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【西遊記異聞】前世で三蔵を殺した沙悟浄が、今世であえて妊娠する水を飲ませる話

第一回 西域の荒野にて唐僧異変を生じ、赤紅の月下にて沙僧旧因を懐う

 砂を噛む蹄の音が、乾いている。

 鞍上の三蔵の背が、小さく揺れた。

 荒野を満たすものは、蹄の音と、遠くで鳴る風の音のみ。

 一行の列は間延びしていた。

 孫悟空は先刻より筋斗雲を駆り、遥か天空の黒点となっている。遅々とした地上の歩みに耐えられぬゆえ、妖魔の斥候という名目で飛び回っているのだ。

 猪八戒は殿しんがりにいる。荷の重さと腹の虫について、呪文のごとく愚痴を垂れ流しているが、その声も砂嵐に吸われ、私の耳までは届かない。

 いつもの配置である。

 私は白馬の手綱を取り、その左脇に影のごとく従う。

 我が役目は、荷運びにあらず、降魔にあらず。このひ弱な高僧が鞍から転げ落ちぬよう監視することにある。ゆえに私は、三蔵の呼吸すら数えられる位置にいる。

 吸気は浅く。

 呼気は、熱を孕んでいる。

 西域の風は、落日とともに急激に冷え込む。肌を刺す冷気の中にあって、三蔵のうなじのみが奇妙に湿っていた。

 汗だ。

 暑熱によるものでもなければ、疲労によるものでもない。粘り着くような、病的な脂汗が、僧衣の襟元に滲んでいる。

 数珠を繰る指先を見る。

 親指の腹が白むほど、菩提樹の実を強く押し込んでいる。カチ、カチ、と乾いた音を刻むはずが、時折その律が乱れる。指が滑っているのだ。汗ばんだ指先が珠を送り損ね、慌てて手繰り寄せる。その微かな焦燥を、私は無言で見つめる。

 魔ではない。

 私の鼻は、水気と妖気には聡い。付近に妖魔の巣窟はない。何より、悟空が降りてこぬのがその証拠だ。

 ならば、この乱れは三蔵自身の内より発している。

 腰の水袋に手をやる。

 軽い。残量は半分といったところか。次の緑州(オアシス)まで持つか否か。計算しかけて、指先が革の湿りを確かめただけで止まる。

 喉の渇きは確かにある。だが、今の三蔵が欲しているのは水ではないことを、私は知っている。

 空の色が変わる。

 稜線の彼方より、赤黒い光が滲み出してくる。

 月が出る。

 今宵は満月に近い。地平を割って顔を出した月は、血を吸ったごとく重く、大きく、荒野のすべてを圧殺せんばかりに低い。

 馬が小さくいなないた。

 鞍上にて、三蔵が身を縮めるのがわかった。

 彼は月を見ない。

 笠を目深にかぶり直し、視線を馬のたてがみの一点に縛り付けている。頭上の天体より隠れようとする、小動物の仕草に似ていた。

 月光が三蔵の背を射る。

 純白の僧衣が、禍々しい朱へと染まる。

 その刹那、三蔵の口より微かな呻きが漏れた。経を唱えんとして喉が痙攣し、音が形を成さなかったのだ。

 私は手綱を強く握る。

 知っている。この反応を、私は知っている。

 水は命を繋ぎ、水は難をも連れてくる。

 流沙河の底にて泥を啜っていた頃より、私はその両の面を見てきた。

 だが、空に座すあの「潮の主」もまた、水と同じく人を満たし、そして壊す。

 かつて、同じ月を見た記憶がある。

 その時、悟空はいなかった。八戒もいなかった。

 ただ二人で歩き、二人で止まり、二人で間に合わなかった旅路だ。

 あの時の僧も、こうして月を避けていた。

 体内に海など持たぬ人の身でありながら、月の律に引かれ、血液と体液が勝手に満潮を迎えてしまう。出口なき器の中で、水位のみが上がり続ける苦悶。

 今の三蔵の背に、かつて私が水底へ沈めた「あの僧」の影が重なる。

 呼吸の乱れ。

 数珠を握る指の震え。

 脂汗の匂い。

 すべてが同じだ。

 三蔵がふと、こちらを振り返る気配がした。

 私は視線のみを上げる。

 笠の下より覗く目は充血し、焦点が定まっていない。高僧としての理性で必死に輪郭を保ってはいるが、その奥処おくがにある瞳孔は、恐怖と熱で開ききっている。

「……悟浄」

 かすれた声であった。砂に喉を焼かれた声ではない。内なる熱に焼かれた声だ。

「水音が、聞こえませんか」

 私は耳を澄ます。

 風音に混じり、確かに微かなせせらぎが聞こえる。遠いが、確実に水がある。

 私は頷く。

「ええ。聞こえます」

「……飲める水でしょうか」

「川があります。水量も十分かと」

 私は事務的に答える。

 あれは子母河だ。西域の地図には記されぬが、水の匂いで知れる。

 あれはただの水ではない。

 世の理(ことわり)をねじ曲げ、女の腹にのみ宿るべき命を、強引に作り出す呪いの水源だ。男が飲めば、腹が裂けるほどの苦痛とともに、あり得ぬ胎児を抱えることとなる。

 それは災いである。

 常ならば、避けるべき難所である。

 三蔵が安堵の息を吐いた。

 その吐息が、甘い匂いを帯びていることに、本人は気づいていない。

 月が高くなるにつれ、彼の中の潮が満ちようとしている。このまま進めば、前世と同じ夜が来る。

 出口なき熱が、清浄な精神を食い破り、獣のごとき懇願を私へ向けさせる夜が来る。

 私は手綱を引き直す。馬の歩調を変える。

 川へ向かう。

 私は、あの水が何をもたらすかを知っている。

 だが、警告はしない。

「参りましょう、お師匠様」

 我が声は、自身でも驚くほど平坦であった。

「水へ急ぐのです」

 背後で八戒が「水だ、水だ!」と歓声を上げ、空より悟空が「お、やっと休憩か!」と舞い降りてくる気配がする。

 騒がしい旅だ。

 だが、この騒音こそが、今の我々を繋ぎ止める安全綱でもある。

 私は月を見上げぬよう、ただ水音のする方角へと足を向けた。

第二回 水底の月影は聖徳を驚動させ、体内の潮汐は凡身を困苦さす

 水辺へ着く頃、月は天頂に掛かっていた。

 子母河の水面は、鏡のごとく静まり返っている。

 西域の荒野を穿って流れるこの川は、周囲の渇きとは裏腹に、豊かすぎるほどの水量を湛えていた。水はあくまで澄み、川底の白砂さえも見透かせる。清冽にして無垢。

 だがその底知れぬ透明さは、毒を含む罠のごとく目に映った。

 馬を止める。

 三蔵が鞍から滑り落ちる。その足取りは重く、地を踏むたび、見えざる泥濘でいねいに足を取られるかのようだ。

 悟空が舞い降り、八戒が荷を放り出して川へ駆ける音がする。

「水だ! やっと生き返る!」

 三蔵がおぼつかない足取りで川岸へ歩み寄る。

 私は動かぬ。手綱を握ったまま、その背を見守る。

 彼は水際で膝をついた。

 震える両手を伸ばし、水をすくわんとする。

 指先が水面に触れる寸前、ピタリと止まった。

 水面に、満月が映っている。

 揺らぐことなき、真円の光。

 光を見た刹那、三蔵は火傷を恐れるように手を引込めた。

 水を避けたのではない。

 水底にある「月」を拒絶したのだ。

 その怯えの仕草が、記憶の底にあるせきを切った。

 この土地西梁女国では、月が近い。

 近すぎて、男の身には長居ができぬ。

 音が、遠のく。

 八戒の水音も、悟空の笑い声も、風の音さえもが、急速に色褪せていく。

 視界の端より、現世の色彩が剥落する。

 気がつけば、隣に猿はおらぬ。豚も消えた。

 あるは広大無辺なる砂の海と、天を圧する月のみ。

 あれは、いつの旅路であったか。

 我々は二人きりであった。

 護るべき者と、従う者。

 そのえにしだけが、果てなき荒野に細い線を描いていた。

 その夜も、月は近かった。

 三蔵の変調は、暮れ方より始まっていた。

 数日来、一滴の水すら口にしておらぬにも関わらず、その身体は湿り気を帯びていた。

 野営の支度を終え、読経のために座した背が、小刻みに震えている。

 経文を唱える声が、続かぬ。 「……観世音かんぜおん……南無……観世音……」

 言葉が途切れる。

 息継ぎのたび、喉の奥より空気が漏れるような、湿った音が混じる。

 私は焚き火の番をしながら、その背を見つめ続けていた。

 病にあらず。

 毒虫の仕業にもあらず。

 ただ、この土地の「律」が、身体に干渉しているのだ。

 三蔵が経本を取り落とした。

 紙束が砂上へ散らばる。拾わんとして伸ばした手が、自身の胸元を掻きむしるように握りしめられる。

「……悟浄」

 懇願するごとき視線が、私に向けられた。

 顔は紅潮し、目は潤み、唇は熱に浮かされ乾き、かつ濡れていた。

 高僧のかおではない。

 理性を剥ぎ取られ、剥き出しの神経のみで呼吸をする、哀れな獣のそうであった。

「熱が……引かぬのです」

 訴える声に、甘い粘り気が絡む。

「水を飲んでも、経を読んでも、身体の奥が……騒いで、止まぬのです」

 私は無言で立ち、手首を取った。

 脈を見る。

 速い。

 だが、ただ速いのみにあらず。

 寄せては返す波のごとく、大きなうねりを伴って血が奔流している。心臓の鼓動が、天上の月の運行と完全に同期しているのだ。

 満ち潮である。

 体内の水という水が、月の律に引かれ暴れている。

 これは、女のごうだ。

 子を産み、血を流し、月の満ち欠けと共に生きるさがならば、この律動を受け流すすべを身体が知っていよう。あるいは、宿した命を産み落とすことで、熱を外へと解放できよう。

 だが、三蔵は男である。

 種を撒く側なれど、畑となる機能は持たぬ。

 出口がないのだ。

 月の律は容赦なく身体を揺さぶり、満たさんとするが、満ちた熱を排する門が、どこにも存在せぬ。

 行き場を失せし衝動は、内へ内へと向かう。

 血管を押し広げ、内臓を圧し、骨の髄までを熱で浸していく。

 それは、終わりのない受胎の苦しみに似ていた。

 産むこと能わぬ臨月。

 決して訪れぬ出産を待ちわび、肉体のみが準備を完了させてしまっている矛盾。

「……何か、悪いものを食したのでしょうか」

 三蔵は帯をきつく締め直し、必死に震えを止めんとしていた。

「それとも、魔に魅入られたのか……」

 違う。

 私は首を横に振る。

 魔ならば、私が錫杖で砕けば済む。毒ならば、薬草で散らせば済む。

 だが、これは宇宙の呼吸だ。

 星が巡り、潮が満ちるのと同じ、理(ことわり)による強制だ。

 いかなる高僧とて、肉体という器に入っている限り、この法則からは逃れられぬ。

 祓うことなどできはせぬ。

 月を空より撃ち落とせぬ限り、この侵食は止まらぬ。

 三蔵がふらりと立ち上がらんとして、膝から崩れ落ちた。

 砂に手をつき、荒い息を吐く。

 吐息が、夜の冷気の中で白く濁る。

 支え起こさんとして触れた肩の熱さに、私は指を引込めそうになった。

 火のごとき熱ではない。

 熟れきった果実が、内側より腐敗していく直前に放つ、濃厚な発酵の熱だ。

 清潔で、禁欲的で、誰よりも戒律を重んじる僧が、ただそこに在るだけで、淫靡な香りを撒き散らしている。

 その事実は、いかなる妖怪の責め苦よりも、彼の尊厳を深く傷つけていた。

 三蔵は泣いていた。

 恐怖ゆえか、屈辱ゆえか。

 涙さえもが、月光を受けて真珠のごとく光り、意図せぬ美しさを助長している。

「悟浄……」

 彼は私の袖を掴んだ。

 力は弱々しく、しかし爪が食い込むほどに必死であった。

「助けてくれ……」

 その言葉が求むるは救済か、あるいはそれ以外か。

 私にはわかっていた。

 そして、夜が明けるまでに、私が何をなさねばならぬかも、予感していた。

 夜風が止む。

 静寂が、耳鳴りのごとく鼓膜を圧する。

 世界には私と、熱に浮かされた僧と、空にある月しかいない。

 閉じた回路だ。

 逃げ場は、どこにもなかった。

第三回 戒律を護らんとして悲僧介錯を求め、水底に沈めて冷従清身を奉る

 月は天心を過ぎた。されど熱は引かぬ。

 夜の深まりに合わせ、その潮位は上がり続けていた。

 三蔵はもはや座すことあたわず。

 砂上へ横たわり、我が膝に頭を預け、荒い息を繰り返している。

 僧衣は汗に濡れそぼり、肌に張り付く。透けたる肌はとうの色を帯び、血管の一筋までもが脈打ち、内なる圧力に悲鳴を上げているかのようだ。

 手桶の水に浸した布を絞り、額へ置く。

 じゅう、と幻聴がするほどの熱量。

 冷たい布も、刹那にして体温に奪われ、生ぬるい湿り気へと変わる。

 何度繰り返そうと無為。

 焼け石に水。

 否、これは内より湧き出る泉だ。湧水ゆうすいみなもとを絶たぬ限り、溢るる熱を止めるすべはない。

 唇が動いた。

 譫言うわごとのごとく、経の一節が漏れる。

「……色即是空……受想行識……亦如是やくにょぜ……」

 だが、声はと切れと切れで、意味を成さぬ。

 音韻は乱れ、聖なる言葉が、甘美な喘ぎへと変質している。

 三蔵自身、それが耐え難いのであろう。

 己が喉を掻きむしり、声を封じんとして爪を立てる。白き肌にあけの筋が走り、血が滲む。

 痛みでさえも、今の彼にはたきぎとなり、熱を煽るばかり。

 苦痛に歪むそうと、快楽に緩む相が、同居している。

 聖と俗。 浄と不浄。

 その境界が、月下にて溶け合い、混濁していく。

 布を洗う。

 指先が凍える夜気の中、手桶の水のみが、あるじの熱を吸ってぬるんでいる。

 祈りはせぬ。

 神仏にすがるは、我が性分にあらず。

 ただ、事実を視るのみ。

 このまま夜明けを待たば、如何いかん

 熱は脳を焼き、理性を灰燼かいじんと帰すであろう。

 あるいは、出口なき衝動が肉を裂き、精神を狂気の彼岸へと押し流すであろう。

 明日、陽が昇りし時、そこに在るは高僧・三蔵法師にあらず。

 欲望にまみれ、戒律を破り捨てた、壊れた器だ。

 それは死よりも深く、彼を殺すこととなる。

 手首を掴まれた。 熱い。

 骨まで響く熱さだ。

 見下ろせば、潤んだ瞳がわずかに焦点を結び、私を射抜いていた。

 眼光のみが、奇跡のごとく澄んでいる。

 最期の理性が、本能の濁流に抗い、水面に顔を出したのだ。

「……悟浄」

 名を呼ぶ声が、震えている。

「……終わらせてくれ」

 懇願であった。

 救済を求めるにあらず。

 介錯を求める、武人のごとき響きがあった。

「このままでは……私は、仏弟子でいられなくなる」

 指の力が強まる。

「私が私であるうちに。……清浄なまま、かえしてくれ」

 言葉を、咀嚼する。

 拒絶のげんを探す。

 朝まで耐えれば。冷やし続ければ。

 だが、口は動かぬ。

 知っているのだ。

 この月の律が、朝まで続かぬことを。精神がそこまで保たぬことを。

 彼が恐れるは死にあらず。

 「破戒」だ。

 己が身の生理によって、信仰を汚されることだ。

 防ぐ手立ては、一つのみ。

 彼の時間を、ここで止めることだ。

 布を手桶に戻した。

 水音が、静寂に響く。

「……承知」

 声は低く、平坦であった。

 逡巡はない。

 これは殺人に非ず。

 奉納である。

 けがれなき魂を、穢れなきまま天へ還す、最後の儀式である。

 抱き上げる。

 軽い。

 枯れ木のごとく痩せたむくろは、熱だけを孕んで重く感じるが、実体は羽毛のごとくはかない。

 三蔵は抵抗せぬ。

 むしろ安堵したように力を抜き、我が肩に額を預ける。

 吐息が耳にかかる。 甘いが鼻孔をくすぐるも、もはや惑うことはない。

 近くに、古井戸があったか。

 あるいは、砂漠に点在する泉であったか。

 水面は黒く、月のみを映している。

 水辺に立つ。

 降ろすことはせぬ。

 抱いたまま、水面を見下ろす。

「冷たうございますよ」

 呟けば、かすかに頷く気配。

「……構わぬ」

 それが、最期の言葉となった。

 水音がした。

 飛沫しぶきは上がらぬ。

 静かに、重石を沈めるごとく、水へ入った。

 冷気が足元より這い上がり、腰を浸し、胸へと至る。

 三蔵の身が、水に触れて震える。

 だが、震えはすぐに止まった。

 沈める。

 抵抗はない。

 手が首に掛かったのか、あるいはただ抱いたまま底へ誘ったのか。

 記憶は定かならず。

 ただ、水中にて目を開けた顔が、月光を受け白磁のごとく輝いていたことのみを覚えている。

 苦悶は消えていた。

 熱も、渇きも、衝動も。すべてが冷水に洗われ、剥がれ落ちていく。

 口元より銀色の気泡が漏れ、月の方へと昇っていく。

 それが魂であるかのように。

 やがて、動かなくなった。

 腕の中にあるは、ただの器。

 美しく、清らかで、もはや何人なんぴとも汚すこと能わぬ、永遠の沈黙。

 それを、水底の砂地へ横たえる。

 僧衣の裾が、水流に揺れて花のごとく開く。

 一人、水面へと戻る。

 顔を出せば、変わらぬ月があった。

 風が吹いている。

 濡れそぼった体は冷え切っているはずだが、寒さは感じぬ。

 ただ、重い。

 水底に沈めたはずの荷が、見えざる鎖となり、全身に巻き付いている。

 三蔵は死して戒を守った。

 私は生き残り、あるじを殺める大罪を犯すことで、その戒を守らせた。

 彼は清浄のまま逝き、私はごうという泥を被って残された。

 この非対称。

 取り返しのつかぬ断絶。

 濡れた髪をかき上げ、月を睨む。

 月は答えず。

 ただ冷酷な光を降らせ、水面の波紋を消し去るのみ。

 岸辺に座し、夜明けを待つ。

 経は読まぬ。

 弔いの言葉も吐かぬ。

 ただ、この重みのみを記憶に刻む。

 それが、我が受けるべき報いであるかのように。

第四回 毒水を飲みて沙僧小禍を選び、邪胎を懐きて八戒滑稽を添う

 水音に、耳を打たれる。

 まぶたを開けば、そこにあるは月下の水底にあらず。

 現世の川辺であった。

 八戒が水を跳ね上げ、悟空が岩上にて宙返りを打っている。

 生臭く、騒々しく、泥にまみれた生者の営み。

 手綱を握り直す。

 てのひらに食い込む革の感触が、ここが「あの夜」にはあらぬことを告げている。

 眼前に、子母河が流れている。

 水はあくまで澄み、月光を砕いて煌めく。

 三蔵が、渇きに耐えかね振り返った。

「悟浄、水は……」

 眼は充血し、唇はひび割れている。限界であった。

 腰の水袋には触れぬ。

 代わりに、川を指し示す。

「あちらです、お師匠様。清らかな水がございます」

 虚言にあらず。

 物理的には清浄な水だ。ただ、その性質が人の理(ことわり)を外れているのみ。

 知っているのだ。

 この水を飲まば、如何いかなる事態が招かれるかを。

 男の腹に胎児が宿り、五臓六腑を圧し、血肉を分かち与える苦痛が始まる。それはあきらかなる災厄。常ならば、命を賭してでも止めるべき毒水である。

 だが、動かぬ。

 脳裏には、先刻まで見ていた前世の記憶が焼き付いている。

 出口なき熱。

 排する門を持たぬがゆえに、内側より精神を食い破られた末路。

 それに比ぶれば、此度こたびの災いは如何ほどか。

 妊娠。

 すなわち、形ある異物を腹に抱え、それを外へと排する道筋がついている状態。

 出せるのだ。

 苦痛は伴うとも、腹を裂くかもしれぬとも、「出口」がある。

 救いにはあらず。

 されど、破滅の規模においては、遥かに小さい。

 三蔵が川辺へ膝をつく。

 椀を取り出し、水をすくう。

 月が水面に揺れているが、今の彼はそれに怯えぬ。渇きが恐怖を凌駕しているのだ。

 喉が鳴る。

 一息に飲み干し、ふう、と息をつく。

「……甘露だ」

 三蔵は微かに笑んだ。

 その笑顔を見ても、心は波立たぬ。 さいは投げられた。

 毒は回った。

 あとは、その発露を待つのみ。

 異変は、ときを置かずして訪れた。

 まず八戒が腹を押さえ、呻いた。「アイタタタ……こりゃあ何だ、腹の中でうりが暴れてるようだぞ」

 豚の顔色が、見る間に青ざめていく。

 続いて、三蔵が椀を取り落とした。

 カラン、と乾いた音が岩場に響く。

 三蔵は己が腹を鷲掴みにし、脂汗を流してうずくまった。

「……痛い」

 漏れる声は、前世のあの艶めいた喘ぎとは異なる。

 もっと即物的で、生物的な激痛の訴えだ。

「腹が……腹の中に、何かが……!」

 見る間に、二人の腹部が膨隆ぼうりゅうを始める。

 法衣が内より持ち上がり、帯が悲鳴を上げてきしむ。

 あたかも臨月の妊婦のごとく、腹が競り出してくる。

 三蔵は狼狽した。

 無理からぬこと。身に覚えのなき懐妊。男の身にあるまじき変容。

「どういうことだ! 私は何もしておらぬ! 戒を破った覚えなどない!」

 錯乱し、叫ぶ三蔵。

 だが、そこには前世のごとき「宇宙的孤独」も、耽美な悲壮感もなかった。

 なぜなら、隣に同じ腹を抱えた豚がいるからだ。

「ブヒィッ! 師匠、俺もだ! 産まれる、何か産まれるぅ!」

 八戒が腹を抱えて転げ回る。その滑稽なる姿が、三蔵の悲劇性を中和し、霧散させていく。

 神秘の欠片もなし。

 ただの物理的なトラブルだ。

 前世では、あれほど美しく、恐ろしかった「月の律」が、現世においてはこれほどまでに下世話な喜劇へとするのか。

 悟空が、岩より飛び降りた。

 二人の腹を見て、目を丸くし、次いで手を叩いて笑い出した。

「あはは! こりゃ傑作だ! 師匠、赤子ができちまったか!」

 不敬極まりない笑い声。

 だが、その明るさが、夜の冷気を吹き飛ばす。

「笑い事ではありません!」

 三蔵が涙目で睨みつける。

「悟空、なんとかしなさい! お前の術で、この……これを、祓えぬか!」

「術じゃあ無理だなぁ。そりゃあ本物の腹だ」

 悟空は三蔵の膨れた腹を、物珍しそうに小突く。

「だがまぁ、泣くなよ師匠。水でなったもんなら、水で流せるかもしれねぇ。土地の神に訊いてきてやるよ」

 なんとかしなさい、と三蔵は言った。

 訊いてきてやる、と悟空は答えた。

 そのやり取りこそが、前世になかったものだ。

 解決の糸口がある。

 動ける手足がある。

 内へ内へと沈みゆくしかなかったあの夜とは違う。

 三蔵は痛みに顔を歪めながらも、死ぬ気配はない。

 八戒は大げさに泣き喚いているが、食あたり程度の認識であろう。

 三蔵の背に手を添える。

 掌に伝わる熱は、あの夜のごとき腐敗の熱にあらず。

 生命の熱だ。

 たとえそれが、望まぬ形での受胎であろうとも、死へ向かう冷たさよりは遥かにマシだ。

 内心にて頷く。

 これでよい。

 尊厳は傷ついたかもしれぬ。

 男が子を孕むなど、高僧の経歴における最大の汚点かもしれぬ。

 だが、生きていればこそだ。

「悟空」

 初めて口を開く。

「解毒の水があるはずだ。探してこい」

「おうよ! 任せとけ悟浄、師匠の腹が破裂する前に戻ってくらぁ!」

 悟空が筋斗雲を呼び、矢のごとく夜空へ消えていく。

 その光跡を見送り、視線を三蔵へ戻す。

 彼は腹の重みに耐えかね、四つん這いになり、荒い息を吐いている。

 無様だ。

 実に無様で、騒がしく、生き汚い。

 ゆえに、この周回は「正解」なのだ。

第五回 孫行者水を取りて邪胎を解き、沙和尚珠を撫でて孤心を守る

 風が鳴る。

 夜空を裂き、筋斗雲が舞い戻る。

 悟空が手桶を提げ、岩場へ飛び降りた。

「待たせたな! 落胎泉(らくたいせん)の水だ!」

 桶の中には、白濁した水が波打っている。

 悟空はそれを椀に分け、まず八戒へ、次いで三蔵へとあてがった。

 八戒はひったくるように椀を奪い、喚く。

「ぶひぃ、早く! 早くくれ! 腹が裂ける!」

 その醜態を、冷ややかに見下ろす。

 そもそも、何ゆえこの豚までが腹を膨らませているのか。

 三蔵は渇きゆえ、不可抗力にて水を求めた。されど八戒は、ただ卑しき欲にて水を貪り、その報いとして孕んだ。

 聖僧の受難に、豚の喜劇が混じる。

 呆れるほかなし。

 だが、この夾雑物きょうざつぶつこそが、現世の守りかもしれぬ。

「ほら、師匠も一気に飲みな。腹の中の『客』が出ていくぜ」

 三蔵は蒼白なおもてで頷き、震える手で椀を受けた。

 躊躇ためらいなし。

 高僧の威厳も、体裁も、今は顧みるに及ばず。ただ腹を食い破らんとする異物を、一刻も早く排せんと喉を鳴らすのみ。

 飲み下す。

 効験、てきめん。

 数刻の後、三蔵と八戒は激痛に襲われ、岩陰へと駆け込んだ。

 生々しき排泄の気配。

 肉体的なる屈辱。

 されど、そこに死の臭いはない。

 あるは、生の泥臭さと、滑稽なる安堵のみ。

 やがて戻りし二人の腹は、憑き物が落ちたごとくしぼんでいた。

 三蔵は精根尽き果て、河原の砂上へくずおれた。

「……助かったのか」

 呟きは、風にかき消されんばかりに細い。

「ああ、助かったさ」

 悟空が笑い、その肩を叩く。

「災難だったな、師匠。だがまあ、腹が裂けるよりはマシだろ」

 三蔵は答える気力もなく、泥のごとく眠りへと落ちた。

 八戒もまた、「腹が減った」と一言残し、高いいびきをかき始めた。

 騒動は去った。

 再び、静寂が川辺を支配する。

 焚き火をおこし、三蔵の寝顔を見下ろす。

 眉間の皺は深く、脂汗のあとが残る。

 美しくはあらず。

 前世の夜、水底へ沈めた顔のごとき、透徹な神聖さは微塵もない。

 薄汚れ、やつれ、生への執着を晒した人間の顔だ。

 だが、息をしている。

 胸が上下し、心臓が脈打ち、温かい血が巡っている。

 一人、川岸へ立つ。

 仰げば、月は西へ傾きかけていた。

 前世、あの月が三蔵を殺した。

 逃げ場なき熱を注ぎ、器を内より壊した。

 今世こんじょう、水が三蔵を孕ませ、そして別の水がそれを流した。

 毒を以て毒を制す。

 水を以て水を流す。

 なんたる即物的な解決か。

 そこには神秘も、ごうも、悲劇の入る隙間なし。ただ事象が起き、処理されたという事実のみが残る。

 懐より、手桶を取り出す。

 汲み置きし清水しみずなり。子母河の水にあらず、落胎泉の水にもあらず。ただの、渇きを癒やすための水だ。

 戻りて、眠る三蔵の枕元へ置く。

(飲まれよ)

 声には出さず、念じる。

(目覚めれば、喉が渇いておられよう)

 彼は飲むであろう。

 腹痛を忘れ、恥を忘れ、生者の欲求として水を求めるであろう。

 それでよい。

 焚き火のかたわらに座す。 無意識のうち、指が首元へと伸びる。

 硬く、冷ややかな感触。

 九つの髑髏ドクロを連ねた首飾りだ。

 私はその一つを指先で弾き、炎を見つめたまま条件を反芻はんすうする。

 一つ、悟空がいる。 難を外へと蹴り出す力がある。

 一つ、八戒がいる。 恥辱を笑いへと変える図太さがある。

 そして、九つの死を首に下げ、それを記憶する私がいる。

 水底の記憶を抱き、最も浅き傷で済む道を選び取る、監視者がいる。

 ゆえに、このたびは死なぬ。 首飾りのたまが、十個になることはない。

 清浄なるまま砕け散ることも、美しき伝説となることもない。

 ただ泥にまみれ、老い、無様に生き延びて、天竺へと辿り着くのだ。

 水面みなもには、月が映っている。

 揺らぐ月影は、かつて沈めた三蔵の魂にも似ていた。

 救われたのは、岸辺で眠る三蔵。

 救われぬまま、記憶という重石を背負い続けるのは、私。

 この断絶こそが、我が受けるべきいましめ

 手綱を握る感触を確かめる。

 夜明けは近い。

 また、騒がしい旅が始まる。

 表情を消し、事務的な顔を作って、東の空を睨んだ。

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