一人の男の形をとった。

ウィンストン・ノイズ・ラムフォードが現れた。 彼はタキシードを着ていたが、その生地は常に微細に振動していた。彼の足元には、犬はいなかった。代わりに、犬の形をした巨大なサブウーファーがうずくまっていた。名前はカザック。カザックは「ブーン」という50Hzの重低音で唸った。

究極のシステムへの旅

「ようこそ、コンセント」ラムフォードは微笑んだ。その笑顔は、完璧なマスタリングが施されたCDのようにノイズがなかった。「君は自分がなぜここにいるか、理解していないね」

「ジッターがどうとか言われたからだ」マラカイは言った。「治療費なら払うぞ」

「金では治らない」ラムフォードは言った。「君の魂には、位相のズレがある。君は人生のピークレベルを追求してきたが、ダイナミックレンジが欠如している」

「何の話だ?」

「君は旅に出るのだ」ラムフォードは予言した。「長く、不快で、非常に高コストな旅に」

「断る」

「断れない。すでに君の家のブレーカーは落ちている。資産は凍結された。君の持っている株券はすべて、昨夜の暴落で紙くずになった。今の君は、無一文のただの導体だ」

マラカイは笑おうとしたが、頬が引きつった。ラムフォードの目は冗談を言っていなかった。

「君はまず火星に行く。そこは『ノイズキャンセリングの地』だ。君はそこで記憶を消され、自分の好みを奪われ、ただ命令された通りの音を聴く兵士『アンプ(Amp)』になる」

「馬鹿げている!」

「次に水星に行く。そこは『振動の地』だ。君はそこで、音楽の意味などどうでもよくなり、ただ壁が震える快感だけを求めて生きることになる」

「帰らせてもらう」マラカイは踵を返そうとした。

「そして最後に」ラムフォードの声が、ウーファーの低音と共に背中に響いた。「君はタイタンに行く。土星の衛星だ」

「タイタン?」

「そこには、君が探し求めているものがある」

妖女の正体

ラムフォードは懐から一枚の写真を取り出した。 「これを見たまえ。タイタンにいる『妖女(サイレン)』だ」

マラカイは見るつもりはなかったが、視線が勝手に写真に吸い寄せられた。 それは、女性の写真ではなかった。

それは、端子の写真だった。

極限まで拡大されたマクロ撮影写真。 そこには、RCAピンプラグが写っていた。 だが、ただのプラグではない。

その金メッキの表面処理は、原子レベルで平滑だった。 接触面のカーブは、官能的なまでに完璧な放物線を描いていた。 絶縁体のテフロン樹脂は、この世のものとは思えない乳白色の輝きを放っていた。 センターピンの太さは、あまりに力強く、それでいて挿入の滑らかさを予感させた。

「あぁ……」

マラカイの口から、吐息が漏れた。 彼はこれまで、数多くの美女と浮き名を流してきた。ハリウッドの女優、モデル、富豪の令嬢。しかし、この金属の塊が放つ輝きに比べれば、彼女たちはただの有機物に過ぎなかった。

この端子に、差し込みたい。 カチッという、あの完璧な嵌合(かんごう)音を聞きたい。 その瞬間の、抵抗値がゼロになる快感を味わいたい。

マラカイの股間が、物理的にではなく、電気的に熱くなった。脳内のドーパミンが、矩形波のように垂直に立ち上がった。

「美しいだろう?」ラムフォードは囁いた。「この端子は、タイタンにある。この端子に適合するジャックを持つのは、全宇宙で君だけなのだ」

マラカイは震える手で写真に触れようとした。しかし、ラムフォードはそれをすっと引いた。

「手に入れたければ、旅に出るのだ。火星の軍隊を経て、水星の洞窟を抜け、タイタンへ。そこで君は、この端子と結ばれる」

電圧計の数値が99.9Vに落ちた。 ラムフォードの輪郭が滲み始めた。

「時間だ。近所の誰かがドライヤーを使い始めたらしい。ノイズが乗ってきた」

ラムフォードの体は再び電気火花へと分解していった。 最後に残ったのは、彼のニヤリとした笑い声のような高周波ノイズと、カザックの低い唸り声だけだった。

部屋は再び、死んだような静寂に戻った。

マラカイ・コンセントは一人、暗闇の中に立っていた。 彼の心の中には、もはや資産のことも、地球での生活のこともなかった。 あるのはただ一つ。

あの端子を、ねじ込みたい。 その、どうしようもない衝動だけだった。

外では、火星行きの宇宙船が――形はどう見ても巨大な真空管アンプだった――アイドリングのハムノイズを響かせて待っていた。

第2章:ケーブル・レンタルズ

募集広告

マラカイ・コンセントが火星へ連れ去られる際、表向きの勧誘を行ったのは「ケーブル・レンタルズ(Cable Rentals)」という幽霊会社だった。

彼らのキャッチコピーはこうだった。 『あなたの人生に、究極の没入感(イマーシブ)を。お貸しするのはケーブルだけではありません。リスニング環境そのものです』

マラカイはその契約書にサインした覚えはなかったが、気がつくと火星行きの宇宙船の中で、強制的に「没入」させられていた。

兵士アンプの朝

火星の朝は、いつだって「ホワイトノイズ」で始まる。

兵舎のスピーカーから、全帯域にわたって均一なエネルギーを持つシャーッという音が大音量で流される。それは「起床ラッパ」ではない。兵士たちの脳波を強制的に覚醒レベルまで引き上げるための、調整信号(キャリブレーション・シグナル)だ。

兵士アンプ(Amp)は、簡易ベッドから跳ね起きた。 彼の頭蓋骨には、小さな金属製の端子が埋め込まれている。そこから脳の深部へ向かって、「ノイズキャンセリング・インプラント」が伸びている。

このインプラントの機能は単純かつ残酷だ。 兵士が司令部の命令通りに行動しているとき、脳内は静寂に包まれる。 しかし、兵士が余計なことを考えたり、個人的な記憶を思い出そうとしたりすると、インプラントは脳内に凄まじい「1kHzのテストトーン」を最大音量で再生する。

アンプは急いで軍服に着替えた。軍服の背中には、大きな放熱フィンがついていた。火星軍の兵士は、常に冷静(クール)でなければならないからだ。

「整列!」

軍曹の声が響く。軍曹の名前は、ボアズ(Boaz)。 彼は兵士たちとは違い、インプラントの制御権を自分で持っている。彼はいつもポケットに小さなリモコンを入れていて、気に入らない兵士がいると「ボリューム」を上げるのだ。

練兵場に出ると、スピーカーから行進のためのリズムが流れていた。 それは音楽ではない。ただの反復ビートだ。兵士たちの脳内から、思考という名のジッターを取り除くためのリズムだ。

Rented a cable, a cable, a cable; Rented a cable, a cable, a cable. Rented a cable! Rented a cable! Rented a, rented a cable.
ケーブル借りちゃった、借りちゃった、借りちゃった ケーブル借りちゃった、借りちゃった、借りちゃった ケーブル借りちゃった! ケーブル借りちゃった! 借りちゃった、借りちゃった、ケーブル借りちゃった

――火星のスネアドラム(オーディオ・チェック・トラック)

アンプは列に並んだ。彼の右隣には、ストーニーという男がいた。 ストーニーは、アンプの唯一の友人だった。彼らは記憶を消される前、どこかで会っていたような気がするが、それを考えようとすると頭の中で「ピーッ」という音が鳴るので、深くは考えないようにしていた。

「今日は貴様らに、重大な任務がある」ボアズ軍曹が言った。「地球侵攻の予行演習だ」

火星軍の目的は、地球を侵略することだ。 しかし、領土や資源が目的ではない。

火星軍の最高司令官、ウィンストン・ノイズ・ラムフォードが掲げるスローガンはただ一つ。 「全人類に、強制的なフラットレスポンスを」

地球人は、低音をブーストしたり、高音をイコライジングしたりして、勝手に音を歪めている。それは宇宙の調和を乱す罪だ。火星軍は地球に降り立ち、すべてのトーンコントロールつまみを「ゼロ」の位置に固定するために訓練されているのだ。

公開ブラインドテスト

その日の午後、練兵場には異様な緊張が漂っていた。 全兵士が集められ、巨大なスクリーンの前に整列させられた。

スクリーンには、ラムフォードの顔が映し出されていた。彼の映像は、解像度が高すぎて逆に非現実的に見えた。

「諸君」ラムフォードの声が、練兵場の空気を振動させた。「我々の軍隊の中に、異端者がいる」

ざわめきが広がろうとしたが、全員のインプラントが小さくハウリングを起こし、沈黙を強制した。

「その男は、あろうことか『ケーブルを変えたら音が変わった気がする』と発言した」

兵士たちの間に、戦慄が走った。 それは重罪だった。火星軍の教義では、すべてのケーブルは単なる導体であり、抵抗値以外の個性を持ってはならない。音が変わったと主張することは、精神が「オカルト」に汚染されている証拠なのだ。

「前へ出ろ、兵士ストーニー」

アンプの隣で、ストーニーが震えながら一歩前に出た。彼の顔は蒼白だった。

「私は……ただ、昨日の配給食の味がいつもと違うように、ケーブルも……」

「黙れ!」ラムフォードが一喝した。「貴様の感覚がいかに当てにならないか、今ここで証明してやる。公開ABXテストの刑に処す!」

処刑台の上に、二つの黒い箱が運ばれてきた。 さらに、ストーニーの耳には強制的に密閉型ヘッドホンが装着された。

「これから二つの音源を再生する」ラムフォードが宣告した。「AとBだ。そのあと、Xを再生する。XがAなのかBなのか、答えろ。これを100回連続で正解できれば、貴様の『違いがわかる耳』を認めてやろう。だが、一度でも間違えれば……」

ラムフォードは残酷に微笑んだ。 「貴様のインプラントのボリュームを、最大(クリッピングレベル)まで上げる」

試験が始まった。 「A……B……X。答えろ」 「A……です」 「正解」

最初は順調だった。しかし、回数を重ねるごとにストーニーの顔からは脂汗が噴き出し、呼吸が荒くなっていった。人間の聴覚記憶は、数秒しか持たない。微細な差を聞き分けようとすればするほど、脳は疲労し、ゲシュタルト崩壊を起こす。

50回目。 「A……B……X」 ストーニーは迷った。彼の耳には、もうどちらも同じ音にしか聞こえなかった。いや、最初から同じ音だったのかもしれない。 「……B?」

「不正解!」

ブブーッ!という巨大なブザー音と共に、ストーニーが絶叫した。 彼の頭蓋骨の中で、最大レベルの矩形波(スクエアウェーブ)が暴れまわったのだ。矩形波は、正弦波に比べて高調波成分を無限に含むため、脳細胞への攻撃力は絶大だ。

ストーニーは泡を吹いて倒れた。痙攣する彼の体から、煙のようなものが立ち上った。それは彼の「自意識」が焼き切れる煙だった。

「見ろ!」ラムフォードが叫んだ。「これが『違いがわかる』と思い込んだ者の末路だ! 彼はプラセボ効果という名の悪魔に魂を売ったのだ!」

アンプは、倒れた友を見つめていた。 彼の心の中で、怒りのようなものが湧き上がろうとした。 しかし、その瞬間にインプラントが警告音を発した。 アンプは奥歯を噛み締め、感情を「ミュート」した。

青い石の下の手紙

その夜、アンプは眠れなかった。 ストーニーは医務室へ運ばれたが、もう二度と元の彼には戻らないだろう。彼の脳は完全に「初期化(フォーマット)」されてしまったのだ。

アンプは、ストーニーが倒れる直前、自分にだけ聞こえるような小声で何かを呟いていたのを思い出していた。

「……兵舎の裏……青いインシュレーターの下……」

アンプはこっそりと兵舎を抜け出した。火星の夜は寒く、乾燥していた。静電気が起きやすい環境だ。

兵舎の裏手に、瓦礫の山があった。その中に、場違いに鮮やかな青色をしたゴム製のインシュレーター(振動吸収材)が落ちていた。 アンプは震える手でそれを持ち上げた。

その下には、薄汚れた封筒があった。 封筒には、こう書かれていた。

『親愛なるアンプへ。これを読んでいるとき、お前のS/N比は最悪だろう』

アンプは封筒を開けた。中の手紙を月明かりで読んだ。 筆跡は、アンプ自身のものだった。 これは、記憶を消される前の自分が、未来の自分に宛てて書いた「バックアップ・データ」だったのだ。

アンプ、よく聞け。俺たちの本当の名前はアンプじゃない。 お前の名前はマラカイ。俺の名前は……まあいい、それは重要じゃない。

重要なのは、俺たちがなぜここにいるかだ。 ラムフォードは、俺たちを地球侵攻のために訓練していると言っているが、それは嘘だ。 彼の真の目的は、地球のオーディオファイルを根絶やしにすることでもない。彼はただ、ある「部品」を運びたがっている。

俺たちの軍隊も、宇宙船も、すべてはその部品を運ぶための梱包材(パッケージ)に過ぎない。

お前の元妻、ベアトリスもここにいる。彼女は厨房で働かされている。 そして、お前の息子、クロノもいる。クロノが持っている「お守り」を見ろ。 彼はそれを、ただのゴミだと思っている。

だが、それこそが、全宇宙が待ち望んでいる「究極の接点復活材」なのだ。忘れるな。音質なんてどうでもいい。

大事なのは、回路が繋がることだ。

追伸: ストーニーを殺したのは、お前じゃない。彼を殺したのは、「ブラインドテスト」という名の暴力装置だ。 音楽は、テストされるためにあるんじゃない。聴かれるためにあるんだ。

アンプは手紙を読み終えると、それを食べた。 紙の味がした。少しだけ、パルプ特有のざらついたノイズの味がした。

彼のインプラントが「ピーッ」と鳴った。 思考検閲だ。 しかし、アンプは構わなかった。 彼の中に、小さな「直流成分(DCオフセット)」が生まれたからだ。 それは、どれだけノイズキャンセリングをかけても消えない、確固たる意志のバイアス電流だった。

彼は空を見上げた。 火星の二つの月、フォボスとダイモスが浮かんでいる。 それらはまるで、宇宙という巨大なリスニングルームに吊るされた、左右のツイーターのように見えた。

「待っていろ、タイタン」

アンプは呟いた。 彼の股間のRCA端子が、微かに疼いたような気がした。

第3章:水星の定在波と振動中毒者

歌う惑星

水星は、太陽系で最も巨大な「エンクロージャー(スピーカーの箱)」である。

昼の面は鉛が溶けるほど熱せられ、夜の面は絶対零度近くまで冷やされる。この激しい温度差により、惑星の地殻は常に膨張と収縮を繰り返している。

その結果、水星全体が振動している。 その基本周波数は、可聴域をはるかに下回る0.004Hzだ。だが、その倍音成分(ハーモニクス)は、洞窟の形や深さに応じて複雑に共鳴し、地下空間を永遠に鳴り止まない「ブーン」という唸りで満たしている。

火星軍の宇宙船は、水星の地下深くにある巨大な洞窟に着陸した。いや、正確には「吸い込まれた」のだ。 この洞窟は、惑星規模の「バスレフポート」として機能しており、強烈な空気の出し入れが発生していたからだ。

船に乗っていたのは二人。 元火星軍曹のボアズと、兵士アンプ(マラカイ)だ。

船は着陸の衝撃で、メインの電源系統がイカれてしまった。エンジンがかからない。 彼らは、広大な地下空洞に閉じ込められた。

そこは、オーディオマニアが最も恐れる場所だった。 壁、天井、床。すべてが平行面で構成されている。 つまり、最悪の「定在波(スタンディングウェーブ)」地獄だった。

どこに立っても、低音がボンボンと膨らんで聞こえるか、あるいはスカスカに打ち消し合って聞こえなくなるか、そのどちらかしかなかった。 まともなステレオイメージなど、望むべくもなかった。

ハーモニウム:生きた吸音材

アンプは絶望して、洞窟の壁に背中を預けた。 すると、壁が動いた。

「うわっ!」

彼が飛び退くと、壁に張り付いていた「シミ」のようなものが、一斉に剥がれ落ち、ひらひらと舞い上がった。

それは、薄いゴムシートのような、あるいは安物の圧電ブザーのような形をした生物だった。 彼らは「ハーモニウム(Harmoniums)」と呼ばれている。

彼らには目も口もない。あるのは、振動を感知する膜だけだ。 彼らは、洞窟壁面の振動を食べて生きている。 つまり、彼らは「生きた制振材」であり、「自律型吸音パネル」なのだ。

ボアズ軍曹は、恐怖するどころか、その生物に魅入られたように近づいた。 彼は懐から、携帯音楽プレーヤーを取り出した。火星軍からくすねてきたものだ。

「おい、アンプ。こいつらを見ろ。腹を空かせてやがる」

ボアズがプレーヤーのスイッチを入れ、内蔵スピーカーから音楽を流した。 曲はチープなテクノだった。

すると、ハーモニウムたちは歓喜した(ように見えた)。 彼らはスピーカーの周りに集まり、その薄い体を小刻みに震わせた。そして、音楽のリズムに合わせて、黄色やピンクの微かな光を放ち始めた。

「こいつらは……音楽がわかるのか?」アンプが尋ねた。

「いいや」ボアズは恍惚とした表情で言った。「こいつらは、音楽性なんてどうでもいいんだ。メロディも、歌詞も、演奏のニュアンスも関係ない」

ボアズはボリュームを最大にした。音が割れ、酷い歪み(ディストーション)が発生した。 だが、ハーモニウムたちはさらに激しく輝き、ボアズの体に張り付いてきた。

「こいつらが欲しいのは、『振動』だけだ」ボアズは叫んだ。「空気さえ動けば、それでいいんだよ!」

ボアズは、オーディオの暗黒面に堕ちていた。 彼は「音質」を捨て、「音圧」を選んだのだ。 繊細な表現よりも、ただ物理的に体が揺さぶられる快感。 彼は、究極の「バス・ヘッド(低音中毒者)」へと進化したのだ。

良い生活

それからの生活は、奇妙に安定していた。 彼らが死ぬことはない。宇宙船の備蓄食料は豊富だし、洞窟の中にはリサイクル可能な水があった。

ボアズは、ハーモニウムたちの神になった。 彼は毎日、朝から晩まで、大音量で単調なビートを流し続けた。 さらに彼は、自分の脈拍さえも彼らに与えた。 彼が寝ている間、ハーモニウムたちは彼の手首や首筋に張り付き、心臓の鼓動(約1Hzのパルス)をチューインガムのように咀嚼した。

ある日、ボアズがいつものように低音を響かせていると、壁のハーモニウムたちが一斉に動き、あるパターンを作った。

​彼らは文字を描いていた。

『ここにいる(Here I am)』

​ボアズは震えた。火星では、誰も彼を見ていなかった。彼はただの命令装置だった。だがここでは、壁が、床が、この生き物たちが、彼の存在を認めている。

彼の振動を受け止め、「ここにいる」と応答してくれている。

​「見たか、アンプ!」ボアズは泣いていた。「こいつらは俺を知ってるんだ!」

​さらに、ハーモニウムたちは形を変えた。ボアズが送り続けるビートに対して、彼らはこう返したのだ。

『よかった(So glad)』

​「よかった、だってよ……」ボアズは崩れ落ち、愛おしそうに壁を撫でた。「俺の振動があって、よかったってよ……」

「良い生活だ」ボアズは言った。彼の目は虚ろだった。「火星では、誰も俺の命令なんか聞きたがらなかった。だが、こいつらは違う。俺が振動すれば、こいつらも振動する。完全な同期(シンクロ)だ」

アンプは、そんな生活には耐えられなかった。 彼のポケットには、火星から持ってきたRCA端子の写真が入っていた。 あの完璧な端子。酸化皮膜のない、純粋な接点。 あそこへ行きたい。この、低音がブーミーに響くだけの不快な洞窟から抜け出して、あの静寂の端子にプラグインしたい。

アンプは船の修理を試みた。 しかし、システムは応答しない。ディスプレイには「PHASE ERROR(位相エラー)」という文字が点滅するだけだった。

壁のメッセージ

数ヶ月、あるいは数年が過ぎたかもしれない。水星の自転は遅いので、時間の感覚は麻痺していた。

ある日、アンプが目覚めると、洞窟の天井に異変が起きていた。 何万匹ものハーモニウムが、天井に集まり、幾何学的な模様を描いていたのだ。

彼らは自らの発光で、文字を作っていた。 それは、ボアズが流す音楽の振動とは無関係な、明らかな「外部からの介入」だった。

文字はこう書いてあった。

『極性を反転せよ』

アンプは息を飲んだ。これは、ラムフォードからのメッセージだ。 彼はまだ、宇宙のどこかからこちらを見ているのだ。

「ボアズ! 見ろ!」アンプは叫んだ。「脱出の方法がわかったぞ! 極性だ! 俺たちは逆相(逆位相)だったんだ!」

ボアズは寝転がったまま、天井をちらりと見た。 「だからどうした?」

「船のメインエンジンの極性を反転させるんだ! プラスとマイナスを入れ替える! そうすれば、この洞窟の定在波と打ち消し合って、船は浮上するはずだ!」

「俺は行かない」ボアズは言った。

「なんだって?」

「俺はここに残る」ボアズは、腕に張り付いた二匹のハーモニウムを愛おしそうに撫でた。「俺は火星に戻りたくない。地球にも戻りたくない。あそこじゃ、誰も俺の振動を必要としていない」

ボアズは、涙を流していた。 「ここなら、俺は必要とされている。俺が手を叩けば、壁が喜ぶ。俺が足を踏み鳴らせば、床が歌う。ここは俺のリスニングルームだ。俺専用のな」

アンプは理解した。ボアズは、オーディオの最終形態の一つに到達したのだ。 それは「自己満足」という名の涅槃(ニルヴァーナ)だった。 他人がどう思おうと、測定値がどうであろうと、本人が「気持ちいい」と感じるなら、それはその人にとってのゴールなのだ。

「わかった」アンプは言った。「元気でな、ボアズ」

逆相での離陸

アンプは一人で宇宙船に戻った。 彼はメインコンソールの裏側に潜り込み、スピーカーケーブルのような極太の電源ラインを掴んだ。 赤と黒。 彼はそれを引き抜き、逆に差し込んだ。

バチッ!

強烈なスパークが走った。 次の瞬間、船全体が不快な「逆相感」に包まれた。 耳が詰まったような、脳が裏返るような、あの気持ち悪い感覚。音像が定まらず、空間がねじれる感覚。

しかし、物理的には正解だった。 船から発せられる逆位相の波動が、水星の重力波(定在波)をキャンセリングしたのだ。 静寂(サイレンス)。 圧倒的な静寂と共に、船はふわりと浮き上がった。

アンプはモニター越しに、地上のボアズを見た。 ボアズはハーモニウムたちに埋もれながら、幸せそうに手を振っていた。彼のリズムに合わせて、洞窟全体が明滅していた。

船は加速した。 バスレフポートのような洞窟の出口を抜け、宇宙空間へ。

次の目的地は地球。 そこには、かつての妻ベアトリスと、息子クロノがいるはずだ。 そして、その後はいよいよタイタンだ。

アンプは懐の写真を取り出した。 RCA端子は、相変わらず妖艶な輝きを放っていた。

「待っていろ」

アンプは呟いた。船のノイズは、位相キャンセリングのおかげで驚くほど静かだった。 だが、その静けさは、何か大事な情報成分(音楽の魂)まで一緒に消し去ってしまったような、どこか空虚な静けさだった。

第4章:無関心な神の教会と100均イヤホン

スペース・ワンダラーの帰還

アンプ(マラカイ)を乗せた宇宙船は、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州に着陸した。 そこには、かつてない規模の群衆が待ち受けていた。

彼らは歓声を上げていたが、その声はどこか籠もっていた。 なぜなら、群衆の全員が、耳に「ハンディキャップ」を装着していたからだ。

それは、鮮やかな蛍光色をした、プラスチック製の安っぽいイヤホンだった。 100円ショップ(あるいは1ドルショップ)で売られている、最も安価なモデルだ。 再生周波数帯域は200Hzから4kHz。低音はスカスカ、高音はジャリジャリ。解像度は皆無。

これが、新しい時代の象徴だった。

アンプがタラップを降りると、人々は彼を「スペース・ワンダラー(宇宙の放浪者)」と呼んで崇めた。 彼は、ウィンストン・ノイズ・ラムフォードの予言通りに帰ってきた男だった。 宇宙の彼方を見てきた男。そして、宇宙には「良い音」など存在しなかったことを証言する男として。

教義:スペックへの無関心

地球は変わっていた。 ラムフォードが創設した「徹底的に無関心な神の教会(The Church of God the Utterly Indifferent)」が、人々の心を支配していた。

教会の教義は単純だった。 「神は、ハイレゾもMP3も区別しない」

かつて人々は、不平等に苦しんでいた。 ある者は生まれつき「絶対音感」を持ち、ある者は「可聴域が広い黄金の耳」を持っていた。 ある者は富を持ち、1000万円のスピーカーを買うことができたが、ある者はスマホのスピーカーで我慢しなければならなかった。

ラムフォードは言った。 「それは間違っている。神は音質になど関心がない。神が愛するのは、スペックではなく、ただそこに『音がある』という事実だけだ」

平等を達成するために、人々は自発的にハンディキャップを受け入れた。 「黄金の耳」を持つ者は、耳栓をして高域をカットした。 富める者は、最高級のオーディオシステムを捨て、AMラジオのノイズ混じりの音を聴くことを義務付けられた。

「良い音を求めることは、隣人への侮辱である」 それが新しい戒律だった。

再会とワッシャー

教会の集会の中心で、アンプはかつての妻ベアトリスと再会した。 彼女は見る影もなく老け込んでいた。かつて「純潔」にこだわっていた彼女は、今では「純粋なノイズ」のような人生を受け入れていた。彼女は教会の入り口で、記念品のグッズを売っていた。

そして、息子クロノがいた。 彼は、父親の顔を見ても何の反応も示さなかった。 彼は一日中、地面を蹴って何かを探していた。

「何をあいつは持っているんだ?」アンプはベアトリスに尋ねた。

「お守りよ」ベアトリスは疲れた声で答えた。「火星で拾ったらしいわ」

クロノの手には、薄汚れた金属片が握りしめられていた。 それは、どこにでもある、変哲もない「ワッシャー(座金)」だった。 錆びていて、形も歪んでいる。どう見てもゴミだ。

だが、クロノはそれを宝物のように扱い、時折耳元に当てて、その「共振音」を楽しんでいた。 「キーン……」 クロノはワッシャーが発する微かな金属音にだけ、心を開いていた。

公開裁判:オーディオ・マニアの罪

集会のクライマックス。電圧が安定し、ラムフォードが祭壇の上に物質化した。 彼は、100均イヤホンをつけた信者たちを見渡し、満足げに頷いた。

「諸君、よくぞ己の鼓膜を汚した。その『籠もった音』こそが、神の慈悲である」

そして彼は、アンプを指差した。

「だが、ここに一人、まだ魂が浄化されていない男がいる!」

巨大スクリーンに、アンプ(マラカイ・コンセント)の過去の悪行が映し出された。 それは、彼が破産する前に購入したオーディオ機器の明細書だった。

『電源ケーブル "Galaxy Supreme":150万円』
『インシュレーター "Anti-Gravity":40万円(4個)』
『量子力学シール "Quantum Harmonizer":5万円(1枚)』

群衆から、悲鳴のようなブーイングが上がった。 「なんてことだ! ケーブル一本で車が買えるじゃないか!」 「オカルトだ! 魔女だ!」 「彼は神の平等を金で買おうとしたんだ!」

ラムフォードは叫んだ。 「そうだ! この男は信じていたのだ! 金を出せば、物理法則をねじ曲げられると! 彼は『空気感』や『微細なニュアンス』などという、存在しない幻影を追い求めた罪人である!」

アンプは反論しようとした。 「だが、実際に音は変わったんだ! S/N比が……」

「黙れ!」ラムフォードの声が、PAシステムをオーバードライブさせた。「その『変わった気がする』という傲慢さこそが、人類を不幸にしてきたのだ!」

タイタンへの追放

判決は下された。 アンプ、ベアトリス、そしてクロノの三人は、地球を追放されることになった。

「行け、タイタンへ!」 ラムフォードは宣言した。 「そこには、お前のような救いようのないマニアにお似合いの『妖女』が待っている。お前はそこで、誰にも邪魔されず、永遠に自分の好みの音だけを聴いて暮らすがいい。ただし、宇宙の果てでな!」

群衆は熱狂し、自分たちのチープなイヤホンの音量を上げた。 シャカシャカという音漏れが、会場全体を不快な高周波ノイズで満たした。

アンプたちは、再び宇宙船に乗せられた。 行き先は土星の衛星、タイタン。 片道切符だ。

船の中で、アンプはクロノを見た。 クロノは相変わらず、汚いワッシャーを指で弾いて遊んでいた。 チン、チン、という乾いた音が、船内の静寂に響いた。

アンプは知らなかった。 そのゴミのようなワッシャーこそが、全人類の歴史における「真の目的」であることを。 そして、自分が必死に追い求めた150万円のケーブルよりも、この錆びた座金の方が、宇宙にとってはるかに価値があるということを。

船は重力圏を離脱した。 地球が遠ざかる。 100均イヤホンのノイズに包まれた青い星が、小さくなっていった。

第5章:タイタンの真実と交換部品の歴史

待機する機械サロ

タイタンは、とてつもなく静かな場所だった。 大気は濃く、気温はマイナス180度。ここでは、あらゆる導体の電気抵抗が極限まで下がる(超伝導)。 つまり、タイタンは全宇宙で最も「電気的にピュア」なリスニングルームだった。

アンプ(マラカイ)、ベアトリス、クロノの三人が降り立つと、そこにはすでにウィンストン・ノイズ・ラムフォードが実体化して待っていた。 さらに、もう一人――いや、一台の奇妙な存在がいた。

それは、鮮やかなタンジェリン色をした、巨大な金属の彫刻に見えた。 三本の脚で立ち、頭部には巨大な放熱フィン(ヒートシンク)がついている。 どう見ても、自律思考型の「純A級アンプ」だった。

「紹介しよう」ラムフォードが言った。「彼の名はサロ(Salo)。トラルファマドール星から来た使者だ」

サロは、胸部のVUメーターを激しく振らせて挨拶した。 「ゴキゲンヨウ、地球ノ皆さん。私ハ、ココデ20万年待ッテイマシタ」

「20万年?」アンプは驚いた。「何のために?」

「部品デス」サロは答えた。「私ノ宇宙船ノ、電源プラグガ故障シマシタ。接触不良デス。代ワリノ部品ガ届クノヲ、ズット待ッテイタンデス」

人類史=ルームチューニング

ラムフォードがニヤリと笑った。 「そう、アンプ君。君たちが地球で築き上げてきた文明、歴史、建築物。それらはすべて、サロに『部品の到着状況』と『音響調整の指示』を伝えるためのメッセージだったのだ」

「どういうことだ?」

「例えば、イギリスのストーンヘンジ」ラムフォードが説明した。「あれはトラルファマドール語で『低域の定在波が酷い。ベーストラップを置け』という意味だ」

「バカな……」

万里の長城はどうだ? あれは『この一帯の反射音がうるさい。拡散(ディフューズ)させろ』という指示だ」

「モスクワのクレムリン宮殿は?」

「『インピーダンスの整合が取れていない』だ」

アンプは膝から崩れ落ちそうになった。 人類が何千年もかけて積み上げてきた偉業。戦争、宗教、芸術。 それらすべては、この宇宙船のパイロット(サロ)に対して、地球という広大なリスニングルームの「ルームチューニング」を報告するための、単なる幾何学的なサインに過ぎなかったのだ。

「そして、肝心の交換部品だ」ラムフォードはクロノの方を向いた。「坊主、そのポケットに入っているゴミを出しなさい」

クロノは不承不承、例の汚いワッシャーを取り出した。 火星で拾い、ずっと指で弾いて遊んでいた、あの錆びた座金だ。

サロの目が(LEDインジケータが)輝いた。 「オォ! ソレデス! ソレガナイト、私ノ電源ケーブルハ、ガバガバナノデス!」

サロは震えるマニピュレータでワッシャーを受け取ると、自分の宇宙船の電源インレットに嵌め込んだ。 カチッ。 完璧な嵌合音。 宇宙船のシステムが唸りを上げ、20万年ぶりにパワーインジケータが点灯した。

アンプは呆然とした。 「俺が150万円のケーブルを買ったのも、火星で記憶を消されたのも、水星で振動地獄を見たのも……すべては、息子にこのワッシャーを拾わせて、ここまで運ばせるためだったのか?」

「その通り」ラムフォードは慈悲深く頷いた。「君の人生の目的は、そのワッシャーの運搬係だ。それ以上でも以下でもない」

究極のメッセージ

「それで……」アンプは乾いた声で尋ねた。「サロ、あんたが20万年もかけて、銀河の彼方へ運ぼうとしていたメッセージは何なんだ? さぞかし重要な、宇宙の真理が書かれているんだろうな」

サロは胸のパネルを開き、一枚の金属板を取り出した。 そこには、小さな「・(ドット)」が一つだけ刻まれていた。

「コレデス」

「点?」

「トラルファマドール語デ、コウイウ意味デス」 サロは厳かに翻訳した。

『S/N比、良好(Greetings)』

アンプは笑った。笑うしかなかった。 挨拶だ。ただの挨拶。あるいは「ノイズなし、チェックOK」程度の業務連絡。 そのために、人類は生まれ、文明を築き、そしてアンプは全財産と人生を棒に振ったのだ。

「傑作だ」アンプは涙を流しながら笑った。「最高にハイファイなジョークだ」

単時点的なさようなら

その時、タイタンの空が異様に明るくなった。 太陽の黒点活動が爆発的に活発化し、強力な磁気嵐が発生したのだ。

それは、波動として存在するラムフォードにとって致命的な「外来ノイズ」だった。

「おっと」ラムフォードが空を見上げた。「電源事情が悪化したようだ。電圧が不安定になっている」

彼の体が激しく明滅し始めた。ノイズ混じりの映像のように歪む。

「時間だ、コンセント君。私の役目は終わった。君たちはここで、好きな音楽を聴いて暮らすといい。サロが直った宇宙船で、地球のアーカイブから何でも再生してくれるだろう」

「待て! あんたはどこへ行くんだ!」

「どこへも行かないし、あらゆる場所へ行く。ただ、もう君たちの可聴域には留まれない」

ラムフォードの輪郭が崩れ、光の粒子へと変わっていく。 彼の傍らにいたサブウーファー犬のカザックも、ホワイトノイズの霧になって消えていく。

ラムフォードは最後に、アンプに向かって手を振った。 いや、手を振ったのではない。 彼は「ボリュームつまみ」を絞るような仕草をしたのだ。

Punctual厳密(単時点的)な意味において、さようなら」

そして、音がした。 UFOが飛び去るような音ではない。 それは、アンプの電源を切った時にスピーカーから出る、あの情けなくも虚しいポップノイズだった。

プッ(Pft.)

ラムフォードは消えた。 後には、タイタンの冷たい風の音と、サロのアイドリング音だけが残された。

アンプは、誰もいなくなった玉座(リスニングチェア)を見つめた。 そこにはもう、予言者も、支配者もいない。

彼はポケットから、あのRCA端子の写真を取り出した。 そして、それを破り捨てた。もう必要ない。 ここには「理想の端子」はないかもしれないが、少なくとも「ノイズ」は消えたのだから。

アンプは、ベアトリスとクロノの肩を抱いた。

「さて、音楽でも聴こうか。安物のラジオでいい。何かが鳴っていれば、それでいい」

サロが内蔵スピーカーから、静かに音楽を流し始めた。 それは完璧なハイレゾではなく、少しヒスノイズの混じった、温かみのある音だった。

エピローグ:インディアナポリスの幻聴

タイタンでの歳月

タイタンでの生活は、長く、そして驚くほどノイズレスだった。

ベアトリスは、残りの人生を執筆活動に捧げた。彼女が書いた本のタイトルは『真の目的:なぜ神はワッシャーを選び、ダイアモンドを選ばなかったのか』だった。もちろん、出版されることはなかったが、彼女はそれをサロの宇宙船のメモリーバンクに保存することで満足した。彼女は静かに老衰し、タイタンの永久凍土の下に埋葬された。墓標には、彼女が最後まで愛用した100均イヤホンが供えられた。

息子のクロノは、人間であることをやめた。 彼はタイタンに生息する巨大な「青い鳥」たちの群れに加わった。この鳥たちは、鳴き声として純粋な440Hz(ラ音)の正弦波を発することができた。クロノは彼らと共に空を飛び、宇宙の調律(チューニング)の一部となった。彼は二度と両親の元には戻らなかった。

残されたのは、アンプ(マラカイ)と、機械のサロだけだった。 二人は何年もかけて、サロの宇宙船をメンテナンスした。もちろん、例のワッシャーのおかげで、電源系統は絶好調だった。

「アンプ」ある日、サロが言った。「地球へ送りましょうか?」

「地球か」アンプは錆びついた手で顎を撫でた。「あそこには、もう俺の居場所はないだろうな」

「それでも、故郷です」サロのLEDが優しく点滅した。「それに、ここには酸素も残り少ない。あなたには、もっと濃い空気が必要です。低音を伝えるための空気が」

最後のバス停

アンプは地球に帰還した。 サロが彼を降ろしたのは、インディアナ州インディアナポリスの郊外にある、荒れ果てたバス停だった。 季節は冬。雪が降っていた。

アンプは年老いていた。彼の耳はもう、10kHz以上の高音が聞こえなくなっていた。 着ている服はボロボロで、火星軍の放出品だった。

「ありがとう、サロ」アンプは言った。「元気でな」

「あなたも」サロは答えた。「私はこれから、メッセージを届けにいきます。銀河の果てへ。『S/N比、良好』と伝えるために」

宇宙船は、音もなく上昇し、雪雲の彼方へ消えた。 アンプは一人残された。

寒い。 あまりにも寒い。 彼はバス停のベンチに座り込んだ。バスが来る気配はない。 時刻表を見ると、次のバスは「20万年後」となっていた。どうやら、ここもトラルファマドールの時間軸に侵食されているらしい。

アンプの意識が遠のき始めた。 低体温症だ。 だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、真空管アンプが温まったときのような、心地よい熱が体の芯から広がっていくのを感じた。

最高のシステム

その時、アンプは音を聞いた。 それは、雪が降る音ではなかった。遠くから近づいてくる、エンジンの音だ。

黄金色に輝くリムジンが、雪を蹴立ててやってきた。 リムジンの窓が開き、中から懐かしい顔が覗いた。

ストーニーだ。 火星で脳を焼かれたはずの、親友のストーニー・スティーブンソンだ。 彼は若く、健康的で、最高の笑顔を浮かべていた。

「乗れよ、アンプ!」ストーニーが叫んだ。「迎えに来たぜ!」

「ストーニーか? 生きていたのか?」

「ああ、生きてるさ! それより見ろよ、この車載システム!」

ストーニーは車内を指差した。 そこには、アンプがかつて夢見た、究極のオーディオシステムが鎮座していた。 ケーブルは極太の純銀線。 スピーカーはダイヤモンド・ツイーター。 アンプは真空管とトランジスタのハイブリッド。

「ここなら、最高の音が聴けるぞ」ストーニーは言った。「ノイズキャンセリングなんて必要ない。ここでは、世界そのものが音楽なんだ」

「そうか……」アンプは微笑んだ。「それはいいな」

アンプは立ち上がろうとした。 しかし、体は動かなかった。 それでも、魂だけが体から抜け出して、リムジンの後部座席に滑り込んだような気がした。

ドアが閉まる。 重厚で、密閉性の高い、高級車のドアの音。 バムッ。

その音は、完璧なバスドラムの音のように、アンプの胸に響いた。

「行こうぜ、天国へ」ストーニーがアクセルを踏んだ。

リムジンは光の速さで加速し、インディアナポリスの雪景色を置き去りにして、星空へと駆け上がっていった。 車内には、アンプが一番好きだった曲が流れていた。 ノイズはなく、歪みもなく、ただ純粋な喜びとしての振動だけがあった。

エピローグ・オブ・エピローグ

翌朝、警察官がバス停で老人の遺体を発見した。 死因は凍死。 身元を示すものは何もなかったが、ポケットの中に一枚の写真が入っていた。

それは、美しいRCA端子の写真だった。

警官はその写真を一瞥し、首をかしげた。 「なんだこれ? ただの金具じゃないか」

彼は写真をゴミ箱に捨てた。 そして、無線機で本部に連絡を入れた。

「こちらパトロール1。身元不明の遺体を発見。……どうぞ」

無線のノイズが、冬の空気に混じって、ザラザラと響いた。 それは、宇宙の背景放射と同じ音だった。

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