4つのディスクールと相談援助~構造は街を歩いている~
1.ディスクール理論とは
ディスクール(discours)とは「書かれたこと」や「言われたこと」といった意味です。つまり、言葉で表現された内容の総体を意味する概念で、一般的には「言説」と訳されていいます。しかし、ジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan 1901年~1981年)の言うディスクールは一般的な用法とは異なります。
ジャック・ラカンのディスクール理論は、言語の基本的な使用方法を通じて人間が他者と関り、社会的関係を築く際の「構造」をマテーム(mathéme:精神分析の概念を数式のように記号化・構造化したもの)で表したものです。「構造」に焦点が当てられているのでコミュニケーションの内容より、誰(何)が、どの立場から、誰(何)に対して働きかけているのか、ということを示すのがディスクールです。このディスクール理論は社会体制(教育や医療や福祉・介護など)がどのように人々をコントロールしているかを分析する道具になります。
ラカンは、人間が言葉(象徴界)を通じて他者と関わる際、その関係性は4つの定型的なパターンに分類できると考え、それを「4つのディスクール」と名付けました。
相談援助という営為も言葉を通じてなされるので、この4つのディスクールのどれかの構造に当てはまると考えられます。
ラカンのディスクール理論は、言語による人間関係や社会構造のあり方を分析する理論です。福祉・介護の世界の相談援助をラカンのディスクールという概念・理論装置を用いて考えてみるのも有益なことかもしれません。
私は、相談援助の理念や方法論や技術論、または個々の内容ではなく、その構造、関係性に着目してみたいと思います。相談援助を内から捉えるのではなく外から捉える、構造として捉えてみたいのです。
より端的に言えば構造主義的に相談援助を捉えてみたいのです。
構造主義的というのは、目に見える現象の背後にある「見えないルール(構造)」に着目し、その構造がどのように意味を生み出し、人間行動や文化を形作っているかを分析する考え方です。
2.ディスクールの基本構造
松本卓也(精神病理学者)さんの『人はみな妄想する』(青土社2015年)を基にディスクール理論について整理してみたいと思います。
まず、ディスクールの基本構造ですが、以下のように表されています。

松本卓也さんは、このディスクールの構造を次のように説明しています。
ディスクールの図式は、左側下段に「真理vèritè」、左側上段に「動因agent」、右側上段に「他者autre」、右側下段に「生産物production」と名づけられた四つの位置を持っている。この四つの位置のそれぞれの関係は、真理→動因→他者→生産物という方向に進む矢印に示されている。すなわち、これらの位置は、真理によって支えられた動因が他者に命令し、その結果として生産物ができると言う関係にある。そして、真理と生産物のあいだは遮断されており、両者を一致させることは構造的に不可能である。
4つのポジション(位置)を単純化すれば、次のようになります。
左上の動因(agent:エージェント)とは語り手であり、動かす側であり、支配的な役割を担う主導権の位置 。
右上の他者(autre)とは働きかけられる対象で、働きかけを受け、労働や反応を要求される対象の位置。
右下の生産物(production)とは関係の結果として生じるものです。
左下の真理(vèritè)とは動因(エージェント)の背後に隠された動機、あるいはその活動を支える基盤です。
このディスクールの構造の各項目(ポジション)に次の四項がどう配置されるかによって、ディスクールの四つの類型が決まります。
主人のシニフィアン =(S₁): 権威、命令、思考の出発点となる言葉であり、福祉現場においては「制度」「自立」「法令遵守」といった、疑いようのない絶対的な権威を持つ言葉に該当します。
知(意味されるもの) =(S₂):体系化された知識、学問、技術、マニュアルであり、S₁の命令に従って機能し事象を説明し管理するための論理的背景となるもの。
斜線を引かれた主体 =($): 分裂した主体、欠如を抱えた主体。言語を介することで、自分自身から疎外され、無意識の葛藤や欠如を抱えることになった人間存在 。相談援助においては、制度や言葉では救いきれない「生の苦しみ」を抱えた当事者そのものを指します。
対象a =(a): 失われた対象や満足、剰余快楽、欲望の原因。言語体系(象徴界)から常にこぼれ落ち、決して捉えきれない「剰余」 。欲望の原因であり、同時にシステムが排除しようとしても残り続ける「割り切れなさ」を象徴します。
松本卓也さんは、これらの四項の配置によってディスクールが定まると次のように説明しています。
これらの四つの位置に、主人のシニフィアン(S₁)、知(S₂)、斜線を引かれた主体($)、対象a(a)の四項がどのように配置されるかによって、主人のディスクール、大学のディスクール、ヒステリー者のディスクール、分析家のディスクールという四つのディスクールが得られる。
注:ラカンの精神分析で言う「主体」とは
これから何度も出てくる「主体」という言葉ですが、ラカンの精神分析における「主体」は、一般的に考えられる「自我」や「人間」とは全く異なります。
普通「主体」とは「行為の担い手」や「自我」を指しますが、ラカンはこれを否定し、「主体は言語という他者の領域に存在する(またはその産物である)」と述べています。つまり、人間が言語を操るのではなく、言語(象徴界)が人間を規定し、主体を形作るという逆転の視点です。
そして、言語(シニフィアン)が人間を規定し、人間は言語によって「分裂」させられるため、完全な自己表現は不可能だと考えられています。
さらに、主体は自分が何を欲しているのかを知らず、「他者の欲望」を欲望する(他者が何を求めているのかを欲望する)存在であり、常に何かが欠けている状態にあると考えられています。
注:シニフィアンとは
ラカンの精神分析でいうシニフィアン(signifiant)は、「音」や「文字」など記号の形そのものを指し、「猫」という音や文字がそれに当たります。それが示す「猫」というイメージや意味(シニフィエ:signifié)とは区別されます。ラカンは、シニフィアンは単独で意味を持つのではなく、他のシニフィアンとのつながり(連鎖)の中で意味が生まれると考え、このつながりの世界を「象徴界(Symbolic Order)」と呼び、無意識を理解する鍵としていました。
3.主人のディスクールと相談援助
主人のディスクール(Master's discourse)は、あらゆるディスクールの出発点で秩序と支配の根源的な形を示します。つまり、主人のディスクールとは、「こうである!」と断定する統治や支配の構造です。強力な将軍に指揮されている軍隊的ディスクールと言っても良いかもしれません。

主人のディスクールでは、左上のエージェントの位置にS₁(主人のシニフィアン)が君臨します。福祉や介護の文脈において、これは「生活保護法」「介護保険制度」といった法的根拠や、行政が提示する「標準的なケアモデル」[1]を指します。
[1] 厚生労働省は「適切なケアマネジメント手法の手引き」及びその実践ガイドを公表しています。
主人は右上のS₂(知/専門家・援助者・ケアマネ)に対して、「制度を運用せよ」「適切なケアマネジメント手法の手引きに則れ」という命令を下します。ここでのS₂は主人S₁の意図を実現するための手段として機能し、制度の正当性を補完する現場の知識体系を構築するのです。
主人のディスクールの特徴は、エージェントである主人(S₁)が自分自身の「分裂・欠如($)」を否認している点にあります。
主人の真理(左下)の位置には$が置かれていますが、主人は自らが欠如を抱えた存在であることを認めず、全能の権威として振る舞うのです。
相談援助において、援助者が「制度上、それは不可能です」と断言するとき、その背後にある行政的・法的な権威は、自らの不完全さを隠蔽したまま当事者に一方的な枠組みを押付けているのです。
主人のディスクールによって生産されるもの(右下)は、対象aです。主人が秩序を構築しようとすればするほど、そこには必ず「制度からこぼれ落ちる人々」や「標準化できない個別のニーズ」という剰余が発生します。
ケアマネジメントなどの相談援助の現場で発生する「制度の隙間」問題は、まさに主人のディスクールが構造的に生み出してしまう必然的な産物(対象a)といえます。
主人のディスクールは、権威主義的、一方的な相談援助の構造を示したものと言えます。
主人のディスコースは、今どきの相談援助では考えにくいですが、クライアントが認知症や障害者、社会的マイノリティである場合には、このようなタイプの相談援助になることもあるでしょう。
4.大学のディスクールと相談援助
福祉や介護の相談援助において、最も支配的かつ浸透しているのは「大学のディスクール(University discourse)」だと思います。
大学のディスクールは、専門的な知(S₂)がエージェントの位置に就き、専門的な知識を支える真理(S₁)を隠れ蓑にして洗練された支配を行う構造となっています。官僚主義的なディスクールと言えるかもしれません。

福祉・介護の相談援助における専門的な知(S₂)とは、アセスメントツール、科学的介護、エビデンスに基づく実践(EBC)、ICF(国際生活機能分類)といった知識体系を有した援助者を指します。
また、隠蔽されている左下の真理(S₁)には、「予算を削減せよ」「効率的に処理せよ」「生産性を向上させよ」「社会保障制度を維持せよ」といった政治的・経済的な主人の命令が潜んでいるのです。
ケアマネージャーなどの専門家が「あなたのための最適なケアです」と語る客観的な知の背後に政治的、経済的な要求(S₁)が隠されているのです。
援助者であるS₂が働きかけるのが何らかの苦悩や欲望を抱えているクライエント(a)です。
大学のディスクールの右下、生産物の位置には、$、すなわち、分裂し疎外された主体が配置されています。専門家の知識によって「あなたは〇〇症です」「あなたにはこのサービスが必要です」と断定されることで、クライエントは、自らの言葉を失い、システムの生産物としての無力感を深めることになりかねません。そして、疎外されたクライエントは遮蔽線(//)が示す通り、真理・権威・権力(S₁)へのアクセスが閉ざされているのです。
このように、大学のディスクールは洗練はされていますが、個人の複雑な苦悩を矮小化してしまうのです。
5.ヒステリー者のディスクールと相談援助
ヒステリー者のディスクール(Hysteric's discourse)は、権力や既存の知に対する「異議申し立て」の構造です。
相談援助の現場では、クライエントが示す「解決困難な訴え」や「激しい感情の表出」として現れます。

ヒステリー者のディスクールでは、左上のエージェントの位置は、$(分裂した主体、クライエント)となっています。苦悩を抱えたクライエントは、右上の「他者」の位置にいるS₁(主人/援助者)に対して問いを突きつけます。その問いの本質は「なぜ私はこのように苦しまなければならないのか」「あなたは私の何を知っているというのか」という、自らの存在の意味を問うものです。
ヒステリー者は、援助者(S₁)を「すべてを知っているはずの主人」と見なしますが、援助者の応答に納得できず援助者の無能を訴えます。
ヒステリー者のディスクールの真理(左下)の位置には対象a(欲望の原因)があり、彼らは自分を満足させてくれる完璧な主人の言葉を求め続けることで、既存の欺瞞的な知を揺さぶります。これは援助者にとって極めて不快な経験となります。
ヒステリー者のディスクールが生産するもの(右下)は、S₂(新たな知)です。クライエントの「抵抗」や「不可解な行動」に直面した援助者が、従来の知識(大学のディスクール)では対応できないことを悟り、新たな支援方法や理論を模索し始めるとき、そこに新しい知が生まれます。
福祉・介護の相談現場におけるいわゆる「困難事例」は、相談援助理論を刷新し、より深い人間理解へと導く原動力となり得るものなのです。
実際に、なかなか納得しないクライエントの相談援助から新たな知・サービスが生まれることは、ままあることだと思います。
しかし、このヒステリー者のディスクールが多ければ援助者は、疲弊しきってしまうでしょう。
6.分析家のディスクールと相談援助
分析家のディスクール(Analyst's discourse)は、「クライエント・当事者の主体性をどう取り戻すか」という課題に対する答えを示すものです。

分析家のディスクールでは、エージェントの位置に援助者自身の欲望・ニーズが「対象a」として置かれています。
ケアマネ・援助者は自らの知(S₂)を真理の位置(左下)に隠し、あえて「何も知らない」という立場(非・知)を貫きます。つまり、援助者が「全知全能の専門家」として振る舞うのをやめ、クライエントの欲望を誘発する「謎」や「余白」として機能することを意味しています。
右上の他者の位置にいるのは$(疎外された、分裂した主体としてのクライエント)です。
援助者が安易に答えを与えず、クライエントが語った言葉の一部を繰り返したり、あえて意図しない箇所で区切ったりすることで、クライエント自身の発言が「思っていた以上の意味」を持っていることに気づかせます。
クライエントは自分自身の言葉に向き合わざるをえなくなり、このプロセスを通じて、クライエントは他者(家族、社会、専門家)から押し付けられた欲望ではなく、自分自身の真の欲望を探求し始めます。
分析家のディスクールの生産物(右下)は、S₁(主人のシニフィアン)です。これは援助者がクライエントに与えるものではなく、クライエント自身が自らの内側から産み出すものです。相談援助の終結において、クライエントが「私はこのように生きていく」という、自らを支える独自の言葉や価値観を獲得するとき、それは新たなS₁の産出に他なりません。
ラカン派の対人援助において重要視されるのは、クライエントを「正常」な状態に矯正することではなく、彼らが抱える独自の「症状(サントーム)」を、自らの人生を構成する不可欠な要素として引き受けられるようにすることです。これは、大学のディスクールが目指す「標準化された幸福」への適応とは真っ向から対立する、徹底した主体性の倫理でもあります。
7.ディスクール構造表
相談援助の現場における4つのディスクールの構造を以下の表にまとめてみます。

以上のディスクールの構造を福祉・介護の世界に引き付けて整理すると、次のようになると思います。
「主人のディスク―ル」は、完璧ではない介護保険法などの法や制度がケアマネなどの相談者に働きかけるがクライエントが満足できるわけもない。
「大学のディスクール」は、政治的経済的意図に基づきケアマネなどの援助者がクライエントに働きかけるが、クライエントは受け身のままで主体的にはなれない。
「ヒステリー者のディスクール」は、困っているクライエントがケアマネなどの援助者に回答を求めるが満足できず、それでも、執拗に訴え続けるが納得できない。しかし、そのおかげで新たなサービス等のヒントが得られる。
「分析家のディスクール」は、援助者は、相談援助理論や経験に支えられながらも虚心坦懐にクライエントに向き合い、クライエント自身が自らの障害や苦悩を受容し、新たな環境形成ができるようになる。
日々の相談援助は、上記の4つのディスクールのいずれかの構造を有しているのですが、このことに自覚的であることが大切だと思います。なぜならば、ディスクールは権力構造でもあるからです。
もちろん、望ましいのは「分析家のディスクール」ですが、これには時間がかかりそうです。ですから実際の相談援助は、最も効率的な「主人のディスクール」や、テキパキ感のある「大学のディスクール」となっていることが多いと思います。
また、「ヒステリー者のディスクール」のクライエントもおりますが、彼らはカスハラ(カスタマーハラスメント)認定されてしまいそうです。
8.分析家のディスクールと当事者性
分析家のディスクールでは、ケアマネや援助者は福祉介護の知識や個別援助技術等のノウハウを持っていてクライエントの困りごとに応えられる者としてクライエントに相対します。つまり、ケアマネ・援助者は、クライエントの欲望・ニーズを理解している者としてクライエントから期待(欲望)されているのです。
そして、相談援助の結果、クライエント(分析主体)が新たな可能性、新たな生き方、新たな社会関係を結び直すことが可能となることを示しています。
私は、分析家のディスクールは、相談援助がクライエントを新たな社会関係における主人公(S₁)とする仕組み・構造を表していると思います。
分析家のディスクールが大学のディスクールと異なるのは、諸々の学説とか〇〇理論とかに支えられた知やノウハウではなく、クライエントの課題・ニーズ、欲望に焦点が当てられていることだと思います。
分析家のディスクールにおいて、相談援助の結果、クライエントは主人公(S₁)となるのですが、この主人公(S₁)とは「当事者」だと思います。相談援助というプロセスをとおしてクライエントが当事者として立ち現れるのです。
・・・「当事者」とは、最初から存在している(「当事者である」)ではなく、当事者へと生成すべき者(「当事者になる」)であるのだ。
「人は最初から当事者であるわけではなく、ニーズを抱えたときに当事者になる」
クライエントが・・・自分の特異で個別的な困りごと、ニーズを自ら引き受け、個別的な解を求め、社会的関係を再構成していく・・・当事者となる相談援助の構造が分析家のディスクールではないかと思います。
分析家のディスクールとしての相談援助では大学のディスクールとは異なり、もはや、普遍的で権威ある学説や社会制度を押付けることはできません。それらを一端、度外視して、特異的個別的なニーズへの対応が最重要課題となるのです。
ということは、相談援助は個々のニーズに社会制度上保障されたサービスを単にあてがうことではありません。松本卓也さんは以下のように指摘しています。
革命という普遍が実現された暁にはすべての個別的な問題がうまくいくようになるだろう、と考えるのではなく、それぞれの当事者が抱える個別的な困りごとに対して個別的に対応していくこと。それは、マイノリティがマジョリティに包摂されることによって解放されることではなく、マイノリティのまま解放されることを目指すことでもある。
この文章の冒頭の「革命という普遍」を「介護保険制度という普遍」に読替えてみるとよく理解できると思います。そして、「マイノリティがマジョリティに包摂される」ということは、「要介護老人を自立老人にする」と読替えるとよいと思います。
パラフレイズすると「福祉制度・介護保険制度に寄りかかるのではなく、要介護高齢者を自立老人にするのではなく、それぞれの当事者が抱える個別的な困りごとに対して個別的に対応していくことを通じて要介護者のまま社会を再構成し解放される」と言うことだと思います。
私は、相談援助のあり方は、大学のディスクールよりも分析家のディスクールの方が相応しいと思っています。
権威ある理論・学説や福祉介護の諸制度の知よりクライエントの課題・ニーズ、つまり欲望(a)を何よりも大切な事、原点として援助活動を行い、クライアントの新たな生き方、新たな社会関係をクライアントが自ら選び取れるようにすることが大切なのだと思います。
9.資本主義のディスクールと福祉・介護の危機
ラカンは四つのディスクールの変種として「資本主義のディスクール(Capitalist discourse)」を提示しています。


この資本主義のディスクールの構造は、他の4つのディスクール(主人、大学、ヒステリー、分析家)と比較すると、左側の上下のベクトルが逆転し、右下の「対象a」から左上の「主体($)」へと矢印が戻る形になっています。また、資本主義のディスクールは主人のディスクールの右側と同じであり、左辺の上下が逆転していて、エージェントの位置に疎外された欠如存在である主体($)が配置されています。
左上(エージェント):$(分裂した主体) 通常、ここには「主人(S₁)」が座りますが、資本主義では「欲望する主体(消費者)」が主役になります。
左下(真理):S1(主人のシニフィアン) 主人のシニフィアン(命令・資本の論理)が「真理」の位置に隠れています。消費者は自由だと思い込んでいますが、実際には資本の命令に突き動かされています。
右上(他者):S2(知・労働) 科学技術やマニュアル、効率化された労働です。主体($)の欲望を満たすために、知(S2)がフル稼働します。
右下(生産物):a(対象a・剰余享楽) 生産された商品や、そこから得られる快楽です。
この構造の流れは次のようになります。
$ → S₂: 主体は「もっと欲しい」と知(技術・サービス)に命じる。
S₂ → a: 知が過剰に商品(剰余享楽)を生産する。
a → $: 商品が主体に届く。
$ → S1 ...: 主体は一瞬満足するが、すぐに次の欠如を感じ、隠れた主人(資本)の命令に従って再び消費に走る。
資本主義のディスクールの特徴は、主体(人間)の持つ根源的な「欠如(足りないという感覚)」($)を、対象a(商品やサービス)によって即座に埋められると錯覚させる点にあります。資本主義は「商品(a)で欠如を埋められる」という幻想を振りまき、ブレーキのない回転(超高速の消費サイクル)を生み出します。
介護の現場は 本来、「老い」や「死」などの象徴界(言葉)では捉えきれない場であり、人間にとって根源的な欠如性が露わになる場です。
資本主義的な介護サービスは、この「老いへの不安」「死への不安」を「サービスという商品」で解決可能だと提示します。
例えば、「このケアプランを契約すれば安心です」「最新の介護ロボットが孤独を解消します」といった形で、「欠如」を「ニーズ(需要)」へと書き換え、消費の対象へと変貌させるのです。
クライエントは「サービスを選択する主体(消費者)」として振る舞うよう促されますが、その実態は、資本(システム)が提示する選択肢の中を回されているだけで、本当の意味での「自分の欲望」を見失い、消費のサイクルに組み込まれた奴隷(資本の奉仕者)となっているのです。
さらに、福祉・介護労働者は、このディスクールにおいて「真理(S₁)」の利益最大化、生産性向上(効率化)という命令のもと、介護労働のプロセスの細分化、数値化、マニュアル化(「知(S₂)」)されることで、個別の人間関係から生じる「ケアの喜び」といった「剰余享楽(a)」が、システム(資本)側へと回収されてしまいます。
さらに、資本家のディスクールには「ブレーキ」がないので、スタッフは「もっと質の高いケアを」「もっと効率的に」という無限の要求に晒され、自分自身がシステムを回すための「交換可能な部品(対象a)」として消費され、疲れ果てていきます。
現代の介護サービスが、契約と金銭授受による「ドライな交換」に特化すればするほど、かつて共同体の中にあった「他者との厄介だが親密な関わり」は排除されます。
クライエントは「満足」を求めてサービスを消費し続けますが、決して満たされることはありません(対象aの無限の置換)。
労働者は「成果」を求めて働き続けますが、人間的な応答を失います。
結果として、資本主義のディスクールは、介護という「最も人間的な触れ合いが必要な場」が、最も「孤独な消費の場」へと変質してしまうことを示しているのです。
10.資本主義のディスクールと相談援助
(1)欲望の無限循環
資本主義のディスクールにおいては、あらゆる問題が「消費」によって即時解決されるべきものとされます。福祉や介護の現場においても、当事者は「主体」ではなく「消費者(ユーザー)」となり、援助者は「商品(サービス)」の提供者となります。
一見するとクライエントの権利が商品選択をする消費者として尊重されているように見えますが、そこには「主体的な葛藤」を伴う対話の入り込む余地はありません。
このディスクールの最大の問題は、それが主体の欲望を際限のない循環に追い込み、他者との真の社会的絆を無効化してしまう点にあります。
相談援助が単なるガジェット(解決策、テクニック)の提供に成り下がるとき、それは当事者の真の回復を妨げ、資本の循環の一部へとクライエントらを取り込むことになるのです。現代の援助者は、この資本主義のディスクールに抗う倫理を確立する必要があると思われます。
(2)共感の罠と象徴的傾聴
福祉・介護の教育においては「共感」が重要視されますが、安易な共感は「想像的次元(イメージの鏡像関係)」に留まる怖れがあります。
援助者が「お気持ちはわかります」と言うとき、実はクライエントの持つ他者性、つまり自分とは違う特性や独自性、異質さを無視して、自分のイメージを投影しているだけの場合が多いのかもしれません。
これに対し、分析家のディスクールに基づく援助者は「象徴的傾聴」を実践します。これは、クライエントが語る言葉の内容(意味)よりも、その言葉の「形(シニフィアン)」、言い間違い、矛盾、沈黙といった細部に注意を払うことです。これにより、クライエント自身も気づいていない無意識の欲望を浮かび上がらせることが可能になるのです。
(3)転移の扱いと援助者の欲望
相談援助の現場では、クライエントが援助者に過度な依存をしたり、逆に激しい敵意を向けたりする「転移」(Transference)現象が不可避に発生します。主人のディスクールや大学のディスクールにおいては、転移は「管理すべき問題」あるいは「権威の裏付け」として利用されます。
しかし、真に主体性を重んじる援助においては、クライエントに対して「こうあって欲しい」「こうして欲しい」と要求する自らの欲望を抑え、クライエントが自らの欲望を発見するための「空虚な鏡」として留まり続ける姿勢が大切です。援助者が自身の「助けてあげたい」というエゴ(逆転移)を自覚し、それを括弧に入れることができなければ、分析家のディスクールは成立しないと思います。
(4)相談援助の未来とディスクールの倫理
ジャック・ラカンの四つのディスクール理論は、福祉や介護という公共的な支援活動を、単なるテクニックや制度の運用としてではなく、高度に政治的かつ倫理的な「言語の実践」として再定義するものだと思います。
援助者が直面している疲弊やバーンアウトの多くは、自らが意図せずして「大学のディスクール」の専門知(S₂)として機能させられ、当事者を「対象a」として管理することへの無意識的な罪悪感から生じているのかもしれません。
相談援助の真の目的は、クライエントを「正しい知識」や「正しい制度」に適応させることではありません。むしろ、それらの既存のディスクール、関係性、構造がいかに不完全であるかを自覚し、クライエントが当事者として自らの欠如を抱えたまま、自分自身の言葉で語り始めるための場を提供することにあります。
分析家のディスクールこそが、新自由主義の荒波の中で消費されゆく現代の福祉・介護現場において、人間の尊厳を救い出すための避難所となり得るものです。
援助者は、さまざまクライエントへの相談援助の中で自らがどのディスクールを生きているかを常に問い続け、主人の命令や大学の知を相対化しながら、当事者との間に「真の他者性」に基づく新たな社会的絆を紡ぎ直していくことが求められていると思います。
