自閉症と認知症の時間
認知症高齢者には「時間は存在しない」というテーマが注目されています。とても衝撃的かつ魅力的なテーマですね。
カントは時間を人間が世界を認識するための「OS(形式)」「感性的直観の形式」と捉えていますので、「時間は存在しない」というテーマは、まさしく動転境地でした。
ちょっと唐突にハイデガーの話になりますが、ハイデガーは人間(現存在)が「未来へ向かいつつ、過去を背負い、今に没頭している」という構造を持っていると指摘しています。そして、この三つが一体となった働きを「時間性」と呼んでいます。
また、時間は単なる「時計で測るもの」ではく、「人間(現存在)の存在そのもののあり方」だとも言っています。
超単純化すれば、「人間存在=時間」です。
少なからずハイデガーに憧れている私ですから、介護業界のトップランナーたちが「認知症老人には時間は存在しない」というテーマでとても深い議論をしていることに、強い衝撃を受けました。
時間は単なる「時計で測るもの」ではなく、「人間(現存在)の存在そのもののあり方」であるならば、認知症などにより時間の連続性が失われた状態(時間の見当識障害)は、「人間(現存在)としての『あり方』が変容している」可能性があるということになります。
この時間意識・構造の変質・変容について考えてみることは認知症ケアにとって大切なことだと思います。
1.時間の三構造・三類型
村上靖彦(哲学者)さんの『自閉症の現象学』(2008年・勁草書房)は、認知症高齢者の理解にも役に立つように思います。
認知症の方と自閉症(自閉スペクトラム症:ASD:Autism Spectrum Disorder)の方の世界は相通じるところもあるかもしれません。まずは、村上さんの『自閉症の現象学』を繙くところから始めたいと思います。
(1)時間の基礎構造
村上さんは、メロディーを聴く経験を題材にして、フッサールの現象学の時間意識の三層構造を紹介しています。フッサールは「ド・レ・ミ」というメロディを聞くとき、私たちはなぜそれを「メロディー」として聞けるのか?という問いから出発しています。
「ド」が鳴っている今、「レ」はまだ鳴っていません
「レ」が鳴っている今、「ド」はもう消えています
では、なぜバラバラの音ではなく、「つながったメロディ」として聞こえるのか?
よく考えてみると不思議です。この謎を解くために、フッサールは「内的時間意識」の理論を作りました。そして時間の基礎構造を以下の三つの要素で説明しようとしました。
原印象(Urimpression):「今」の感覚的印象が生起する瞬間、今まさに」感じている感覚、「レ」の音が今鳴っている!という瞬間的な体験
把持(Retention):過去へと流れ去る印象を保持する働き、「レ」が鳴っているとき、「ド」はもう消えたけれど、「今しがた『ド』が鳴っていた」という余韻が残っている ※ 注意しなければならないのは、把持は「記憶」とは違うということです。記憶は過去を「思い出す」こと(意識的な努力が必要)ですが、把持は自動的に、過去が「尾を引いて」残っていることです。
予持(Protention):来るべき未来への予期・予感、これから来る未来への漠然とした予期、予測や期待とは違い、もっと受動的で自然な「構え」
で例えば、「レ」が鳴っているとき、「次に何か音が来そうだ」という予期・予感
例:「ド→レ→ミ」というメロディが流れているとします。「レ」が鳴っている瞬間は次のような経験をしています。
【過去】 【現在】 【未来】
ド ← 把持: レ 予持→ (ミ?)
(薄く残る) (鮮明) (何か来そう)
今(現在)、「レ」が原印象として感じつつ、「ド」という音の感覚印象は把持によって徐々に色褪せながら過去へと流れ去り、メロディーの次の音「ミ」を予感しつつあります。この連続的な流れが、私たちが経験する「時間の流れ」を構成しているです。
他の例を挙げてみましょう。友達と話しているとき、「私は昨日、映画を見ました」という会話の時間構造は次の通りです。
「映画を」という言葉が耳に入っている瞬間(現在)は、次のような時間意識となっているはずです。
原印象:「映画を」という音が今聞こえている
把持:「私は昨日」という言葉の余韻が残っている
予持:まだ文章が続きそうだという予期
このような時間構造があるから、バラバラの単語ではなく、文章全体の意味が理解できるのです。
「今・現在」は、このように厚みのある経験なのです。「今・現在」は過去を引きずりながら未来へ開かれていると言っても良いでしょう。そして、把持・原印象・予持が絶えず流れ続けることで意識が成立しているのです。
村上さんは、上記の形式構造は自閉症の方だけでなく私たちにも共通する普遍的な基盤だとしています。
これが時間意識の普遍的構造なのですが、村上さんは、『自閉症の現象学』(2008年・勁草書房)で、時間とは単一の構造ではないと指摘しています。
恐らく時間とは単一の構造ではないし、一つの根源的時間のようなものに還元できるものではない。視点の取り方次第で様々な構造が現れる不定形の現象であると思われる。
(2)自閉症の時間
村上さんは、定型発達者とは異なる「自閉症スペクトラム(ASD)の人々の生きる世界」を理解するために、時間の経験を以下の3つのカテゴリーに分類しています。
①「感性的印象の時間」、②「リズム的時間」、③「視線触発の時間」です。
参照:村上靖彦 2008『自閉症の現象学』勁草書房 p75
①感性的印象の時間
感性的印象の時間(感性的時間)は「いま、ここ」で生じている強烈な感覚刺激そのものに没頭する時間です。過去の記憶や未来の予測に接続されない、断片的な「現在」が連続する時間です。
人は通常、目の前の風景を「意味」として捉えますが、重度の自閉症の方の感覚印象の時間においては、意味になる前の純粋な刺激(光、色、振動など)が圧倒的な力を持って立ち現れます。
原印象に圧倒される、このような状態では、感覚印象が時間的に連続して流れるのではなく、個々の印象に没入し、その印象の中に留まり続ける傾向があります。
②リズム的時間
リズム的時間は、同じ動作やパターンを繰り返すことで生み出される、円環的で安定した時間です。体を揺らす(ロッキング)、手をひらひらさせる、同じフレーズを繰り返すといった「常同行動」によって形成されます。
自閉症の方にとっては、世界は予測不能で不確かな刺激に満ちていますが、リズム的時間によって自らの体でリズムを作ることで、「次に何が起こるか100%わかる」という安心感を確保することができます。リズム的時間は、自分自身の存在を維持するための防衛的な時間ともいえます。
認知症高齢者にも机を叩く、同じフレーズを言い続けるなどの常同行動が見られますが、このリズム的時間を生きているのかもしれません。
③視線触発の時間
視線触発の時間は、他者とのやり取り(相互作用)の中で、突発的に、かつ受動的に立ち上がる時間で私たちが普段経験している時間です。 自分のペースで制御できる「リズム的時間」とは異なり、他者の視線や声かけによって、自分の世界が「不意に」侵入されたり、揺さぶられたりする瞬間に生じます。
以上の時間の三類型をまとめると以下の表になります。

2.自閉症の時間特性
村上さんは、人間が時間を経験する際、過去・現在・未来(把持・原印象・予持)を一続きのものとしてつなぎ止める「時間的図式(図式化)」が働いているとしていますが、自閉症の方の時間は特異な時間となっていると次のように指摘しています。
(1)時間の連続性の分断
通常、私たちは「過去・現在・未来」(把持・原印象・予持)がつながった「時間の流れ(時間的地平)」の中に生きています。しかし、自閉症児の世界ではこの連続性が分断されています。
(2)「今、ここ」の孤立(点の時間)
自閉症児にとって、時間は「線」ではなく、バラバラな「点」として経験されているようです。ですから、未来の見通し(予期)が持てないため、次の瞬間に何が起こるか分からない、予見がうまくできないという根源的な不安に常にさらされています。
(3)「待つ」ことの困難性
未来という地平がないため、「あとで」「次に」という言葉が機能せず、「今」しかない自閉症児の世界では、要求は「今すぐ」満たされる必要があり、待たされることは世界の崩壊に近い苦痛を伴います。
(4)フラッシュバックと時間の凍結
過去の出来事が、単なる「思い出」ではなく、今まさに起きていることとして生々しく再演されます。
上記の事態は自閉症の方が視線触発に始まる自他の析出と対人関係の構築化がうまくできないことに起因しているかもしれません。以下のnoteをご参照ください。
3.認知症高齢者の時間
(1)時間の見当識障害
先に紹介したように、村上靖彦さんは、人間が時間を経験する際には、過去・現在・未来(把持・原印象・予持)を一続きのものとしてつなぎ止める「時間的図式(図式化)」が働いていると論じていますが、認知症高齢者は、この「図式化」の機能が弱まり、時間の連続性が断片化されていると考えられます。
過去の記憶と現在の状況、そして未来の予測が結びつかなくなるため、認知症高齢者は「今、ここ」、という孤立した瞬間の中に放り出されているのかもしれません。
つまり、時計の針が示す客観的な時間や、カレンダーによる日付という「社会的・客観的な時間枠」が意味をなさなくなり、高齢者は自分が人生のどの地点にいるのか、一日のどの時間帯にいるのかという「座標軸」を失っていることがあるのです。
これが、「ここはどこだ」「私は何をすればいいのか」という強い不安(見当識障害に伴う周辺症状)に直結します。
(2)身体的・感覚的な時間感覚
社会的・知的な時間の把握(「今日は〇月〇日だ」という認識)が困難になると、高齢者の時間は、お腹が空いた、眠い、日が暮れて暗くなったなどの身体的・感覚的なリズムにとって替わられるようになります。
いわゆる「夕暮れ症候群」などは、客観的な時間の喪失後に、視覚的な変化(暗さ)が直接的に不安を惹起する、身体的なレベルでの時間経験の変容と見なせます。
(3)過去の現在化
自閉症児の特定の記憶が鮮明にフラッシュバックするように現れる現象は、時間の「パースペクティブ・遠近法」が機能していないからだと思われます。
認知症においても、数十年前の出来事を「今まさに起きていること」として振る舞う(例:亡くなった親が迎えに来ると言う、仕事に行こうとする、幼い子どものご飯をつくろうとする)のは、時間の層構造が崩れ、過去が現在に侵入(混濁)している状態だと思われます。
時間の図式化、構造化が機能しないことで、過去・現在・未来の区別が消失し、主観的に切実な「過去」が「今」を乗っ取ってしまうのです。
精神分析家の松本卓也さんも、認知症を短期記憶障害と捉えずに「忘れることができない」病、「忘却の障害」と捉えています。
認知症とは、「何かを忘れてしまう」病であるというよりも、むしろ「忘れることができない」病、つまり過去の記憶が現在において勝手にあらわれてしまう病だと考えることができるようになります。岩田誠(1942-)が指摘しているとおり、認知症は記憶の障害というよりも「忘却の障害」であり、その病理は過去が現在へと断片的に侵入するフラッシュバックにも似た側面を持っているのです。より明確に定式化しておくとすれば、認知症における過去は、(うつ病にみられるように)罪責感を惹起するパーツとしてではなく、見当識障害とは、見当識を失っているのではなくて、過去の見当識が現在に侵入してくるということなのです。』
松本さんも、認知症は、短期記憶の障害により、過去の記憶が現在へと断片的に侵入するフラッシュバックにも似た情態を示すとしていますし。見当識障害も過去の見当識が現在に侵入してくることだとも指摘しています。この指摘は、なんか納得できます。
(4)異質な時間世界
認知症高齢者の時間の見当識障害は、単なる「物忘れ」ではなく、「世界を時間的な広がりとして構成する力(時間的図式)」の変容であると言えます。
認知症高齢者、私たちが当たり前のように享受している「過去から未来へ流れる安定した時間」の中にいるのではなく、断片化された時間や、身体的な感覚、あるいは切実な過去の記憶が支配する「異質な時間世界」を生きていると思われます。
介護の現場では、この「彼らにとっての時間の現れ方」を現象学的に理解し、共感的な関わりを持つことが求められます。
4.ハイデガーの時間論
(1)認知症高齢者の時間制
ハイデガーは人間(現存在)が自分自身を理解し、世界に関わる際の根本的な枠組みは「時間」だとしています。つまり、人間にとって存在することは、時間的であること(過去から引き継ぎ、未来へ投企すること)と同義なのです。
ハイデガーは、日常生活(非本来性)における、過去、現在、未来を次のように捉えています。
未来:到来(予期) ⇒ 私たちは常に「次はどうしよう?」「将来こうなりたい」と、自分を未来に投げ出しています。
過去:既在(保持/忘却) ⇒ 同時に、これまでの経験や環境(投げ込まれた状況)を背負って生きています。
現在(現在化) ⇒ その上で、今の目の前の状況に対応しています。
ハイデガーは、過去・現在・未来という時間の広がりがあって初めて、「私という存在」の意味が立ち現れてくる。だからこそ、「時間こそが存在を理解するための地平(ベース)である」と理解しているようです。
また、「未来へ向かいながら、過去を引き受けて、今に没頭している」という構造、つまり、時間性を有していると指摘しています。
認知症高齢者が「今は何月何日か」を忘れてしまったとしても、その方は依然として過去の蓄積(投げ込まれた状況)があります。つまり、 言葉、癖、好み、体にしみついた記憶など、過去は「今」のその方の振る舞いの中に、本人も気づかない形で刻み込まれています。
また、未来についても、「お腹が空いた(食べたい)」「誰かにそばにいてほしい」という切実な欲求は、わずか数秒先であっても「未来」への投企(投げかけ)です。
ですから、時間のスパンがどれほど短くなろうとも、人間である限り「過去・現在・未来」が絡み合う構造、時間性そのものから外れることはできないように思われます。
(2)共存在
ハイデガーは人間を「一人で存在する者」ではなく、他者と共に生きる「共存在」として定義しています。
本人の時間的なつながり(見当識)が断片化してしまったとき、その断片をつなぎ合わせ、存在の意味を支えるのは「周囲の他者」だと思います。
例えば、 家族が本人の過去を語り継いだり、介護者が本人の「今」のケアを通じて、尊厳ある「未来」を保障したりする。
このように、他者との関わり(ハイデガーの言う「気づかい」≒ Care)によって、本人の欠落した時間性は補完され、一つの「人間としての存在」が維持されるのではないでしょうか。
認知症の方は、自分一人では時間を維持できなくなり、他者の時間を借りて存在している、極めて相互依存的な存在になっていると思われるのです。
5.大切にしたい本人の世界
介護の世界を科学的介護が席巻しています。
科学的介護では、利用者をアセスメントし当事者を客観的科学的に把握することが基本です。
科学的介護も大切ですが、一辺倒になってはいけないと思います。客観的科学的手法から零れ落ちる一人称的なもの、個別的なもの、ご本人の経験している世界の理解も介護にとっては大切だと思います。
現象学とは、一人称観点から私たちの経験を探求する哲学です。認知症ケアにおいても認知症の方の内的な理解を深めるためには現象学的視点は有効だと私は思っています。
科学的介護については次のnoteを参照ください。
