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年寄りは邪魔者か?「老い」(1)


1.老いは他者の経験

 私も60歳代後半というか、70歳の一歩手前の年になりました。
 ご飯はこぼすし、物は落とすし、物忘れするし、あちこちぶつけるし、何か今までと違うと感じてます。鏡をみると、これが自分の顔かぁ、これが自分の身体かぁと何か納得できません。

 「何か素直には納得できない老いた自分」、このような感覚を上野千鶴子(社会学者)さんは次のように「内なる他者」と表現しています。

 老いはたいてい「他者の経験」としてやってくる。その他者とは、自分よりも先に自分の老いを認識する「周囲の人びと」であり、それを受け入れられない自分にとっての「内なる他者」なのです。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢に抗(あらが)わない」100分de名著 p17

 たまに、中高時代の友人と会って「こいつもずいぶん年取ったな」と思うことがありますが、友から見れば私も「ずいぶんけた」と思われているに違いありません。

 上野千鶴子さんはボーヴォワールの次の言葉を紹介しています。

 ボーヴォワールは言います。
 老いとは、客観的に決定されるところの私の対他存在〔他者から見ての、また他者に対するかぎりにおいての、私という存在〕と、それをとおして私が自分自身についてもつ意識とのあいだの弁証法的関係なのである。私のなかで年取っているのは他者、すなわち、私が他者たちにとってそうであるところのもの、であり、しかもこの他者は、私なのだ。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p29,30

 老いに気づく時、対自存在ではなく対他存在となっているのでしょう。老いは原初的には対他的なのでしょう。
 対自存在とは自己を内的に理解し、他者との関係に左右されず、見る者としての存在の形態のことで、対他存在とは、他者にとって見られる私を気づかう私の在り様のことです。今日のデートに何を着て行こうかなという自分は対他的で、私この服好きだからこの服を着ようというのは対自的ですよね。ようするに、自分の視点(自分にとって)で主体的に生きている場合は対自的ですが、他人の目を気にしている時は対他的と言えるのでしょう。

 他者の眼に映った自分を意識したときに「老い」を実感します。私は自己の老いを感じるときは「自分をよそよそしい存在」として感じています。

「よそよそしい自分」それが「老いた自分」だと感じています。私は、老いを考えるときこの「よそよそしさ」が気になるのです。

2.老人は非生産的な厄介者か?

 哲学者・作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir 1908-1986)は62歳の時に『老い』という作品を書いたとか。やはり、60歳を過ぎると老いについて考えるようになるようですね。

 ボーヴォワールの『老い』は日本語版で約700頁もある大著で、とても読めそうにはありませんが、上野千鶴子(社会学者)さんの『ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない』(100分de名著2021年)は短いし読みやすいです。

 上野千鶴子さんは、次のボーヴォワールの言葉を紹介してくれています。 

 文明社会でありながら、老いた人間を厄介者にして廃物扱いする。そのように老人を扱うことが文明のスキャンダルであると、ボーヴォワールはきっぱりと言っているのです。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p6 

 ボーヴォワールは『老い』のなかで、厄介者になった高齢者をどう扱うかで、その社会の質が測られると言っています。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p7

 日本社会でも近頃は若者・現役世代と老人の世代間対立をあおるような言説があふれていますし、財務省は明確に老人を敵視しているように思われます。世界一の超高齢社会日本は、老いた者を邪魔者扱いしているのです。

 現代日本社会では老は軽んじられさげすまれていますが、昔は違ってたように思います。 

 中国で先生のことを老师(lǎo shī)と言います。この言葉を初めて知った時に、「中国語で老は肯定的な意味合いがある」と感動したことを覚えています。これは、儒教や道教の影響なのでしょう。

 農耕社会では経験がものをいいますから、年齢を重ねた老人が大切にされたのかもしれません。儒教の教えは、老いを恥ずかしいこととせず、むしろ知恵や教訓を持つ者としての価値を強調しているらしいです。

  また、道教は老いを自然の一部として受け入れています。老子は「心穏やかになる方法」を提唱し、老いを恐れず、むしろその過程を楽しむことが重要であると説いているようです。 

  現代社会は農耕社会と違って変化が激しく、今までの経験だけで世の中を渡っていくことが困難になっています。時代に合わせて自ら変わっていけること、つまり「Change」が重要視されるようになっているのでしょう。それで、昔は価値のあった「老」が邪険じゃけんにされるようになったのかもしれません。

 労働市場で生産性がなくなり、ケアが必要になったことで厄介者となった高齢者たち。彼らをどう処遇するのかという問題に、文明はいかに答え得るのでしょうか。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p94

 今の日本は長期の経済的低迷から脱却すべく生産性の向上が強く求められています。この生産性圧力とでも言う風潮の中で要介護高齢者・障害高齢者たちがどのように扱われるか、ぐうされるかが日本社会に問われているのですが、とても自慢できるものではないように思います。

 老人たちが社会的にどう扱われるかは個々人の努力だけでは決められませんが、老人たちがこぞって声をあげることが大切です。
 その際に、「自分たちにも生産能力がある」「自分たちはまだまだ若い」ということでは老人や障がい者を蔑ろにする論理に引き込まれてしまいます。
 上野千鶴子さんは次のように、若さ信仰、生産性信仰を打破するようなロジックを提唱したほうがよいように思います。

 さて、わたしは今も「老いても若々しくいましょう」とか「老いても前向きに生きましょう」などとは口がさけても言いたくありません。なぜなら、老は誰もがあらがえない衰えの過程だからです。老は誰にも避けられません。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p7

 私は、棄民ならぬ棄老社会を生き抜くために、老人には「年寄りで何が悪い!」「生産性が低くて何が悪い!」というような「開き直り」的な論理が必要だと思います。

3.向老期のアイデンティティ・クライシス(Identity crisis)

 大人から老人となっていく向老期に、思春期と同様にアイデンティティの危機が生じます。 

 子どもから大人への移行を「成熟」、大人から老人への移行を「老化」と言います。成熟/老化には、生理的、心理的、社会的、文化的という四つの次元があります。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p7

 大人が老人に向かう、いわゆる向老期こうろうき・・・は大変長くなりました。青年期よりはるかに長い。その長い長い期間に、実は青年期と同じようにアイデンティティの危機は起きています。

引用:上野千鶴子 2021「ボーヴォワール 老い 年齢にあらがわない」100分de名著 p12

 「なるほど」と思う指摘ですね。

 退職して慣れ親しんだ職場を去ると、自分は「〇〇会社の△△部長だ」というアイデンティティを失います。また、子供たちも育って独立して家を出て行けば「自分は親だ」というアイデンティティが希薄化してきます。
 さらに、身体の自由がきかなくなり、やる気も失せていき、役割を失い、もはや以前のアイデンティティを維持できなくなってくるのです。
 特に仕事しかしてこなかった男性だと地域に知人も活動する場も見つけられなく、妻からは「濡れ落ち葉[1]」と揶揄やゆされ、孫からは臭いと嫌われる・・・
 生産性圧力の強い現代日本では老人は蔑ろにされることが多く、役割を失い、社会的承認を得られなくなり、アイデンティティを喪失していくのです。

「自分は何者なのだろうか」
「自分には何ができるのだろうか」
「周りの者たちは私に何を期待しているのだろうか」
「自分には何か役割があるのだろうか」
「自分の居場所はどこなのだろうか」

 向老期は長い時間をかけてゆっくりと、しかも確実にアイデンティティの危機にさらされる時期のようです。

 社会生活では、アイデンティティの危機に晒され、自己イメージが揺らぎ、さらに、自分の身体、容貌に「よそよそしさ」「他者性」を感じてしまう今日この頃・・・
 「老」を我が事として考えなければならない年齢になりました。


[1] 定年退職後の男性が仕事や趣味もなく、妻に頼りきって離れようとしない様子を指す慣用句



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