自己差別する障がい老人「老い」(2)
4.中途障害者の自己差別
「老い」は他者から告げ知らされるという側面、対他存在という側面があります。老いて、自分を「よそよそしく」感じさせる根っこには対他存在があると思うのです。
さらに、老いの果てには障害が待っています。
加齢という現象は、すべての人が中途障害者になることだ。
中途障害者と先天的障害者の決定的な違いは、前者には障害がなかったときの自分の記憶があることです。そうすると、中途障害者になった人は、他人から差別を受ける前に自分自身を否定するのです。「ふがいない、情けないわたし」と。これを自己差別と言いますが、第三者による差別より、自己差別はもっと厳しくつらいものです。高齢者が味わっているのはそれです。
高齢者介護とは老化によって中途障害者となった障害高齢者の介護だと思います。そして、障害高齢者の特徴は自己差別ということです。
自分に対する「よそよそしさ」はこの自己差別に起因する面があると思うのです。
高齢者介護に携わる人は、この自己差別という事態について真摯に向き合うことが大切です。
老人はこの自己差別を乗り越えなければなりません。そのためには、老いを自ら受止め、開き直らなければならないでしょう。
次の文章には勇気づけられます。
年をとれば誰でも衰えて弱くなり、動きも鈍くなって、周囲に面倒をかけることもあるでしょう。それがどうした、その何が悪い?
・・・老人たちは老いという新しい冒険に乗り出しているのです。それは、認知症になるということを含めて、です。
老人で何が悪い。
面倒をかけて何が悪い。
生産性が低くて何が悪い。
自立できなくて何が悪い。
このような開き直りがとても大切なのだと思います。
私も、開き直って生きていこうと思います。
私は開き直るということは、老いを直視し、対他的ではなく対自的に老いを生きること、人様目線で自らを評価するのではなく、自分の歩んできた人生に基づいて自己固有の「今」を味わうことだと思います。
人様目線で自らを評価するというのは、まさしくハイデガーの言う世人(das Man)として生きているということでしょうね。
5.よそよそしい自分の身体
老いについての理解は高齢者介護にとって不可欠だと思いますが、老いの理解が心理学的・生理学的な理解に偏っているのではないかと思います。
私は、「身体図式」という観点からの理解も大切だと思っています。
「身体図式」という概念は耳慣れないものかもしれません。
この「身体図式」という概念は19世紀末から20世紀初頭の神経学において現れた概念ですが、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty:フランスの哲学者:1908年~1961年)が精緻に考察したことで知られています。
自分の身体を物理学的、生理学的、解剖学的に理解することもできますが、身体は客観的対象というだけではなく、主観的に生きられているものであります。
私たちは病気や痛みでもない限り、普段は身体のことなど気にしていませんし意識もしていません。私が歩くとき、ベッドに横たわるとき、特に身体なんか意識していません。自分の身体は普段は対象ではなく、ただたんに「生きられている」ものです。
田中彰吾(心理学・哲学:東海大学の文化社会学部教授)さんは、メルロ=ポンティの「生きられたもの」について次のように説明しています。
ひとは自らの身体とともに行為しあるいは知覚しているとき、たいていの場合それを暗黙に遂行している、言い換えると行為や知覚の経験をただ「生きている」。メルロ=ポンティによれば、このように前反省的に「生きられたもの」を反省によって意識にもたらす作業こそ、現象学の核心である。
ひとは皆、暗黙のうちにつねになんらかの行為を遂行できる身体を生きている、・・・
環境に対して行為を通じて応答するのが身体の根源的あり方であり、それは学習された、スキルに基づく行為の能力=「われできる」によって支えられている。
メルロ=ポンティの考えでは、身体に備わるスキルと行為の能力を支えているのが「身体図式(schema corporel/body schema)」と呼ばれる機能である。
私は、この「身体図式」が加齢とともに崩れてくる、綻んでくるのではないかと思っています。
自分ではきちんと食べているつもりなのに食べ物をこぼして床を汚すことが多くなりました。また、いつどこでぶつけたかもしれないけれど身体に痣がよくできています。
これは科学的・客観的には身体の生理学的機能が衰えてきているからでしょうが、生きられている自分の基盤、つまり、「われできる」の基盤であるスキルと行為の能力を支えている「身体図式」が綻び解けかけているからだとも考えることができます。
「できる」ことが「できなくなる」ということは、自分に障害が生じているということでしょう。そして、その「できなくなった」自分(身体)をとても意識するようになるのではないでしょうか。
「老い」とは、で「きなくなった自分」に直面することなのかもしれません。
私は、自分が老いていくなかで、この身体図式の綻び加減、出来なさ加減を自嘲的にでも笑いながら味わっていきたいと思います。
老化についての生理学的分析は、科学的・客観的なのでしょうが、そのような分析結果と今を生きている自分との関係性を感じることは難しいです。
むしろ、客観的な事実ではなく、生きられている「身体図式」の綻びによる、空間、時間、道具存在の変容を感じとり、確認していくことの方が自分にとってリアリティがあるように思います。
「身体図式」が綻んでいき、それにともなって自分の身体や周囲の環境が「よそよそしく」感じられるようになるのではないかと予想しています。
さて、どうなるのか?
人は死の経験はできませんが死にゆく経験はできるのです。その経験をじっくり味わうことができればいいなと思います。
以下のnoteもご笑覧願います。
