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薬(ヤク)とセックスと重低音の街で、俺だけがシラフで君を愛す #潮騒 #レゲエ #三島由紀夫

Chapter 1:重低音とスラックネス

 キングストンの夜は、粘りつくような湿気と、焦げたゴムの臭い、そして甘ったるい死の予感から始まる。

 ダウンタウンの最深部、トタン屋根とコンクリートブロックが迷路のように入り組んだ一画(ギャリソン)で、巨大なサウンドシステムが咆哮を上げていた。

 ズン、ズン、ズン、ズン。

 積み上げられたスピーカーの壁は、さながら現代の黒いトーテムポールだ。漆黒のボックスから吐き出される重低音(ベースライン)は、聴覚で捉える「音」というより、鳩尾みぞおちを直接殴りつける物理的な暴力に近かった。

 空気が圧縮され、解放されるたびに、路上の埃が舞い上がり、密集した群衆の汗ばんだ肌が小刻みに震える。

 ここは「スラックネス(卑猥)」の聖域だった。

 頭上には盗電によって引かれた無数の電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、頼りない裸電球と、安物のストロボライトが明滅している。その光と影の明滅の中で、数百の若者たちは理性をとっくに捨て去っていた。

 空気は酸素よりも、ガンジャ(大麻)の煙の成分の方が濃いのではないかと思えるほどに白濁している。脳髄を痺れさせる紫煙。そこにジャークチキンの脂が焼ける匂いと、何百人もの男女の体液の匂いが混ざり合い、呼吸するだけで酩酊(ハイ)になりそうな瘴気を生み出していた。

「ワ・グワン(調子はどうだ)、キングストン !! 今夜はスラックネス(卑猥)全開で行くぜ! 恥ずかしがってる場合じゃねえ!  おいそこのバティ・ライダー(ケツ丸出しのパンツ)の姉ちゃん、もっと激しくワイニング(腰を振れ)してくれよ! 俺のリディム(ビート)でイカせてやるからよ、Zeen?(わかったか?)」

 フロアの中央では、極限まで布面積を減らした「バティ・ライダー(極小のホットパンツ)」を履いた女たちが、獲物を狙う獣のような目つきで腰を振っている。

 彼女たちの踊りは求愛ではない。挑発であり、戦闘だ。

 通りすがりの男を捕まえては、その股間に巨大な尻を叩きつける。あるいは逆立ちをして開脚し、その間に男が入り込んで腰を打ち付ける。

 衣服を纏っていることを除けば、それはまさしく公然たるセックスそのものだった。誰もがビートと薬草(ハーブ)の力でトランス状態に陥り、倫理のたがを外して、生のエネルギーを撒き散らしている。

 どこかで男が粗悪なコカインを鼻から吸い込み、獣のような叫び声を上げて空へ向かって指鉄砲を撃つ。

「Bumbooclaat!(クソったれ最高だぜ!)」

 そんな混沌の縁で、サイレントは黙々と仕事をしていた。

 彼はこの界隈では珍しく、目が澄んでいた。

 十八歳。カリブの太陽を限界まで吸い込み、これ以上ないほどに磨き上げられた肌と、この島の民(ルーツ)の誇りを感じさせる形のよい鼻、そして潮風でひび割れた唇を持っていた。海風と労働によって鍛え上げられたその肉体は、夜闇の中でも黒曜石のように鈍く光っている。

 彼は昼間は運び屋(ボートマン)として沖合の仕事に従事し、夜はこのサウンドシステムの設営スタッフ(ボックスマン)として小銭を稼いでいた。

 サイレントは、巨大なサブウーファーのボックスをたった一人で抱え上げた。普通なら大人二人で運ぶ重量だ。上腕二頭筋が鋼鉄のように隆起し、首筋に太い血管が浮き上がる。

 彼はこの熱狂の中にいながら、孤独だった。

 周囲の男たちが安易な快楽——ケミカルな薬物や、ピーチ烏龍茶レゲエパンチ、そして金で買える女——に溺れ、ふらふらと千鳥足になっている中、彼はラスタファリの教え(アイタル)を胸に秘め、仕事中は酒もドラッグもやらず、ただリズムだけを身体に入れていた。彼の「ハイ」は、筋肉の疲労と重低音の共鳴によってのみもたらされる、もっと純度の高い覚醒状態だった。

「おい、サイレント! 遅えぞ、そのスピーカーを左に向けろ! 客の鼓膜を破ってやるんだよ!」

 DJブースの高い場所から、金切り声が飛んできた。

 ゴールディだ。

 地区を牛耳る組織の幹部の息子であり、自称・人気セレクターの彼は、首に分不相応な太さのゴールドチェーンを巻き、汗と脂で顔をテラテラと光らせていた。その瞳孔は薬物の影響で開ききっており、落ち着きなくマイクを握りしめ、下品な煽り文句を喚き散らしている。

 サイレントは何も言い返さず、ただ黙ってスピーカーの位置を調整した。彼にとってゴールディのような男は、バビロン(腐敗した社会)の毒そのものだったが、仕事である以上は従う。それが彼の美学だった。

 その時だった。

 リディム(楽曲)が変わった。

 それまでの攻撃的なダンスホール・ビートから、少しテンポを落とした、湿度のある重いダブ・ミックスへ。

 そして人垣が割れた。

 モーゼが海を割ったのではない。恐怖と、ある種の圧倒的な「華」が、道を空けさせたのだ。

 スモークの向こうから、ボディガードを従えてフロアに入ってきたのは、この地区の支配者ドン・テリーの一人娘、エンジェルだった。

 サイレントは、作業の手を止めた。

 彼女は、この薄汚いゲットーにはあまりにも似つかわしくない、磨き抜かれた真珠のような存在に見えた。留学先から戻ったばかりだという噂の通り、身につけている白いメッシュのドレスは洗練されていて、肌もよく手入れされている。

 だが、その瞳には、父親譲りの冷酷さと、カリブ海の嵐のような激しさが同居していた。

 ゴールディが慌てて曲を変え、媚びへつらうようなMCで彼女を歓迎しようとした。

「Yo, Yo! 俺たちのプリンセスのお帰りだ! こっちに来て、俺のゴールデン・マイクを握りなよ!」

 下卑たジョークに周囲が湧く。だが、エンジェルは彼を一瞥もしなかった。

 周囲のギャリス(女たらし)どもが口笛を吹くが、彼女は無視して、黙々とスピーカーを運ぶサイレントの前で足を止める。

 重低音が二人の鼓膜を揺らす。

 サイレントの額から滴り落ちた汗が、コンクリートに染みを作る。

 エンジェルは、まるで汚いものを見るかのように目を細めたかと思うと、次の瞬間、微かに鼻をひくつかせた。彼女は、コロンや整髪料の匂いではなく、潮と労働の匂いを嗅ぎ取ったのだ。

 彼女の身体が、リズムに合わせて小さく波打った。

 それは、フロアの女たちがしているような下品なワイニング(腰振り)ではなかった。背骨の芯から揺れるような、もっと根源的な、まるで海藻が波に揺れるような、しかし激しい、まるでオーシャン(潮騒)のような動き。

 ドレスの下にある、熱い血流が見えるようだった。彼女の中にもまた、このゲットーの血──抑圧された怒りと、爆発的な性への渇望──が流れているのだ。

 ふと、エンジェルが顔を上げた。

 スピーカーを肩で抱えたまま、暗がりで立ちつくす男。

 周囲の男たちが彼女を貪るような目で見つめる中、ただ一人、静かな瞳で、まるで沖合の水平線を見るように彼女を見つめている男。

 視線が合った。

 重低音が一瞬、遠のいた気がした。

 紫の煙が二人の間で揺らめく。

 言葉はない。名前も知らない。

 だが、その視線が交錯した瞬間、サイレントの太い腕の産毛が逆立った。それは彼が嵐の前の海で感じる、あのヒリつくような予感と同じだった。

「……重くないの?」

 不意に、エンジェルが口を開いた。重低音にかき消されそうな、しかし鈴を転がしたような声。

 サイレントはスピーカーをゆっくりと地面に下ろした。地響きがした。

「重くねえ」

 彼は短く答えた。嘘だった。肩には赤い痣ができているはずだ。だが、彼女の前では、地球そのものを背負うことだってできる気がした。

 エンジェルは小さく笑った。それは嘲笑ではなく、共犯者のような微笑みだった。

 その光景を、ブースの上からゴールディが忌々しげに睨みつけていることに、二人はまだ気づいていない。

 夜はまだ始まったばかりだ。どこかでパトカーのサイレンが鳴り、誰かが空に向けて威嚇発砲をした。乾いた銃声(ガンショット)が、二人の運命の幕開けを告げる合図のように、キングストンの夜空に響き渡った。

Chapter 2:失くした“ブツ”と仁義

 カリブ海の太陽は、慈悲など持ち合わせていない。

 翌日のキングストン・ダウンタウンは、腐った果実と排気ガス、そして焦げたアスファルトの臭いが立ち込める、逃げ場のない蒸し風呂だった。

 サイレントの「表向き」の仕事は漁師の手伝いだったが、その実態は、沖合に停泊するコロンビア船籍の母船から、小型ボート(ピローグ)で“荷物”を陸揚げする「運び屋(ボートマン)」だ。

 観光客が目を輝かせるエメラルドグリーンの海の下には、サメよりも獰猛なビジネスが潜んでいる。

 その日の仕事は過酷だった。

 突然の沿岸警備隊(バビロン)の巡回。サイレントはエンジンを切り、マングローブの根元にボートを隠し、三時間も息を潜めてやり過ごさなければならなかった。全身を蚊に食われ、喉は渇ききっていた。

 ようやく陸に戻り、ボスであるドン・テリーへの上納金と取引記録が入った防水ポーチを懐にねじ込んで、彼はゲットーへの急な坂道を登っていた。

 トラブルは、市場の雑踏で起きた。

「Babylon!(サツだ!)」

 誰かの叫び声とともに、武装した警官隊が抜き打ちの捜索になだれ込んできた。

 群衆がパニックを起こして逃げ惑う。サイレントはとっさに近くの屋台の陰に飛び込み、腐った野菜の山を這いずって包囲網を抜けた。

 ようやく安全圏であるアジトの路地裏までたどり着いた時、彼の顔色が変わった。 

 ない。

 腰のベルトに挟んでいたはずの、防水ポーチがない。逃げる際の揉み合いで、バックルが弾け飛んだのだ。

 血の気が引いた。

 ポーチに入っているのは数千ドル分のジャマイカ・ドルと米ドル、そして顧客リストだ。金だけなら、自分の臓器を売ってでも返せるかもしれない。だが、リストは違う。それが警察や敵対組織の手に渡れば、組織(ファミリー)は終わる。

 その代償は、死だ。それも、古タイヤを首にかけて燃やされる、とびきり苦痛に満ちた処刑だ。

 サイレントは来た道を駆け戻った。

 心臓が早鐘を打つ。筋肉の疲労も忘れ、血走った目で地面を這うように探す。

 だが、ない。

 絶望が喉元までせり上がってきた。

 彼は喉の渇きを癒やすため、そして死ぬ覚悟を決めるために、スラムの入り口にある共同水汲み場(スタンドパイプ)へと足を向けた。

 水汲み場には、黄色いポリタンクを持った女たちが長い列を作っていた。断水が日常茶飯事のこの地区では、水は金と同じくらい貴重だ。

 その列のそばに、一人の女が立っていた。

「探してるのは、これ?」

 背後から声がした。

 サイレントはバネ仕掛けのように振り返り、懐のナイフに手を伸ばしかけた。

 そこに立っていたのは、エンジェルだった。

 昨夜のクラブでの扇情的なドレス姿とは打って変わり、今日の彼女はシンプルなタンクトップに、色落ちしたデニムのショートパンツ姿だった。濡れた髪を無造作にかき上げ、足元には満タンになった大きなポリタンクが置かれている。彼女もまた、この不便な街の住人として水を汲みに来ていたのだ。

 その手には、泥に汚れた防水ポーチが握られていた。

 サイレントは息を飲んだ。

 彼女は中身を見たはずだ。札束と、裏帳簿。それが父親の汚い商売の証拠であることも。

「よこせ」

 サイレントは低く唸った。声が震えないように必死だった。「それは俺のものだ」

「嘘つき」

 エンジェルは悪戯っぽく唇を尖らせた。「これ、パパ(ドン・テリー)の『集金』でしょ? あんた、これを落としたってバレたら、コンクリート詰めになってキングストン湾の底よ」

 彼女の言う通りだった。サイレントはナイフから手を離し、覚悟を決めたように彼女を睨みつけた。

「そうだ。だから返してくれ。俺にはまだ、死ねない理由がある」

 家族のこと、病気の母のこと。命乞いの材料はいくらでもあったが、彼は言わなかった。ただ真っ直ぐに彼女の目を見た。

 エンジェルは、サイレントの瞳をじっと覗き込んだ。

 周囲の男たちのような、欲に濁った目ではない。ドラッグで黄ばんだ目でもない。

 そこにあるのは、研ぎ澄まされた刃物のような静寂と、奇妙なほどの潔癖さだった。

「……ゴールディみたいなクズなら、ネコババして逃げるわね」

 彼女はふっと笑うと、ポーチを放り投げた。

 サイレントは空中でそれを受け止める。ずっしりとした重み。中身は手付かずだ。

「なんでだ」

「あんた、目が綺麗だから」

 彼女はそっけなく言った。「それに、昨日の夜、誰よりも真面目に働いてた。汗の匂いがする男は嫌いじゃないわ」

 エンジェルは足元の巨大なポリタンクを持ち上げようとした。二十リットルはある。細い腕には過酷な重さだ。

 サイレントは無言でポーチを懐にしまうと、彼女の手からタンクをひったくった。

「家まで運ぶ」

「いいわよ、そんなの」

「借りは作りっぱなしにできねえ」

 二人は夕暮れのゲットーを歩いた。

 トタン屋根の家々からは、夕飯の豆を煮る匂いと、どこからか流れるボブ・マーリーの『Waiting in Vain』が聞こえてくる。

 サイレントの肩には重いタンクが食い込んでいたが、不思議と苦痛ではなかった。隣を歩く彼女から漂う、ココナッツオイルと体温の甘い匂いが、路地の悪臭を上書きしていく。

 道中、たむろしていたチンピラたちが野次を飛ばそうとしたが、エンジェルが鋭い視線を向けると、すごすごと黙り込んだ。

 丘の上にあるボスの屋敷の前で、サイレントはタンクを下ろした。

 別れ際、エンジェルは彼の耳元に顔を寄せた。

  「今度の満月の夜」

 彼女は囁いた。吐息が耳にかかり、サイレントの背筋に電流が走る。

「ポート・ロイヤルの古い要塞(オールド・フォート)を知ってる? 崖の上の、廃墟になった監視塔」

「ああ……誰も近づかない場所だ」

「そこで待ってる。パパの目も届かない場所よ」

 それは、ただの逢瀬の誘いではなかった。組織(ファミリー)の掟を破る、共犯への招待状だ。

「……ちゃんと火を持ってきて」

 彼女は意味ありげに微笑むと、門の向こうへと消えていった。

 サイレントは一人、残された。

 懐のポーチの重みと、耳に残る彼女の声。

 空を見上げると、カリブ海の彼方からどす黒い雲が湧き上がってきていた。気象予報では大型のハリケーンが近づいていると言っていた。

 彼は知っていた。この嵐が来る時、もはや自分はただのボートマンではいられないことを。

 体の中で、重低音のような熱いリズムが脈打ち始めていた。

Chapter 3:紫の煙と“寸止め”の儀式

 カリブ海が吠えていた。

 カテゴリー4の巨大ハリケーン「ダフニス」がジャマイカ島に牙を剥き、キングストンの街は横殴りの暴風雨に晒されていた。ヤシの木が鞭のようにしなり、トタン屋根が紙屑のように空を舞う。

 バビロン(警察)さえも署に閉じこもるような嵐の夜。

 ポート・ロイヤルの外れ、かつてイギリス軍が海賊や奴隷を監視するために築いた古びた要塞(オールド・フォート)。今は崩れかけた石壁に極彩色のグラフィティが描かれ、ヤギの糞と注射器が散らばる廃墟だ。

 その石造りの監視塔の中に、サイレントはいた。

 彼はエンジェルの言いつけ通り、防水シートに包んで運んできた乾いた流木と、古いタイヤの切れ端を積み上げていた。

 マッチを擦る。シュボッという音と共に、オレンジ色の炎が生まれた。タイヤのゴムが燃える黒い煙と、木が爆ぜる音が、湿った石室に響く。

「……来たのね」

 雨のカーテンを裂いて、エンジェルが現れた。

 彼女もまた、嵐の中をここまでやってきたのだ。高価な白いワンピースは雨を吸って透け、身体の曲線が生々しく張り付いている。雨水が長い髪を伝い、鎖骨の窪みに溜まっては溢れ落ちていく。

「……寒いわ」

 エンジェルは震える手で、防水バッグから何かを取り出した。

 それは、大人の腕ほどもある太さの、巨大なスプリフ(大麻タバコ)だった。 「パパの金庫からくすねてきた。『ブラック・ツナ』。最高級のネタよ」

 彼女はサイレントが熾した焚き火に顔を近づけ、その炎で直接スプリフを炙った。

 甘く、重く、そして危険な香りが、瞬く間に石室に充満する。

 それはただの喫煙ではない。儀式(リーズニング)だ。

 二人は交互に煙を吸い込んだ。

 肺が焼けるような煙を止める。数秒後、脳髄の裏側が痺れ、視界がぐにゃりと歪んだ。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 心臓の音が、サウンドシステムの重低音のように聴こえる。雨音は天然のダブ・ミックスとなって反響し、時間の感覚が引き伸ばされていく。

 感覚が、異常なほど鋭敏になる。肌に触れる空気の粒子さえ感じ取れるほどのハイ(覚醒)。

「服、脱がないと死んじゃう」

 エンジェルが呟いた。その瞳はとろんと濁り、しかし奥底で淫らな光を宿している。

 彼女は濡れたワンピースのジッパーを下ろした。

 躊躇ためらわなかった。布が滑り落ちる。

 焚き火の光が、彼女の裸体を闇の中に浮かび上がらせた。

 それは、ただ美しいだけではない。ドラッグの作用で、サイレントの目には彼女が女神であり、同時に男を食い殺す魔女のようにも見えた。豊かな胸、引き締まった腰、そして嵐のような生命力。

 サイレントの喉が鳴った。

 下腹部に、激痛に近いほどの欲望が走る。

 彼もまた、濡れたシャツを脱ぎ捨てた。鍛え上げられた黒い筋肉が、焚き火の光を弾く。

 エンジェルが、ふらつく足取りで焚き火の向こう側から近づいてくる。

「ねえ、サイレント」

 彼女の声は、蜂蜜のように甘く、粘り気を持って鼓膜に絡みついた。

「ゴールディは、私が欲しいって言ったわ。街の男たちはみんな、私を犯すことばかり考えてる」

 彼女は這うようにして焚き火を回り、サイレントの目の前まで迫った。濡れた肌が触れ合う距離。ガンジャ特有の甘く重い香りと、彼女の体臭(フェロモン)が鼻腔を犯す。

「ワ・グワン(あんたはどうなの)? ボートマン」

 エンジェルはサイレントの手を取り、自分の豊かな胸へと導いた。

 心臓が早鐘を打っているのが掌から伝わる。

「欲しいなら、奪えばいい。ここでは誰も見ていない。パパも、神様(ジャー)も、この嵐の中じゃ見えやしない」

 サイレントの脳内で、警報が鳴り響いていた。

 目の前には、すべてがある。

 男としての本能。ドラッグによって増幅された快楽への渇望。彼女を押し倒し、その肉体に溺れてしまえば、どれほど楽だろうか。それは、キングストンのゲットーで誰もがやっていることだ。

 彼のイチモツは痛みを感じるほどに勃起し、全身の筋肉が痙攣していた。

 だが。

 その刹那、彼の脳裏をよぎったのは、嵐の海で舵を握る時の感覚だった。

 波に飲まれるな。波に乗れ。コントロールを失った船は沈む。

 欲望(スラックネス)に流されるのは、ゴールディのような「半端者」だ。本物の男(ルードボーイ)は、混沌の中でこそ静寂(サイレント)を保つ。

 サイレントは、彼女の乳房に触れていた手を、強く握りしめた。

 そして、乱暴に引き剥がした。

「……ッ!」  エンジェルが驚きに目を見開く。

 サイレントは立ち上がった。ほぼ全裸のまま、仁王立ちになって彼女を見下ろす。その目は、薬物の快楽に濁ってはいなかった。むしろ、炎のように燃えていた。

「俺を見ろ、エンジェル!」

 彼の声が、嵐の轟音に負けないほどの重低音で響いた。

「俺はヤク中の犬じゃねえ! バティ・クラウン(盛りついた野良犬)でもねえ!」

 彼は足元の焚き火を指差した。タイヤのゴムが爆ぜ、黒い煙を上げている。

「この火を見ろ。俺たちの身体を焼いているのは、欲望の火じゃねえ。魂(スピリット)の火だ!」

 サイレントは一歩踏み出した。エンジェルを抱くためではない。自分の信念(アイタル)を証明するためだ。

「俺のリディム(精神)が、お前の肉欲(フレッシュ)に勝ったら……その時に、俺はお前を迎えに行く。それまでは指一本触れねえ!」

 それは拒絶ではなかった。

 安易なセックスで関係を消費することを拒み、より高い次元での結合を求める、魂の咆哮だった。

 エンジェルは呆気にとられ、やがてその顔に挑発的な笑みが戻った。彼女は二三歩退いた。出口はなかった。コンクリートの煤けた壁がエンジェルの背中にさわった。焚き火の向こう側へ下がり、叫んだ。

なら、その火を飛び越してこい!飛び越してきたら Yuh dun know!(言わなくてもわかるでしょ!)」

 エンジェルは息せいていたが、清らかな弾んだ声で言った。

「口先だけなら誰でもできるわ。あんたのバイブス(気迫)が本物なら……この炎を越えて、私を奪いに来て!」

 サイレントは躊躇ちゅうちょしなかった。 「Bumbooclaat!(クソったれ、上等だ!)」

 彼は助走もつけず、その場から跳んだ。

 燃え盛る炎の上を、鍛え上げた肉体が舞う。

 着地したサイレントは、そのままの勢いでエンジェルを抱きすくめた。

 二人の裸体がぶつかり合う。

 サイレントの腕の中で、エンジェルが熱い息を吐く。あとは、押し倒すだけだ。

 しかし、サイレントは動かなかった。

 彼女を強く抱きしめたまま、岩のように硬直し、欲望を必死に押さえ込んでいた。

「……サイレント?」 「今は、だめだ」

 彼は血を吐くように言った。「俺が“ルードボーイ(本物)”になった時まで、とっておく」

 エンジェルは彼の胸に顔を埋めて震え出した。

 泣いていた。彼女の目から淫らな色が消え、深い敬意が湧き上がっていた。ドラッグの酔いは醒めていない。だが、それはもはや肉体の快楽ではなく、精神の共鳴へと昇華されていた。

「……あんたって、本当にバカね」

 エンジェルは涙ぐんだ声で笑った。「でも、私が探していたのは、そういうバカ(本物)よ」

 二人は炎の前で、互いの裸体を預け合うようにして体を擦り合わせ(ラビング)始めた。

 サイレントの太い腕はエンジェルの腰を力強くホールドし、エンジェルはその逞しい大腿に自分の臀部を押し付け、ゆっくりと、しかし執拗に腰を回した。

 濡れた皮膚が擦れ合う摩擦熱と、互いの心臓が打つ強烈なビートは、彼らを焦らした。長い接吻と、終わりのないワイニング(腰振り)。

 満たされない肉体の渇きは苦痛だったが、次第にそれは、重低音(ベース)の深淵に全身を委ねるような、不思議な多幸感(ユーフォリア)へと変わっていった。

 時折爆ぜるタイヤの破裂音や、石壁を叩く暴風雨の轟音サウンドが、二人の荒い息遣いと混じり合う。

 サイレントは感じていた。この果てしない陶酔と、外で荒れ狂う嵐のエネルギー、そして二人の体内で脈打つバイブスが、一つの巨大なリディムとなって共鳴しているのを。

 この感情には、いつまでも終わらない至福(ザイオン)があった。

Chapter 4:白い粉と錆びたナイフ

 キングストンのゲットーにおいて、噂(Susu)は銃弾よりも速く飛び、ウイルスのように深く浸透する。

 嵐が去った翌朝には、あの夜の出来事は、尾ひれがつき、毒が塗られ、まったく別の物語として街中を駆け巡っていた。

「聞いたか? あのボートマンのサイレント、ボスの娘を廃墟に連れ込んで、ヤク漬けにして一晩中オモチャにしたらしいぜ」 「マジかよ。あのすました顔して、やることはエグいな」

 噂の震源地は、チェリーだった。

 彼女はサウンドシステムのダンサーで、以前からサイレントに色目を使っていたが、まったく相手にされなかったことを根に持っていた。彼女は嵐の翌朝、廃墟から時間差で降りてきた二人を目撃し、その嫉妬心を「正義感」という包装紙で包んで、ドン・テリーに密告したのだ。

 ボスの裁定は迅速かつ冷酷だった。

 サイレントは組織のアジトから締め出された。

「二度と俺の敷居を跨ぐな。海に出ることも許さん。飢えて死ね」

 それが、ドン・テリーの通達だった。

 サイレントの生活は一変した。仕事を取り上げられ、街の住人たちは彼と目を合わせるのを避けた。

 だが、彼は言い訳をしなかった。弁解は「男(マン)」のすることではない。彼は沈黙を守り、家の軒先で黙々と魚網を繕い続けた。その背中は、どんな暴力よりも雄弁に自身の潔白を語っていたが、ドラッグと欲望に濁った街の目には届かなかった。

 それでも、彼の心は折れていなかった。

 毎朝、東の空が白む頃、彼は一人でキングストンの丘の上に立っていた。眼下には、まだ眠りの中にあるゲットーと、その先に広がるカリブ海が一望できる。

 彼はここでジャー(神)に祈りを捧げる(チャントする)のを日課としていた。

 追放の身となっても、その習慣だけは変わらなかった。

「ジャー・ラスタファーライ。 今日も海を鎮め、このコンクリート・ジャングルに平和と繁栄を。 俺はまだ未熟なユート(若者)だが、いつか誰もが認める一人前の“ルードボーイ(男)”になり、海のすべてを知り、嵐さえも乗りこなせる知恵と力を与えたまえ。 そして、優しいお袋と、幼い弟たちを、バビロンの邪悪な力から護りたまえ」

 そこまで唱えて、サイレントは一瞬ためらった。

 彼は少し顔を赤らめ、しかし意を決したように、東の空に向かって付け加えた。

「……そして、とんでもない筋違いだとは分かっていますが。今は会うことすら許されない、あのドン・テリーの娘……エンジェル。 気立てが良く、ライオンのように気高い心を持った美しいあのエンプレス(女帝)を、いつか俺の妻として授けてください」

 祈りを終えると、彼は深く息を吐き、目を開けた。

 太陽が水平線から顔を出し、海がエメラルドグリーンに輝き始める。

 誰に蔑まれようとも、彼の中にある「光」だけは誰にも奪えなかった。

 一方、この状況に狂喜したのはゴールディだった。

 彼は勘違いしていた。エンジェルが噂通り「傷物」になったと思い込み、それなら自分が手を出しても文句は言われないだろうと計算したのだ。

 ある蒸し暑い夜。

 ゴールディは、安酒場のトイレの個室にいた。

 便器の蓋の上には、白い粉(コカイン)のラインが太く引かれている。

 彼は震える手でそれを鼻から一気に吸い込んだ。

 ズズッ。

 強烈な化学物質が粘膜を焼き、脳に直接電流を流し込む。「……キタッ! 俺が最強だ! 俺がラガマフィン(荒くれ者)だ! ニャォッ!」

 心臓が破裂しそうなほど脈打ち、全能感が全身を駆け巡る。恐怖心も理性も消え失せ、残ったのは歪んだ性欲と攻撃性だけだった。

 彼は鼻の下の粉を拭うと、目をぎらつかせて夜の路地へと飛び出した。

 エンジェルが、日課の水汲みを終えて一人で帰る時間だ。

 路地裏の暗がり。街灯は割られ、月明かりだけが頼りだ。

 エンジェルは重いポリタンクを提げて歩いていた。サイレントに会えなくなって数日、彼女の心は乾いていたが、その瞳の光だけは失われていなかった。

「よう、プリンセス」

 不意に、背後から腕が伸びてきた。

 ゴールディだ。彼はエンジェルを強引に壁際へと押し付けた。

 汗と、安酒と、化学薬品の異臭がエンジェルの鼻をつく。

「何よ、どいて」

 エンジェルは冷静だった。

「つれないこと言うなよ。あの薄汚いボートマンには股を開いたんだろ? 次は俺の番だ」

 ゴールディの目は焦点が定まっておらず、顎が小刻みに痙攣している。完全にキマっていた。

 彼はエンジェルの太ももに手を這わせ、下品な舌なめずりをした。

「俺はあいつとは違う。金もある。最高のクスリも持ってる。お前を天国に行かせてやるよ」

 ゴールディはズボンのベルトを緩め、強引にエンジェルに覆い被さろうとした。

 暴力的なレイプ。力づくで彼女を屈服させ、自分の所有物だという刻印を押すつもりだった。

 しかし。

 数秒の沈黙が流れた。荒い息遣いだけが響く。

 ゴールディの顔色が、興奮から焦りへ、そして屈辱へと変わっていく。

 役立たずだった。

 長年のコカイン乱用と過剰な興奮が、肝心な時に彼の神経系を裏切ったのだ。股間にある肉の塊は、死んだナメクジのように萎縮したまま、ピクリともしない。

「……クソッ、立て! 立てよ!」

 ゴールディは焦った。全能感が急速に萎んでいく。エンジェルの前で、男としての不能を晒しているという現実。

 彼はパニックになり、暴力で解決しようと拳を振り上げた。

「笑うんじゃねえ! このアマ!」

 その拳が振り下ろされるより速く、金属音が響いた。

 カチッ。

 ゴールディの動きが止まった。

 彼の喉元に、冷たい切っ先が押し当てられていた。

 エンジェルが握っていたのは、ジャマイカのルードボーイたちが愛用する「オカピ(Okapi)」のラチェットナイフだった。錆びついてはいるが、十分に研がれた刃先が、ゴールディの頸動脈に食い込んでいる。

 彼女の目は、サイレントが見せたあの静寂と同じ色をしていた。

「……天国に行かせてくれるんじゃなかったの?」

 エンジェルは低く囁いた。その声には恐怖の色はなく、ドスの効いた侮蔑だけがあった。

 彼女はナイフの切っ先を、ゆっくりとゴールディの股間へと滑らせた。

 ゴールディは悲鳴すら上げられず、ガタガタと震え出した。白い粉の魔法は解け、ただの情けないチンピラに戻っていた。

「ねえ、ゴールディ。あんたの腰にあるその銃(ガン)」

 エンジェルは、彼の萎びた股間をナイフの腹で軽く叩いた。

「それ、ただの飾り(デコレーション)?」

 決定的な屈辱。

 ゴールディのプライドは粉々に砕け散った。 「ひ、ひぃぃ……!」

 彼は腰を抜かし、泥水の中に尻餅をついた。ズボンの股間が、尿で濡れていくのが見えた。

 エンジェルは冷めた目で彼を見下ろし、ナイフをぱちんと畳んだ。

「Move yuh rass(二度と私の前に顔を見せないで)!……バティボーイ(男らしくないクズ)」

 彼女はポリタンクを持ち上げると、一度も振り返らずに闇の中へと消えていった。

 残されたのは、泥にまみれ、自分の小便と失禁したコカインの惨めさに打ちひしがれるゴールディだけだった。

 この夜の出来事は、誰にも語られなかった。

 だが、エンジェルの中で、確信が生まれた。

 薬物に溺れ、女をモノのように扱う男たちと、嵐の夜に欲望を制し、精神の炎を燃やしたサイレント。

 どちらが真の「男」か。答えは明白だった。

 そして物語は、ドン・テリーが課す最後の試練、死の航海へと向かう。

Chapter 5:死の「マイアミ・ラン」

 ドン・テリーの沈黙は、死刑宣告よりも重かった。

 だが、彼が下したのは追放ではなく、最終試験の通達だった。

「俺の船『ライオン・オブ・ユダ号』を出す。沖合二十マイルの公海上で“白い貴婦人(コカイン50キロ)”を拾ってこい」

 それは通称「マイアミ・ラン」。成功すれば一生遊んで暮らせるが、失敗すればサメの餌か、アメリカ沿岸警備隊の刑務所で終身刑となる、最も危険なミッションだった。

 しかも海はまだ、ハリケーンの余波で怒り狂っている。

 乗組員は、古参の船長(スキッパー)と、二人の見習い。

 サイレントと、ゴールディだ。

 これは偶然ではない。ドン・テリーは、自分の娘を託すに値する「本物の男」がどちらなのか、海の神に選ばせようとしたのだ。

 真夜中のカリブ海は、黒いインクをぶちまけたような闇だった。

 高速ボートは波の頂点を叩きながら疾走する。衝撃のたびに背骨がきしむ。

  ゴールディは、キャビンの隅で縮こまっていた。

 彼の首からは、自慢のゴールドチェーンが消えていた(換金してコカインを買ったのだ)。顔色は土気色で、嘔吐物と冷や汗にまみれている。

「クソッ、クソッ、揺らすんじゃねえ! ママ、帰りたいよぉ……」

 彼は恐怖を誤魔化すために隠し持ってきたパケ(小袋)を開け、鼻から粉を吸い込んだ。だが、船酔いと恐怖でバッド・トリップに入り、幻覚に怯えて喚き散らすだけだった。

 対照的に、サイレントは船尾のデッキに仁王立ちしていた。

 彼は揺れに合わせて膝を柔らかく使い、まるでダンスホールのリディムに乗るようにバランスを取っていた。彼の目は、漆黒の海面に目を凝らし、波のうねりを読んでいた。

 彼にとって、海は敵ではない。敬意を払うべき、偉大なる「ジャー(神)」の一部だった。

「おい、ボートマン!」

 古参の船長が怒鳴った。「ポイントに着くぞ! 照明(ライト)を準備しろ!」

 GPSが示す座標。海面に、発光器をつけたドラム缶が浮いているのが見えた。中身は純度99%、末端価格にして数億円の「白い粉」だ。

 ボートが減速し、回収作業に入ろうとしたその時だった。

 ドガン!

 巨大なうねりが船体を横から殴りつけた。

 同時に、不吉な金属音が響き、エンジンが咳き込むように停止した。

 漂流していた漁網かロープが、スクリューに絡まったのだ。

「畜生! 舵が効かねえ!」

 船長が叫ぶ。

 最悪の事態だった。推進力を失ったボートは、荒波の中で木の葉のように翻弄される。次の大波が来れば、船体は横倒し(ブローチング)になり、全員海に放り出される。

 さらに悪いことに、回収すべきドラム缶が、潮に流されて遠ざかっていく。あれを失えば、生きて陸に戻ってもドン・テリーに殺される。

「誰か潜ってスクリューのロープを切れ! それから積荷を確保しろ!」

 船長が怒鳴り、ゴールディの襟首を掴んだ。「おい、お前行け! ヤクでキマってんだろ!?」

「ひっ、嫌だ! サメがいる! 暗い! 死にたくない!」

 ゴールディは狂ったように首を振り、船室のベッドの下へ潜り込んで失禁した。彼の虚勢は、陸の上でしか通用しないメッキだった。

 その時、静かに服を脱ぐ男がいた。

 サイレントだ。

 彼は何も言わず、腰にナイフを巻き付け、命綱(ライフライン)を自分の足首に結んだ。

 船長が息を飲む。

 サイレントは、震えるゴールディを一瞥もしなかった。彼の瞳には、エンジェルの面影と、燃え盛る焚き火の記憶だけが焼き付いていた。

(俺のリディムを見せてやる)

 彼は深く息を吸い込んだ。肺の中に、アイタル(自然)の気を充填する。

 そのとき彼がたしかに微笑したことは、闇のなかに白い美しい歯並がうかんだのでわかった。

 サイレントはズボンのバンドの上に、ロープを二まわり巻きつけた。船首に立ち、海を眺め下ろした。 舳先に砕ける波頭はとう繁吹しぶきの下に、身をくねらしてわだかたまっている見えない真暗な波があった。

 それは不規則な運動をくりかえし、支離滅裂な危険な気まぐれをぞうしている。目の前に迫って来るかと思うと、迫り下って、渦巻いている底知れぬふちを見せるのである。

 サイレントの心に、このときケビンに掛けた上着の内かくしに残してきたエンジェルの写真のことがかすめ過ぎた。しかしこの徒爾とじは風に吹きちぎられた。彼は甲板を踏み切って、跳び込んだ。

 ザブン!

 冷たさがナイフのように全身を刺す。

 水中は完全な闇。泡と潮流が彼を押し流そうとする。

 サイレントは船底へと潜った。スクリューには太いロープが何重にも絡まり、鉄のように硬くなっている。

 彼は息を止め、ナイフを突き立てた。一本、また一本。

 肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。水圧が眼球を押しつぶそうとする。

 限界が近い。だが、彼は諦めない。

 脳裏に浮かぶのは、あの夜、誘惑を拒絶した時の「精神の炎」だ。あの熱さに比べれば、冷たい海など恐れるに足りない。

 ブチリ。

 最後の一本が切れた。

 サイレントは海面へ浮上した。

「ぷはっ!」

 荒い呼吸と共に空気を貪る。だが、まだ終わりではない。

 若者は力の限り泳いだ。巨大なものはすこしずつにじ退いて道をひらいた。

 五メートル、十メートル。固い岩盤がロックドリルに穿たれてゆくように。

 ドラム缶が手にふれたとき、若者は手を滑らして押し戻された。

 すると今度は幸いな波が、胸をほとんどドラム缶にぶつけるばかりに、一息に彼を運んで、ドラム缶に一気に縋りつかせた。サイレントは深い息をした

 ドラム缶にたどり着いた彼は、ロープを二巻きして結び目を固め、手をあげて作業の成功を告げた。

「引き上げろぉぉ!!」

 船上の男たちがロープを引く。

 デッキに転がり込んだサイレントの体は、傷だらけだった。フジツボで切れた肌から血が滲み、海水と混じり合う。

 だが、彼は立ち上がった。

 濡れた黒い肌は、闇の中で燐光を放つ神像のように美しかった。

 エンジンが再始動する。ボートは咆哮を上げ、再び走り出した。

  キャビンの隅で、ゴールディがその光景を見ていた。

 彼は知ってしまった。自分が持っているのは、鎖と引き換えにした粉だけ。

 だが、あのボートマンが持っているのは、決して砕けない「男の核(コア)」なのだと。

Chapter 6:キング・オブ・キングス

 夜明けのキングストン港。

 波止場には、ドン・テリーの黒塗りのベンツが止まっていた。

 その傍らには、息子の無事を祈り続けていたサイレントの母親の姿があった。貧しい身なりだが、敬虔なラスタの信仰を持つ、誇り高い老女だ。

 ボートが着岸する。

 ゴールディは誰よりも先に飛び降り、地面に這いつくばって嗚咽した。恐怖で失禁し、高価な服は汚物にまみれている。

 一方、サイレントは傷だらけの体を引きずりながらも、しっかりと大地を踏みしめ、回収した「白い貴婦人(コカインの包み)」をボスの足元に置いた。

 ドン・テリーは、数億円の価値があるコカインには目もくれなかった。

 彼はまず、泣き喚くゴールディを冷たく見下ろした。

「お前の親父の金も、その飾り物の筋肉も、嵐の前じゃ何の役にも立たなかったようだな」

 ボスはゴールディをゴミのように跨いで通り過ぎた。

 そして、ドン・テリーはサイレントの前に立ち止まった。

 サイレントの身体には、無数の傷と、隠しきれない疲労があった。だが、その瞳だけは、キングストンのどんな宝石よりも澄んでいた。恐怖に打ち勝ち、責任を果たした男の目だ。

「よく聞け、ユート(若造)」

 ドン・テリーはゆっくりと口を開いた。その声は、重低音(ベース)のように腹に響いた。

「男(マン)はハートMan a Heart(気力)だ」

 ボスは自らの胸を拳でドンと叩き、言葉を続けた。

「強いハートさえありゃあ、それでいい。 このコンクリート・ジャングルで生きる男(ルードボーイ)は、そうでなきゃいけねえ」

 彼は足元に転がるゴールディを一瞥し、鼻で笑った。

「親の七光りや、ジャラジャラした金……そんなモンは二の次だ」

 そしてドン・テリーは、サイレントの背後で涙を流している母親へと顔を向けた。かつて自分も世話になったことのある、貧しくとも気高い漁師の妻だ。

「……そうだろ? ママ」

 ドン・テリーは、血と海水に濡れたサイレントの肩に、ゴツゴツとした厚い手を置いた。

「あんたの息子、サイレントには……そのハート(気力)がある」

 母親が涙を流して深く頷くのを見て、ボスは満足げに自らのポケットから、最高級のハバナ葉巻を取り出し、サイレントの口にくわえさせた。そして自らのライターで火をつけてやる。

 それは、ギャングの世界における最大級の敬意(リスペクト)の証であり、新たな「ファミリー」として迎え入れる儀式だった。

 ドン・テリーは背後の車のドアを開けた。

 そこには、涙を溜めたエンジェルが座っていた。

「連れて行け。……ただし、俺の孫には漁師なんてシケた仕事させるんじゃねえぞ。組織(ファミリー)を継げ」

 サイレントは深く紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

「……Bless up(祝福を)」

 その煙の向こうで、朝日がキングストンの街を照らし出していた。

Last Scene:コンクリート・ジャングルに咲く花

……ドン・テリーの車が去り、港にはサイレントとエンジェル、そして母親が残された

 圧倒的な光の洪水だった。

 朝日が、油の浮いた海面と、スラムの錆びたトタン屋根を黄金色に染め上げていく。

 エンジェルは、サイレントの傷だらけの胸に触れながら、ふと不安げな顔で呟いた。

「ねえ……ゴールディを見て。この街(キングストン)は、弱い人間を食い物にする。ドラッグ、暴力、裏切り……私たちもいつか、この街の悪い毒に染まってしまうのかな」

 サイレントは首を横に振った。

 彼は口にくわえた高級葉巻を外し、生まれ育ったゲットーと、その向こうに広がるカリブ海を真っ直ぐに見つめて言った。

「いいや、染まりはしねえ」

 彼は静かに、しかし確信に満ちた声で、あの嵐の海で掴んだ真理を語り始めた。

「どんな時世(タイム)になっても……バビロン(外の世界)の腐った流行り病や、ヤワな習慣(スラックネス)なんてモンは、この島(ヤード)の根っこまで届かねえうちに消えちまう」

 彼は、光る波間を指差した。かつて自分が命懸けで潜り、ゴールディが逃げ出したその海を。

「海がな……この島に要る『まっすぐで本物(リアル)なモン』だけを選んで送ってよこし、俺たちの胸に残ってる『本物のモン』だけを、厳しく護ってくれてるんだ」

 サイレントは、エンジェルの手を強く握りしめた。その手はゴツゴツとして硬かったが、嘘のない温かさがあった。

「だから見てみろ。シーフ(泥棒)だらけに見えるこの街にも、ヤワなヤツなんて一人もいねえ」

 彼は、敗走したゴールディが消えていった路地の方を一瞥した。海と街が、あの半端者を吐き出したのだ。生き残れなかった者は、この街の住人ではない。

「半端な嘘つきや裏切り者は、この街じゃあ淘汰されて生き残れねえからだ。 最後に残って、いつまでもこのコンクリート・ジャングルに立ってるのは……」

 彼はエンジェルの瞳を深く覗き込み、噛み締めるように言った。

「まごころ(ワン・ラブ)と、真面目にハッスルして耐える根性(バイブス)と、裏表のない愛。 そして、ライオンのような勇気……。 卑怯なとこなんざ薬莢一つ分もねえ、リアルな筋の通った男(ルードボーイ)だけだ」

 エンジェルは涙を拭い、太陽のような笑顔を見せた。

「……ええ。私の目の前にいるわ」

 二人のシルエットが、朝日に溶け込んでいく。

 遠くのサウンドシステムから、ボブ・マーリーの歌声が風に乗って聞こえてきた。

「アイリー(最高だ)」

コンクリート・ジャングルの只中で、二人の愛だけが、決して汚れることのない「聖域(ザイオン)」として輝き始めていた。

Epilogue:コンクリート・ジャングルに愛を

 数ヶ月後の週末。

 ダウンタウンの広場は、かつてない規模のサウンドシステム・パーティ(ブロック・パーティ)で埋め尽くされていた。

 今日の主役は、新しいキングとクイーンだ。

 純白のタキシードを着崩したサイレントと、レゲエの女神のようなドレッドロックスの花嫁姿のエンジェル。

 スピーカーから流れるのは、ボブ・マーリーの『Is This Love』。

 甘く、太いベースラインが、祝福のように二人を包み込む。

 観衆の中には、もうゴールディの姿はない。彼はどこかの路地裏で、過去の栄光を語るだけのジャンキーに落ちぶれたという。

 ダンスフロアの中央。

 紫の煙と爆音が渦巻く中、サイレントはエンジェルの腰を抱いた。

 かつて廃墟で、燃えるような欲望を精神の力で寸止めした二人。

 今夜、その封印は解かれる。

 エンジェルが耳元で囁く。

「……今夜は、もう“我慢”しなくていいのよ」

 サイレントは照れくさそうに笑い、彼女を強く抱き寄せた。

「ああ。……朝まで、愛(ラブ)と戦争(ウォー)だ」

 二人の唇が重なる。

 その瞬間、セレクターがボリュームを最大まで上げた。

「Yo, gyal dem wine pon di riddim! (よし、女どもビートに腰振れ!) Slackness time!(卑猥タイムだ!)」

 爆音のレゲエ。舞い上がる紙吹雪とガンジャの煙。

 混沌と暴力の街(コンクリート・ジャングル)に、確かな愛の波(ウェイブ)が打ち寄せていた。

 エンジェルの目にはほこりがうかんだ。自分の写真がサイレントを守ったと考えたのである。

 しかしそのとき若者は眉をそびやかした。彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知っていた。

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