研修のディスクール
1.福祉・介護業界の山盛りの研修
(1)資格等にまつわる研修
福祉・介護業界は資格の世界です。ですから、有資格者となるために受講しなければならない研修やレベルアップするための研修がたくさん用意されています。
介護職員には「認知症介護基礎研修」「介護職員初任者研修」「介護福祉士実務者研修」などの基本的な研修の他に「認知症介護実践者研修」「ユニットケア基礎研修」「ユニットリーダー研修」等々
介護支援専門員には「介護支援専門員実務研修」、「介護支援専門員更新研修(実務者向け)」「介護支援専門員更新研修(実務未経験者・再研修)」「介護支援専門員専門研修(Ⅰ・Ⅱ)」「主任介護支援専門員研修」等々が用意されています。
※ 介護支援専門員の更新制度の動向(2025年以降): 厚生労働省は更新研修制度の廃止を決定しており、今後は5年ごとの更新手続きがなくなる見通しです。
(2)法定研修など
福祉・介護業界ではサービスの品質維持・向上のためたくさんの教育研修が必要とされています。
運営基準等に実施が義務付けられている法定研修だけでも「認知症、認知症ケアに関する研修」「プライバシー保護に関する研修」「接遇に関する研修」「倫理・法令遵守に関する研修」「事故の発生、予防、再発防止に関する研修」「緊急時の対応に関する研修」「感染症及び食中毒の発生の予防及び蔓延の防止に関する研修」「身体拘束の排除の取り組みに関する研修」「ハラスメント対応に関する研修」「高齢者虐待防止、関連法含む虐待防止に関する研修」「介護施設・事業所における業務継続計画(BCP)関する研修」・・・
毎月、研修しなければならないくらい研修課題がたくさん用意されています。
法定研修の他にもリーダーシップ研修やらマネジメント研修、生産性向上に関する研修など研修ビジネスも盛んです。
福祉・介護業界では、知識を提供する研修の他に自己啓発系の研修ビジネスも盛んです。とにかく研修が沢山ありすぎて何を研修してよいか分からなくなるくらいです。
「私はなんの研修を受けたらよいのか?」を教えてくれる研修が必要なくらいです。
ここで、いったん立ち止まり、研修の種類や内容ではなく、その構造について考えてみることも大切だと思います。
そもそも、研修とは、どのような構造、コミュニケーション構造、権力関係になっているのかを考えてみたいと思います。
2.研修のディスクール
フランスの精神分析学者のジャック・ラカンは、社会的なコミュニケーションの形を「主人のディスクール」「大学のディスクール」「ヒステリー者のディスクール」「分析家のディスクール」の4つに分類しました。
※ 詳しくは以下のnoteをご参照願います。
研修ビジネスの核心は、主に「大学のディスクール」であり、それが「主人のディスクール」を隠蔽していると思います。
(1)ディスクールの基本構造
ディスクールの基本構造ですが、以下のように表されています。

4つのポジション(位置)を単純化すれば、次のようになります。
左上の動因(agent:エージェント)とは語り手であり、動かす側であり、支配的な役割を担う主導権のポジション。右上の他者(autre)とは働きかけられる対象で、働きかけを受け、労働や反応を要求される対象のポジション。右下の生産物(production)とは関係の結果として生じるものです。左下の真理(vèritè)とは動因(エージェント)の背後に隠された動機、あるいはその活動を支える基盤です。
このディスクールの構造の各項目(ポジション)に次の四項がどう配置されるかによって、ディスクールの四つの類型が決まります。
主人のシニフィアン =(S₁): 権威、命令、思考の出発点となる言葉で疑いようのない絶対的な権威を持つものに該当します。
知(意味されるもの) =(S₂):体系化された知識、学問、技術、マニュアルであり、S₁の命令に従って機能し事象を説明し管理するための論理的背景となるもの。
斜線を引かれた主体 =($): 分裂した主体、欠如を抱えた主体。言語を介することで、自分自身から疎外され、無意識の葛藤や欠如を抱えることになった人間存在 。
対象a =(a): 失われた対象や満足、剰余快楽、欲望の原因。言語体系(象徴界)から常にこぼれ落ち、決して捉えきれない「剰余」 。欲望の原因であり、同時にシステムが排除しようとしても残り続ける「割り切れなさ」を象徴します。
(2)「大学のディスクール」としての研修:知識による支配

研修において、講師やコンサルタントは「エビデンスに基づいた介護」や「最新のマネジメント手法」という体系的知識(S₂)を前面に押し出します。しかし、「これが正解である」という顔をして語られる知識(S₂)は、実はその背後にある経営層や資本の論理(S₁:つまり「生産性を上げろ」 「利益を上げろ」「効率的に業務遂行せよ」「従順であれ」という命令)を正当化するための道具となっています。
そして、満たされない思い、何らかの欲望を有している職員はこの知識(S₂)によって「教育されるべき対象(a)」として扱われます。
この研修の構造(大学のディスクール)を通じて、職員の固有性は剥ぎ取られ、組織にとって都合の良い「部品」($)へと成形されることになるのです。
(3)「主人のディスクール」の隠蔽
主人のディスクールは、あらゆるディスクールの出発点で秩序と支配の根源的な形を示します。つまり、主人のディスクールとは、「こうである!」と断定する統治や支配の構造です。

本来、会社が職員を研修するのは、資本家、経営者の「儲けたい」「支配したい」といううのが本音(主人:S₁)です。この経営者の本音が研修の受講者(S₂)に対して、より効率的に働ける労働力商品になれと指示命令しますが、受講者は納得できない割り切れなさ(a)を感じてしまうのです。この主人のディスクールは、経営者さえも資本の論理に搦め捕らえられており疎外・欠如($)を抱えているのです。
この『主人のディスクール」のような、剥き出しの儲け主義や軍隊式の命令は、現代においては反発を招きます。
ここに研修の必要性が出てくるのです。
「あなたのキャリアのため」「自己実現のため」という大学のディスクールに翻訳することで、支配の構造をマイルドに隠蔽するのです。
職員は「自分のスキルのために学んでいる」と錯覚しますが、その実、再生産されているのは組織への従順さです。
(4)「剰余価値」の回収と欠如の埋め合わせ
ラカンの精神分析理論における「対象a」は、失われた享楽や、決して満たされない「もっと」という欲望を指します。
研修、特に研修ビジネスでは、「これさえ学べば完璧になれる」という幻想を提示しますが、実際には次から次へと新しいスキル(DX、リスキリング、ウェルビーイング等)への渇望を刺激し、終わりのない学習に導きます。
つまり、研修の受講者は学べば学ぶほど、「自分にはまだ何かが足りない」という分裂・疎外された主体($)としての不安を突きつけられます。この「欠如」こそが、次の研修、次の研修を売り込むための市場開発につながります。
(5)研修破壊的な「ヒステリー者のディスクール」
もし職員が「なぜこんな無意味な研修を受けなければならないのか?」と問い始めたなら、それは「ヒステリー者のディスクール」への移行です。

疎外された職員・主体($)が主人(組織:S₁)に対し、「あなたはなぜ私にこれを強いるのか?」と欠如を突きつける状態です。
これでは、研修が成り立ちません。ですから、研修では、こうした本質的な問い(ヒステリー的問い)が生まれる前に、先回りして「答え(知識)」を流し込み、主体($)の不安を「学習モチベーション」へと回収することが研修成立の基本条件になっているのです。
ディスクールから見れば、研修とは「資本(主人S₁)の命令を『客観的な知識』というオブラートに包んで飲み込ませる装置」と言えます。
それは労働者の主体性を解放するものではなく、むしろ「自己啓発」という名のもとに、支配・管理を内面化させる高度な統治技術であるという側面がありす。
3.研修にならない「分析家のディスクール」
「大学のディスクール」が「答え(知識)」を一方的に与えて受講者・主体を型にはめるものだとしたら、「分析家のディスクール」に基づく研修は、その真逆と言えます。
「分析家のディスクール」は、「研修の受講者の主体性をどう取り戻すか」という課題への一つの回答だと思われます。

分析家のディスクールでは、受講者自身の欲望・ニーズが「対象a」が基点(動因・エージェント)として置かれています。この対象aを担うのが講師と言うことになります。
講師は自らの知(S₂)を真理の位置(左下)に隠し、あえて「何も知らない」という立場(非・知)を貫きます。
つまり、講師が「全知全能の専門家」として振る舞うのをやめ、講師は「知識を授ける専門家」ではなく、受講者の「欲望の主体化」を促す触媒(対象a)として振る舞うことになります。
講師は安易な正解やフレームワークを提示しません。代わりに、受講者が抱えている違和感や「なぜ私はここで働いているのか?」という根本的な問い($)を直視させます。受講者が講師に「答え」を求めても、講師はそれをはぐらかし、受講者自身の内側にある「言葉にならない何か」へと送り返します。
この研修のゴールは、組織から与えられた目標(他者の欲望)を内面化することではありません。
例えば、「リーダーシップとはこうあるべきだ」という既製の概念を捨てることによって、受講者自身が、自分を突き動かす固有の原理である「主人のシニフィアン(S₁)」を新たに発明することにあります。
そして、受講者が自分なりの(S₁) を見つけたとき、それを支えるためのスキルや知識が必要になりますが、ここではじめて、学習は「やらされるもの」から「自らの欠如を埋めるための主体的な探求」へと変質するのです。
この「分析家のディスクール」に基づく研修は、受講者が自分自身の歴史や欲望の中から、自分だけの「働く意味」や「倫理」を言葉にするプロセスです。
しかし、これは組織にとっては「コントロール不能な個人の出現」というリスクも孕みます。
「分析家のディスクール」を徹底した研修は、受講者に「自分はこの会社にいるべきではない」と気づかせてしまう可能性すらあります。
そのため、資本の論理、つまり、利潤を追求するための「研修」としては役に立たない研修、余計な研修、無駄な研修でしかありません。
4.研修ビジネスと資本主義のディスクール
ラカンは四つのディスクールの変種として「資本主義のディスクール」を提示しています。

この構造の流れは次のようになります。
$ → S₂:「今のままの自分では足りない」「スキルが不足している」と不安を感じている受講者(主体:$)は「もっとノウハウが欲しい」「MBA的知識が欲しい」と知(研修サービス:S₂)に期待を寄せる。
S₂ → a: 研修サービス(S₂)が過剰に研修商品(剰余享楽:a)を生産する。
a → $: 研修商品(a)が受講者(主体:$)に届く。
$ → S1 ...: 受講者($)は一瞬満足するが、すぐに次の欠如を感じ、隠れた主人(資本:S₁)の命令に従って再び消費に走る。
研修ビジネスは、「このスキルを身につければ救われる」という幻想(対象a)を提示しますが、一つの研修が終わる頃には「次はこれが不可欠です」と新しい欠如を捏造します。受講者(主体:$)は「まだ足りない」という不安に駆動され、次々と新しいセミナーや資格を追い求める「セミナージプシー」になっていきます。
資本主義のディスクールは、自己啓発系の研修ビジネス、研修中毒の仕組みをよく捉えていると思います。
ラカンは、資本主義において享楽は「剰余価値」のように蓄積されると説きました。 研修ビジネスにおける「成長」や「自己実現」という言葉は、実は主体自身の享楽ではなく、「市場価値を高め、資本に貢献せよ」というS₁(支配者・資本)の命令に従属しています。受講者は「自分のために学んでいる」と思い込みながら、実際には「資本の歯車としての性能向上」という形で、自分の原動力(享楽)を資本主義システムに差し出しているのです。
資本主義のディスクールの根本問題は、「不可能(欠如)を認めないこと」です。 本来、人間は根源的な欠如を抱えており、すべてを知ることも、完璧になることも不可能です。しかし、研修ビジネスはこの「不可能」を「努力や課金で解決可能な課題」にすり替えます。
「あなたはもっと輝ける」「限界を突破せよ」
このような言説は、主体に「万能であるべきだ」という過度な命令を課し、結果として燃え尽き症候群や、埋められない自己卑下を生み出す温床となるのです。
千葉雅也(哲学者)さんの著書『勉強の哲学 来るべきバカのために』(文春文庫 2020年)は、勉強を「自己の変身」と捉え、それまでのノリ(同調)から脱会するプロセス、特定の環境における「ノリ」を相対化し、そこから浮き上がる(=変身する)ことだとしています。
一般の研修は、「そもそもなぜこの仕事が必要なのか?」といった根本的な疑念を抱く余裕を与えず、即座に「どうすれば効率が上がるか?」という実用的な解決策(ハウツー)へ着地させようとします。これでは思考のプロセスを奪い、思考を貧弱にする行為になってしまうでしょう。
研修を全否定したいわけではありません。今、足りないのは、研修についての研修…メタ研修、または、研修が不要になる研修ではないでしょうか?
