円環の理と阿弥陀の本願──『魔法少女まどか☆マギカ』を「縁起」と「誓願」から読み解く
はじめに —— 残酷な此岸のシステム
終わらないカタルシスと異分野からの応答
2011年の放送終了から時を経てもなお、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の結末がもたらすカタルシスは、その意義を失っていない。現実世界の閉塞感が増すにつれ、物語の主題はより切実なものとして受け止められている。
放送当時、この作品が巻き起こした議論の波紋が、通常のアニメファンの枠を大きく超えて広がっていったことは特筆に値する。
SFファンや評論家たちは、時間遡行やエントロピーを扱ったハードSF的な設定、あるいはコズミック・ホラー(宇宙的恐怖)の文脈から、「決定論的宇宙に対する反逆の物語」として熱く語った。アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』を彷彿とさせる、種としての進化や変革の物語を見出した者も少なくない。
それ以上に異例だったのは、仏教界からの応答である。
宗派を超え、多くの僧侶や仏教徒がこの作品に反応した。ネット上では「まどか=阿弥陀如来説」がまことしやかに、しかし極めて真摯に議論され、法話の題材として取り上げられることさえあった。彼らは、主人公・鹿目まどかが最終的に選んだ「すべての魔法少女を救済する」という決断の中に、大乗仏教、とりわけ浄土教における「阿弥陀如来の本願」と、驚くほど精緻な同型性を見出したのである。
一人の少女が超越的な存在(アルティメットまどか)へと変貌し、宇宙の理そのものを書き換えるこの結末。SF的な「特異点(シンギュラリティ)」の描写としても、宗教的な「成道(悟り)」の描写としても成立するこの多層性こそが、本作を古典たらしめている所以である。
悪意なき地獄
本作において、マスコットキャラクターであるキュゥべえは、感情を持たない合理的観測者として描かれ、「エントロピーの増大」や「宇宙の熱的死」という熱力学的な問題を提示する。
SF的な視点で見れば、彼(彼ら)は人類よりも上位の文明知性であり、宇宙全体の寿命を延ばそうとする「全体主義的な管理者」である。
ここで重要なのは、彼は悪意を持って少女たちを欺いているのではない、という点だ。「欺く」という道徳的概念すら彼らにはない。ただ、宇宙という巨大な系を維持するために、感情エネルギーを回収する仕組みを淡々と、効率的に運用しているに過ぎない。
この「話が通じない」という絶望感は、ラヴクラフト的な恐怖(人間など意に介さない強大な宇宙的真理)に通じるが、同時に仏教的な世界認識とも深く共鳴する。
仏教が説く「諸行無常(あらゆるものは移ろいゆく)」や「一切皆苦(この世は本質的に思い通りにならない)」という真理は、誰かの悪意によるものではない。
この世界(此岸)は、因果の連鎖(縁起)によって、宿命的に「苦」を生み出すようにできている。物理法則が個人の幸福に配慮しないのと同様に、この世界のシステム(縁起)は、個人の叫びになど関心がない。キュゥべえの冷徹さは、この「システムの非情さ」を擬人化したものと言える。
システムへの対抗
本考察の目的は、キュゥべえが提示する「物理法則としての残酷さ(SF的エントロピー)」と、仏教が洞察する「存在論としての苦(仏教的無常)」を接続し、その閉塞したシステムに対する応答として、まどかの「願い」がいかに機能したのかを読み解くことにある。
彼女の願いは、単なる感情的な祈りにとどまらない。
SF的な文脈で言えば、それは宇宙を統べる法則へのハッキング行為であり、管理者権限によるルールの書き換えである。
そして仏教的な文脈で言えば、因果のルールに支配された宇宙の根幹に「慈悲」という要素を意図的に組み込み、救われない運命にある者たちを彼岸へと導く、「誓願」としての理の変革であった。
残酷な物理法則に対し、いかにして「救い」をもたらすか。以下、仏教の「縁起」と「本願」という二つの補助線を用いて、円環の理の正体に迫っていく。

縁起としての魔法少女システム —— エントロピーと無常
エントロピーという名の「無常」
「僕たちは感情を持たない。だからこそ、君たちの感情エネルギーが必要なんだ」
物語の中盤、キュゥべえは魔法少女たちに対し、彼らの真の目的を明かす。それは、閉じた宇宙のエントロピー増大を食い止め、熱的死を回避するためのエネルギー回収であった。この告白は、少女たちにとって、そして視聴者にとって、(不穏さはあったとはいえ)それまでの「正義の味方」という前提を覆す物語の転機となる。
ここで重要なのは、キュゥべえが虚偽を述べていたわけではないという点だ。彼らは物理法則に忠実な管理者として振る舞っていたに過ぎない。
熱力学第二法則が示す通り、孤立した系においてエントロピー(乱雑さ)は増大し、宇宙は不可逆的に死へと向かう。この事実に対し、彼らは「感情」という、エントロピーを凌駕する特殊なエネルギー資源を見出し、それを回収するシステムを構築した。それが「魔法少女」である。
この世界観を仏教の視点から見ると、符合が見られる。仏教において、私たちの生きる世界(此岸)の基本的条件として説かれるのが「諸行無常(Anitya / Impermanence)」である。あらゆる現象は絶えず変化し、留まることがない。そして、その変化が思い通りにならないがゆえに、世界は本質的に「苦(Duḥkha)」であるとされる。
キュゥべえが語る「宇宙の寿命」や「枯渇するエネルギー」という問題は、この「諸行無常」の物理学的な換言と言える。彼らにとって、魔法少女の悲劇は悪意の結果ではなく、宇宙を維持するために必要なコスト、いわば「諸行無常」という系を維持するための燃料なのだ。
縁起の連鎖装置
さらに、魔法少女システムそのものが、仏教の根本原理である「縁起Pratītyasamutpāda 」のモデルとして機能している。縁起とは、「これがあるとき、かれがある。これが生ずることから、かれが生ずる」という因果の関係性を示す。
魔法少女における因果の連鎖は以下のように整理できる。
願い(渇愛 Tṛṣṇā): 少女が「何かを変えたい」と願う。
契約(取 Upādāna): その願いを叶えるために契約し、因果に介入する力を得る。
魔法少女(有 Bhava): 「奇跡」と引き換えに、「魔女と戦う義務」と「ソウルジェム(魂の物質化)」が生じる。
消耗と穢れ(老死 Jarā-maraṇa): 戦いと苦悩によりソウルジェムが濁り、やがて限界を迎える。
魔女化(転生Jāti;業の結実): 絶望が臨界点を超えた瞬間、相転移が起こり、莫大なエネルギーと共に魔女が生まれる。
このプロセスにおいて、「希望」と「絶望」は対立する概念ではない。キュゥべえが「希望を求めた分、それを相殺するだけの絶望が散らばる。それが宇宙のバランスだ」と語るように、両者は同じエネルギー保存則の中にある位相の違いに過ぎない。
願い(原因)があれば、必ず呪い(結果)が生じる。それは道徳的な善悪を超えた、因果のメカニズムである。
つまり、魔法少女たちは「悪の組織」と戦っているのではない。「縁起」という、宇宙そのものを駆動させる自動的な因果律の中に組み込まれ、その構成要素として消費されているのだ。この閉塞感こそが、本作が描く「残酷さ」の本質であり、同時に、そこからの解脱(救済)がいかに困難であるかを示している。
感情の牢獄 —— 「受」から始まる魔女化への道
感情という燃料
なぜ、宇宙の維持に「感情」が必要なのか。キュゥべえの言葉を借りれば、感情とは「エントロピーを凌駕するエネルギー」だという。物理学的に見れば特異なこの設定も、仏教的な心の分析論(アビダルマ)や縁起として読み解くと、整合が見えてくる。
仏教における「十二因縁」では、苦しみが生じるプロセスを分解している。その中で重要なのが、外界との接触(触)から生じる「受(Vedanā)」である。「受」とは、快・不快・そのどちらでもない(不苦不楽)という、根源的な感受作用を指す。
魔法少女システムにおいては、この「受」を増幅させる構造が見られる。
彼女たちは契約によって「願い」を叶えられる。それは強烈な「快の受」をもたらす成功体験だ。しかし、その直後に魔女との戦いという生命の危険や、人間関係の軋轢といった「苦の受」にさらされる。
仏教では、「受」が次の段階である「渇愛(Taṇhā)」を引き起こすと説く。
快を感じれば「もっと欲しい、失いたくない」と渇望し、苦を感じれば「逃げたい、消し去りたい」と嫌悪する。この渇愛が、さらに強い「執着(Upādāna)」を生み、心を特定の対象や状態に固着させていく。
さやかを例に取ればわかりやすい。恭介の腕を治したいという「願い」は、彼への愛着(渇愛)に基づいている。契約が成立し腕が治った瞬間、彼女は幸福(快受)を得るが、その直後に自身の身体の真実や、恋敵の出現という絶望(苦受)に直面する。
「恭介との関係を守りたい」「正義の味方でありたい」という執着は、現実との乖離によって引き裂かれ、彼女のソウルジェム(心の器)を急速に濁らせていく。
キュゥべえが回収しているのは、この「受→愛→取」というプロセスで発生する心の振幅であり、仏教的に言えば、「執着のエネルギー」を物理エネルギーに変換していると言えるだろう。
魔女の正体 —— 漏れ出す煩悩
魔法少女の成れの果てである「魔女」。彼女たちは異空間に結界を張り、迷い込んだ人間を襲う怪物として描かれる。しかし、その本質は外部からやってきた敵ではない。
魔女とは、魔法少女自身の「煩悩(Kleśa)」が臨界点を超え、実体化してしまった姿である。
仏教には「漏(Āsrava)」という概念がある。これは煩悩が心の奥底から漏れ出し、外界へと流出していく様を表す。魔女の結界は、まさにこの「漏」の視覚化である。
彼女たちが張る結界のデザインや使い魔たちは、生前の記憶、満たされなかった欲望、トラウマ、そして独りよがりな美学のコラージュで構成されている。これは「唯識」的な世界観に近い。唯識とは「世界は心の現れである」とする思想だが、魔女の結界内では、彼女たちの内面世界(心象風景)がそのまま物理的な空間として上書きされているのだ。
例えば、「人魚の魔女」となったさやかの結界は、コンサートホールや掲示板など、彼女の執着の対象で埋め尽くされている。そこで彼女は、届かなかった想いを永遠に演じ続ける指揮者となる。
魔女化とは、理性が制御できなくなった煩悩が露出し、世界そのものを自分の色(執着)で塗り潰してしまう現象なのだ。それはある種、純粋な「自我の完成形」とも言える。
自力救済の限界
このシステムにおける最大の絶望は、「個人の努力(自力)では救済に到達できない」という構造的な欠陥にある。
通常、物語の主人公は努力や成長によって困難を克服する。しかし、魔法少女システムにおいては、真面目に努力すればするほど、破滅が早まる傾向にある。
「正しくありたい」「誰かを守りたい」と強く願うほど、その「執着」が強固になり、理想と現実の乖離に苦しむことになるからだ。功徳(善行)を積もうとすればするほど、それが「業(カルマ)」となって自身を縛り付け、ソウルジェムを濁らせていく。
マミのようにベテランとして精神を鍛えても、ふとした孤独(苦受)に隙を突かれれば命を落とす。杏子のように他者を切り捨てて利己的に振る舞おうとしても、結局は捨てきれない情(愛着)によって自らを犠牲にする。
この世界では、個人の精神修養や倫理的な正しさは、魔女化という「構造的な転落」を遅らせることはできても、止めることはできない。
この「自力の限界」こそが、物語を後半へと牽引する重要な要因となる。個人の力ではどうにもならないシステムに対抗するためには、システムそのものを書き換えるような、より高次の力——すなわち「他力」の介入が必要不可欠となるのである。
キュゥべえはなぜ笑わないか —— 「天人」の異質な感情経済
「感情がない」の再解釈
「わけがわからないよ」
人間の行動原理を理解できないと述べるキュゥべえの姿は、しばしば冷徹な機械のように見なされ、嫌悪される。だが、彼を単なる「感情を持たない機械」と断じるのは、人間の尺度による過小評価に過ぎない。
仏教的な六道輪廻の階層を当てはめるならば、キュゥべえ(インキュベーター)という種族は、人間道よりも上位の領域、すなわち「天道」に住まう「天人」として解釈するのが整合的である。
天人とは、人間よりも遥かに寿命が長く、威光と快楽に満ちた存在である。しかし、彼らは決して「悟った存在」ではない。彼らもまた輪廻の内にあり、因果の法則に縛られている。
彼らが「感情がない」ように見えるのは、人間のような粗雑な喜怒哀楽(苦受・楽受の激しい振幅)を超越し、高度に洗練された、あるいは極度に抽象化された「受」の領域に生きているからではないか。
彼らにとっての至上命題が「宇宙の寿命(エントロピー)」の維持であることは、彼らが「個」の存続よりも「全体」の恒常性を重んじる、巨視的な快楽原理(あるいは恐怖回避)に従っていることを示唆している。彼らの感情の循環は、個人の幸福ではなく、種の、あるいは宇宙の存続という単位で回っているのだ。
天人五衰の影
天人にとって最大の恐怖は、その長い寿命が尽き、下位の領域へと転落すること——「天人五衰」である。
経典において、死期の迫った天人は、衣が汚れ、腋から汗を流し、自らの座に楽しみを見出せなくなるとされる。これは天界の秩序と快楽の崩壊を意味する。
キュゥべえたちが恐れる「宇宙の熱的死」とは、マクロスケールでの天人五衰に他ならない。彼らの文明、その輝かしい高度な秩序が、エネルギー枯渇によって衰え、死滅することへの根源的な恐怖。
彼らは神のような超越者ではなく、滅びを恐れる「生類」なのだ。
慈悲なき方便
その恐怖を回避するために、彼らは下位領域である「人間界」に着目した。 彼らにとって人間は、非効率で、理解不能なほど感情に振り回される未熟な種族だ。しかし、その「未熟さ(感情の振幅)」こそが、彼らの衰退を止める資源となる。
仏教には、衆生を導くために巧みな手段を用いる「方便」という概念がある。キュゥべえの振る舞い——願いを叶え、奇跡を与え、その代償としてエネルギーを回収する——は、形式上は極めて合理的な「方便」に見える。
しかし、そこには決定的な欠落がある。仏教の方便が常に「慈悲(衆生の苦しみを除く願い)」に裏打ちされているのに対し、キュゥべえの方便には、人間への共感も慈悲も存在しない。あるのは、自らの領域(宇宙の秩序)を維持するための冷徹な計算、すなわち「慈悲なき方便」のみである。
彼らは悪意を持って人間を陥れているのではない。天人が自らの五衰を避けるために、人間からエネルギーを搾取する。それは六道輪廻という巨大な食物連鎖の一側面に過ぎないのである。

まどかの誓願と阿弥陀の本願 —— 宇宙法則へのアップデート
法蔵菩薩としてのまどか
物語のクライマックスにおいて、鹿目まどかが行った選択は、単なる「魔法少女への変身」という枠組みを超えている。それは、仏教史における最大のパラダイムシフト——法蔵菩薩による「阿弥陀の本願」の成立過程の再現として読むことで、その真価が明らかになる。
それまで、さやかや杏子を含む無数の魔法少女たちが願ったのは、「怪我を治したい」「家族を救いたい」といった、あくまで「現象(Phenomenon)」への介入であった。しかし、現象レベルでの変化は、因果の連鎖そのものを断ち切ることはできない。奇跡によって歪められた因果は、やがて反作用としての呪いを生み、悲劇は形を変えて繰り返される。これは、どれほど善行を積んでも、迷いの世界(輪廻)のルール内である限り、苦しみから根本的には逃れられないという仏教的洞察と重なる。
対して、まどかの願いは「すべての魔女を生まれる前に消し去りたい」というものであった。
これは、個別の現象ではなく、現象を生み出す「理(Dharma)」、すなわち宇宙そのものの書き換えを志向している。彼女は「奇跡」を願ったのではなく、「奇跡が呪いに反転しない新しい物理法則」の樹立を願ったのだ。
このプロセスは、『無量寿経』において法蔵菩薩が、既存の諸仏の国土では飽き足らず、あらゆる衆生を救うための完璧なシステム(浄土)を設計するために、五劫(ごこう)という途方もない時間をかけて思索し、「四十八願」を立てた道程と酷似している。まどかにとっての「五劫の思索」とは、ほむらが繰り返した無数の時間軸の記憶——彼女自身は覚えていなくとも、その魂に蓄積された因果の重み——であったと言えるだろう。
まどかが放った「もしそれが叶うなら、私にはもう絶望する必要なんてない!」という叫び。
これは、法蔵菩薩の誓願に見られる「設我得仏(もし私が仏になるとき、人々が救われないなら、私は正覚を取らない)」という定型句と共鳴する。 「魔女を生まない法則が成立しないならば、私の存在意義はない(=私は消滅しても構わない)」。
この、自らの存在(正覚)を担保として差し出し、世界に対して条件付きの変革を迫る態度は、単なる希望的観測ではなく、「因果の自己拘束(誓願)」と呼ばれる強靭な契約行為そのものである。
本願の構造:自動化と例外の超克
まどかが構築した「円環の理」という新システムは、浄土教における「本願(Original Vow)」が持つ革新的な特徴を、さらに先鋭化させた形で備えている。
1. 対象の最大化(十方衆生)
彼女は「過去、現在、未来、全宇宙」の魔法少女を救済対象とした。
阿弥陀如来の本願が、「十方(あらゆる空間)」の衆生を招き入れる普遍性を持つのと同様、まどかの救済は時間と空間の壁を完全に超越している。特筆すべきは、彼女がまだ見ぬ未来の魔法少女だけでなく、過去に散った無数の魂にまで遡及して救済の手を伸ばした点である。これにより、救済は「今ここ」だけの対症療法ではなく、歴史全体の意味を書き換える包括的なものとなった。
2. 救済の自動化(他力と悪人正機)
このシステムにおいて、救済されるために修行や善行、あるいはまどかへの信仰さえも必要とされない。
「ソウルジェムが濁りきり、絶望して魔女になりかける瞬間」を唯一のトリガーとして、まどかが自動的に現れ、魂を回収する。
これは、個人の計らい(自力)が尽き、ただ救いを待つしかない極限状態においてこそ救済が発動するという、「他力本願」のメカニズムの極致である。
親鸞は「悪人正機」(煩悩具足の凡夫こそが救済の主客である)を説いたが、まどかのシステムにおいては、「絶望に沈む少女(=魔女化寸前の、最も救いから遠い存在)」こそが、システムの最優先ターゲットとして設定されている。絶望はもはや破滅の合図ではなく、救済リクエストの送信信号へと意味を変えたのだ。
3. 排除文の超克
阿弥陀の第十八願には、救済の広大さを説きつつも、最後に「唯除五逆誹謗正法(ただし、五逆罪を犯す者と正法を誹謗する者は除く)」という「排除文(例外規定)」が存在する。この一文の解釈を巡っては、何世紀にもわたり神学的な論争が続いてきた。
しかし、まどかの救済には例外がない。「すべての魔女を」という彼女の言葉には、但し書きがつかなかった。
彼女を殺そうとした者、システムを肯定した者、あるいは利己的な願いで他者を傷つけた者であっても、魔法少女という因果の中にいる限り、彼女は無条件に抱きしめる。
彼女の「誓願」は、古典的な本願に残されていた最後の「排除」という例外(バグ)さえもデバッグし、仏教的救済論を現代的にアップデートしたと言えるかもしれない。
究極の回向 —— まどかが魔女になる意味
まどかは願いの代償として、宇宙規模の質量を持つ「絶望」を引き受けざるを得なかった。それは論理的に考えれば、彼女自身が世界を滅ぼすほどの巨大な魔女(「クリームヒルト・グレートヒェン」的な概念存在)になりうることを意味する。
仏教には、自らが積んだ功徳を他者へ振り向ける「回向(Ekō)」という考え方がある。また、地蔵菩薩のように、地獄の苦しみを衆生に代わって受ける「代受苦」の思想もある。
まどかが行ったのは、全宇宙の魔法少女の「業(カルマ)」を一点に引き受け、自らの存在ごと消滅させることでその業を無効化するという、究極の回向であった。
彼女は「絶望」そのものを消したわけではない。絶望が物理的な破壊力(魔女)へと転化する前に、それを自らの内へと引き取り、自らが概念となって拡散することで無害化したのである。
彼女が「神」のような存在になったのは、強大な権力を得たからではない。すべての因果(業)を飲み込み、自らをシステムの一部へと昇華させることで、個としての輪廻(生と死のサイクル)を解脱した結果なのだ。
おわりに —— 円環の理、あるいは解脱の彼方へ
悪しき円環から、善き円環へ
物語の中で、私たちは二種類の「円環」を目撃した。
一つは、暁美ほむらが繰り返した時間遡行である。これは、特定の個人(まどか)を救おうとするあまり、因果の糸を複雑に絡ませ、結果として彼女の業(カルマ)を増大させてしまう閉じたループであった。仏教的に言えば、これは執着が生み出す「流転輪廻(Samsara)」そのものである。自力の救済を目指して足掻くほどに、苦しみの連鎖から抜け出せなくなる。
これに対し、まどかが最後に構築した「円環の理」は、全く異なる性質を持つ。
彼女は彼岸(浄土)へと去り、不可視の概念となったが、同時に法則として此岸(穢土)に働きかけ続けている。これは親鸞が説く「二種回向」のダイナミズムと重なる。
往相(Ōsō): 自らの個を消し去り、浄土へと往き生まれるベクトル。
還相(Gensō): 浄土から再び迷いの世界へ還り、人々を救済し続けるベクトル。
まどかの円環は、執着による停滞(サークル)ではない。彼岸と此岸を慈悲というエネルギーが循環する、開放された回路(スパイラル)なのだ。ほむらの「悪しき円環」は、まどかの「善き円環(回向)」によって包摂され、止揚されたと言える。
魔獣のいる世界 —— 穢土に留まることの意味
まどかによる改変後の世界は、決して「苦しみのない楽園」にはならなかった。魔女はいなくなったが、代わりに人間の呪いの象徴である「魔獣」が跋扈し、魔法少女たちは依然として戦い続けている。
この結末を「不完全な救済」と見るべきだろうか?否、これこそが仏教的なリアリズムである。
浄土教において、救われた者が生きるこの世界は、依然として「穢土(Saha World:忍土)」である。煩悩は消えず、争いも苦しみも続く。阿弥陀の本願は、この世界を物理的に楽園に変える魔法ではない。この世界が地獄のままであっても、その底が抜けないように支え、最終的な行き先(往生)を保証する契約である。
新世界における魔法少女たちは、真宗でいう「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」の位にあると解釈できる。
彼女たちは戦いの中で傷つき、倒れるかもしれない。しかし、「魔女化」という魂の永遠の喪失(無間地獄への転落)は、システムレベルで回避されている。
「必ずまどかが迎えに来る」という確信——あるいは無意識の安堵——があるからこそ、彼女たちは過酷な穢土において、絶望に飲み込まれることなく、最後まで「正気」を保って戦い抜くことができる。
絶望そのものを消すのではなく、絶望の意味を「破滅」から「救済への通過点」へと書き換えること。それが、この新世界の構造である。
「法身」となった少女
まどかが個人の肉体を失い、概念となったことを、仏教の仏身論、特に「法身(Dharmakaya)」で読み解くことができる。
法身とは、仏の肉体(色身)を超えた、真理そのものの姿を指す。まどかは、鹿目まどかという「個」を捨て、宇宙の理(法)そのものと一体化した。
最終回、ほむらはまどかの形見であるリボンを巻き、荒廃した世界で魔獣に立ち向かう。彼女にはもう、まどかの姿は見えない。しかし、彼女は知っている。この宇宙のあらゆる場所に、まどかの慈悲が法則として遍満していることを。
これは、不可視の真理(法身)を、念仏や名号(南無阿弥陀仏)を通して感得し、力強く生きようとする妙好人(篤信者)の姿に重なる。

結び
『魔法少女まどか☆マギカ』という物語が描いたもの。それは、エントロピーという冷酷で無慈悲な物理法則が支配するこの宇宙において、いかにして「慈悲(Compassion)」をシステムに組み込むか、という壮大な思考実験であった。
キュゥべえが象徴する「縁起」の冷たさに対し、まどかは「誓願」という熱量で対抗した。
その結果生まれた世界は、依然として残酷かもしれない。エントロピーの法則も、形を変えて残っている。だが、そこには確かな「救い」の回路が開かれている。
かつて法蔵菩薩が五劫の思索の末に浄土を建立したように、鹿目まどかもまた、ひとつの条理を打ち立て、私たちに問いかけ続けている。目に見える絶望(物理法則)だけが世界の全てではない。その裏側には、決して観測できないが、確かにそこにある希望(誓願)が流れているのだと。
「奇跡も、魔法も、あるんだよ」
