ちゃんと選べなかった私へ | #風まかせ文芸部
第一幕|橋にとどまる鬼
この橋は、いつも風が強い。
欄干にぶつかる音が、夜になるとさらに鋭くなる。
車が通るたびに揺れ、足元の鉄板がかすかに鳴る。
昼間でも歩いて渡る人は少ない。
遠回りでも、向こうの大きな橋を使うほうが楽だからだ。
だから私は、ここにいる。
正確に言えば、ここから出られない。
橋の中央あたり、歩道と車道の境目。
そこから先へ進もうとすると、透明な壁みたいなものにぶつかる。
見えないのに、ちゃんとある。
何度試しても同じだった。
まあ、別にいいけど。
橋の上は風が強い。
でも、欄干の下にしゃがみ込むと、不思議なくらい風が弱まる。
コンクリートの出っ張りの影。
そこが、私の「秘密基地」だ。
生きていたころも、ここにしゃがんだことがある。
あのときも風は強かった。
強すぎて、前髪が目に入って、何も見えなかった。
今は髪も揺れないけれど、風の音だけはちゃんと聞こえる。
「今日はまた、誰も来ないのかな」
つい、口に出す。誰も聞いていないのに。
鬼になってから、よくしゃべるようになった。
生きていたころは、人前で声が出なかった。
何か言おうとすると、
喉の奥がきゅっと締まって、
言葉が飲み込まれてしまった。
でも今は違う。
返事を期待しなくていい。
目を合わせなくていい。
気を遣わなくていい。
話しかけても、
誰も驚かないし、
傷つかない。
そもそも聞こえていないのだから。
それは、ずいぶん楽だった。
私は、誰かの輪の中に入るのが苦手だった。
そこにいるのに、
いないみたいな扱いをされると、
胸の奥が冷えていく。
でも、無理に笑ったり、
相づちを打ったりするのも、もう疲れていた。
鬼になった今は、最初から「いない」側だ。
それはそれで、案外しっくりくる。
橋の下を車が走る。
ライトが流れていく。
私はそれを、ただ眺める。
時間だけが通り過ぎていく。
「今日もみんな、どこかに帰っていくんだね」
私は帰る場所がない。正確には、帰れない。
あの日、私はここに立っていた。
橋の中央。
欄干の前。
夜だった。
風が強かった。
スマートフォンはポケットの中で震えていたけれど、見なかった。
世界のどこにも、
自分の席がないような気がしていた。
学校でも、家でも、どこでも。
そこにいる理由が、見つからなかった。
だから、終わらせようと思った。
足をかけて、身を乗り出した。
下を見た。
思ったより高くて、少し怖かった。
でも、それでもいいと思った。
その瞬間、風が吹いた。
強く、横から。
足元がぐらりと揺れた。
掴むはずだった欄干を掴み損ねた。
私は、思った方向とは違う角度で落ちた。
下は川じゃなかった。
車道だった。
眩しいライトと、ブレーキ音と、短い衝撃。
終わらせるはずだったのに、ちゃんと終われなかった。
自分で決めたはずなのに、最後は風に決められた。
目を開けたとき、私はもう橋の上に戻っていた。
血も痛みもない。ただ、あの夜の姿のまま。
だからたぶん、私はまだここにいる。
ちゃんと選べなかったから。
「……風のせいにしてるみたいだね」
小さく笑う。風は答えない。
橋の上をまた一台、車が走る。
誰も降りない。誰も立ち止まらない。
でも、それでいい。
私は今日も、欄干の下の秘密基地にしゃがみ込んで、
風の音を聞きながら、ひとりでしゃべり続ける。
誰にも届かない声で。
それが、いまの私の、いちばん楽な在り方だから。
第二幕|橋の上の男
その男が初めてこの橋に来たのは、たぶん冬のはじまりだった。
夜の九時を少し過ぎたころ。
コンビニの袋をぶら下げて、ふらふらと歩いてきた。
橋の中央あたりで立ち止まり、欄干にもたれかかる。
「あー……最悪」
風に混ざって、そんな声が聞こえた。
私は思わず、顔を上げた。
人が来ること自体が珍しい橋だ。
しかも、立ち止まるなんて。
ほとんどの人は足早に通り過ぎるだけなのに。
男は缶ビールを開けた。
プシュッという小さな音が、風にさらわれる。
「なんで俺ばっかりなんだよ」
その声は、風の音に溶けていく。
橋の上では、言葉は遠くまで届かない。
だからなのか、男は遠慮なく愚痴をこぼし始めた。
上司がどうだとか、
同期がどうだとか、
会社がどうだとか。
断片的な言葉が、夜の空気にばらまかれる。
私は欄干の下から、そっと様子をうかがう。
「それはさすがに八つ当たりじゃない?」
つい、口に出る。
もちろん、男には聞こえない。
「いやいや、それ自分で選んだんじゃないの?」
言ってから、くすりと笑う。
生きていたころ、
こんなふうに誰かの言葉に割り込むなんて、
できなかった。
会話の隙間に入り込む勇気なんてなかった。
でも今は違う。
私は透明だ。
遮られないし、否定されない。
男は次の日も来た。
その次の日も。
ほとんど同じ時間に、同じ場所に立つ。
コンビニの袋を提げて、缶を開ける。風に向かって文句を言う。
「今日もやらかした」
「俺、向いてないのかな」
「なんであいつが評価されるんだよ」
私は、秘密基地から耳を澄ませる。
「それはね、たぶん空気が読めるからだよ」
「いや、読めなくていいんじゃない?」
「むしろそのままでいいでしょ」
勝手に会話をつなぐ。
男は知らない。
この橋の上で、彼の愚痴を楽しみにしている鬼がいることを。
彼の声は、私にとって数少ない“変化”だった。
車の音と風の音しかない夜に、人間の声が混ざる。
それだけで、世界の色が少し変わる。
「また来たよ、この人」
そう言いながら、私はなぜか少し安心していた。
男は欄干にもたれ、遠くの街の灯りを見つめる。
「俺ってさ、いなくても別に困らないんだよな」
その言葉に、私は息を止めた。
風が強く吹く。缶が転がる音がする。
「いてもいなくても、変わらないっていうか。必要とされてる感じ、しないんだよ」
聞き覚えがあった。
あの日、橋の中央に立ちながら、私も同じことを考えていた。
世界のどこにも、自分の席がない。
どこにも。
「……それ、わかる」
思わず、ささやく。
男は気づかない。ただ、ビールを飲み干して、空になった缶を足元に置く。
「俺さ、いなくなったら、誰か気づくかな」
その声は、冗談みたいに軽かった。
でも、風に乗って届いた響きは、少しだけ重かった。
私は欄干の下から、じっと彼を見る。
この橋で、同じことを思った人が、もうひとりいる。
私はもう、いなくなった側だ。
でも彼は、まだこちら側にいる。
「……それは、まだ決めなくていいよ」
届かない声で、そう言う。
男は何も知らずに、また次の缶を開ける。
風がその音をさらう。
橋の上に、ふたり分の孤独が並ぶ。
彼は知らない。
私が、彼の愚痴を楽しみにしていることを。
そして私は気づいていなかった。
その言葉が、あの日の自分と、こんなにも似ていることに。
橋の風は、変わらず強い。
でもその夜から、この橋は、ほんの少しだけ、退屈じゃなくなった。
第三幕|臨界
その夜、男はいつもより早く来た。
足取りが重い。
コンビニの袋は二つ。
缶の数が、明らかに多い。
欄干にもたれかかる前に、彼は一度、橋の中央で立ち止まった。
風が強く吹きつける。
コートの裾がばたつく。
「……終わった」
小さく、そう言った。
私は欄干の下から顔を上げる。
「何が?」
もちろん、返事はない。
男は笑った。乾いた笑いだった。
「クビだよ。今日で終わり。あーあ」
缶を開ける音が、いつもより荒い。
泡があふれ、手の甲を伝う。
それを拭きもせず、ぐいっと飲む。
「向いてなかったんだよな、きっと」
二本目。三本目。
風が強い。橋の上には、他に誰もいない。
「別にさ、いなくなっても変わらないんだよ」
その言葉が、やけに静かに聞こえた。
男は欄干のほうへ一歩、近づく。
私は思わず立ち上がった。
「ちょっと、待って」
彼の背中が、欄干に寄りかかる。
体重を預ける。
靴の先が、わずかに縁を越える。
「どうせ誰も――」
言いかけて、彼は笑う。
私は走る。
風を切る感覚はない。
ただ、焦りだけがある。
「だめだよ」
手を伸ばす。
触れない。
腕は、彼の体をすり抜ける。
何度やっても同じ。
肩も、
背中も、
袖も、
掴めない。
「やめて」
声が震える。
私はもう、選べなかった側だ。
彼は、まだ選べる。
男は片足を持ち上げる。
欄干の上に、ほんの少しだけ体を乗り出す。
風が強く吹く。
あの日と、同じだ。
「……いなくなったら、どうなるかな」
その瞬間、私は叫んだ。
自分でも驚くほど、強く。
何をどうしたのか、わからない。
ただ、止めたい一心だった。
風が渦を巻いた気がした。
男の目が、こちらを向く。
視線が、合った。
はっきりとは見えていないはずなのに、彼の瞳が、私を捉えた。
私は、そのままの姿だった。
あの日のまま。
乱れた髪、白い顔、目の縁ににじむような光。
涙だったのかもしれない。
男の顔が、凍りつく。
「……え?」
後ずさる。
足がもつれる。缶が転がる。
「な、なんだ……今の……」
私は動けない。
見られている。
見られている。
男は欄干から離れ、息を荒くする。
「やば……酔いすぎだろ……」
でも、目は逸らせない。
私のほうを、確かに見ている。
その瞳に映ったのは、恐怖だった。
次の瞬間、男は缶も袋も置いたまま、走り出した。
橋の端へ向かって。
振り返りもせず。
足音が遠ざかる。
風だけが残る。
私は橋の中央に立ち尽くす。
触れなかった。
言葉も届かなかった。
でも、確かに――見られた。
胸の奥が、じんわりと熱い。
「……誰かに見つけられるって、こういうことなんだ」
自分の声が、風に溶ける。
怖がらせてしまった。
でも、あの足は、もう欄干の向こうにはなかった。
橋の上に、転がったままの空き缶が鳴る。
私はそれを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
風は、まだ強い。
第四幕|花と「ありがとう」
……頭、痛。
目が覚めた瞬間、天井がやけに白く見えた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、妙に現実的で、余計に気分が悪い。
「……何やってんだ、俺」
昨日のことを思い出そうとすると、ところどころが途切れている。
橋。
風。
缶ビール。
欄干。
そして――
何かを、見た。
はっきりとは覚えていない。
ただ、
冷たいものが背中を走った感覚だけが残っている。
誰かが立っていた気がする。
白い顔。
揺れない髪。
目のあたりに、光がにじんでいた。
「……ないない」
頭を振る。
飲みすぎただけだ。
あんな強風の中で、まともな視界なんてあるわけがない。
でも。
あの瞬間、確かに足が止まった。
欄干にかけていた足を、戻した。
恐怖だったのか、理性だったのか。
どっちにしても、俺は飛ばなかった。
ベッドの上でしばらくぼんやりしたあと、スマホを手に取る。
なんとなく、気になっただけだ。
別に信じてるわけじゃない。
橋の名前を打ち込む。
予測変換に「事故」が出る。
「……まじかよ」
タップする。
いくつか記事が出てくる。
交通事故、強風、深夜。数年前。
スクロールして、ひとつの短い記事で指が止まった。
――市内の〇〇橋で、十代女性が転落。下の車道を走行中の車両と接触し、搬送先で死亡が確認された。
写真はない。
名前も出ていない。
ただ年齢だけが書かれている。
十九歳。
「……同い年じゃん」
正確には、当時の俺と同じ年だ。
胸の奥が、ざわつく。
強風の日だった、と記事にある。
転落原因は調査中。
事故、としか書かれていない。
でも、昨日の光景が頭から離れない。
あれは幻覚か。
酔いすぎたせいか。
それとも――
「バカか」
声に出して笑う。自分に。
幽霊なんて、いるわけがない。
でも、もし。
あの橋に、誰かがいたのだとしたら。
もし、あの目の光が、涙だったのだとしたら。
俺は、何を見たんだ。
スマホの画面を閉じる。
天井を見上げる。
「……俺、助けられたのか?」
誰に。
聞く相手もいない問いが、部屋の中で消える。
昨日、欄干の向こうに足を出した自分を思い出す。
あのまま風が吹いていたら。
もし、あの“何か”を見なかったら。
背中が、ぞくりとする。
橋の上で感じていた、妙な安心感。
愚痴を吐いても、誰にも聞かれない場所。
でも、なぜか一人じゃない気がしていた。
あれは、気のせいだったのか。
それとも――
俺は、
もう一度あの橋に行こうと思った。
確かめたいわけじゃない。
ただ、ちゃんと終わらせたいだけだ。
何を、かは、まだわからないけど。
橋に向かう足取りは、前よりもずっとはっきりしていた。
今日はコンビニの袋はひとつだけ。
缶は一本。
代わりに、花屋で買った小さな花束を持っている。
白い花。
名前は聞いたけど、覚えていない。
「……似合わねえな」
自分で苦笑する。
風は相変わらず強い。
橋の上に出た瞬間、コートの裾がばたつく。
夜の空気は冷たくて、頬が痛い。
でも、足は迷わず中央へ向かった。
いつもの場所。
欄干のすぐ手前。あの夜、足をかけた場所。
「よ」
誰にともなく、声を出す。
返事がないのは、わかっている。
それでも、ここで何も言わずに帰るのは、なんとなく違う気がした。
缶を開ける。小さな音が風に流れる。
「……俺さ、引っ越すわ」
声が思ったより静かに出た。
「仕事、決まった。別のとこで。ちょっと遠いけど」
橋の向こうに、街の灯りが見える。
ここで愚痴を吐き続けた夜が、頭をよぎる。
「正直、まだ不安だけどな」
缶をひと口飲む。
「でもさ、あのまま終わるのは、なんか違う気がして」
あの日のことは、誰にも言っていない。
酔って幻覚を見た、で片づけることもできる。
でも、あの瞬間、確かに自分は止まった。
「……助けられた、って言ったら変だけど」
風が強く吹く。
欄干の向こうを見る。暗い車道。ライトが流れる。
「俺、あの日、ほんとにどうでもよくなってたんだよ」
笑う。
「でも、なんか……見られてる気がしてさ」
白い顔。揺れない髪。目の縁の、にじむ光。
怖かった。正直、めちゃくちゃ怖かった。
でも、それと同時に。
「……泣いてた、よな」
言葉にしてみると、自分でも妙だと思う。
幻覚に、感情なんてあるはずがない。
でも、あれはただの恐怖じゃなかった。
俺は足元にしゃがみ込み、花束を欄干の下に置く。
風が直接当たらない、あの影の場所に。
なんとなく、そこがいい気がした。
「ここ、あんたの場所なんだろ」
小さくつぶやく。
「詳しいことは知らないけどさ。……たぶん、同じくらいの年だったんだろ?」
答えはない。
でも、
夜の空気が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
缶を飲み干し、立ち上がる。
「俺、ちゃんとやるよ。今度は、ちゃんと選ぶ」
欄干から一歩、離れる。
「だからさ」
喉が少し詰まる。
「ありがとう」
それは、風に向けた言葉だった。
橋に向けた言葉だった。
そして、もしかしたら――あの夜、そこにいた“誰か”に向けた言葉だった。
缶を足元に置かず、今日は持ち帰る。
振り返らずに、橋の端へ歩き出す。
風が背中を押す。
もう、足は欄干に向かわない。
「じゃあな」
小さく言って、俺は橋を渡りきった。
終幕 橋に残る風
あの夜以来、彼は来なかった。
たぶん、もう来ない。
そう思っていた。
怖がらせてしまったのだから。
あんな顔をさせてしまったのだから。
私は欄干の下の秘密基地にしゃがみ込みながら、風の音を聞いていた。
相変わらず強い。橋の上は今日も誰も通らない。
「まあ、そうだよね」
小さくつぶやく。
もともと、ここは私ひとりの場所だった。
彼が来る前の、静かな橋。
車のライトだけが流れていく夜。
それに戻るだけだ。
それなのに、少しだけ、胸の奥が空いている。
そのとき、足音がした。
顔を上げる。
彼だった。
手に、花を持っている。
「……え」
思わず立ち上がる。
彼はいつもの場所に立ち、いつものように缶を開ける。
でも今日は、声が少し違う。
静かで、はっきりしている。
引っ越すと言った。
仕事が決まったと言った。
ちゃんと選ぶ、と言った。
私は欄干の影から、じっと見つめる。
花束が、私の場所に置かれる。
風が直接当たらない、あの小さな影。
「ここ、あんたの場所なんだろ」
彼の声が、夜に落ちる。
胸の奥が、じんとする。
私は、ただの事故だった。
記事の中の、短い一文。
名前もない、十九歳。
それでも。
彼は、ここに花を置いた。
「ありがとう」
その言葉が、風に乗って届く。
その瞬間、何かがほどけた。
あの日、私は選べなかった。
風に押されて、終わった。
自分で決めた、とは言い切れなかった。
でも今。
彼は、欄干から離れた。
自分の足で、橋を渡りきった。
私の存在が、
ほんの少しでも、
誰かの足を止めたのなら。
それだけで、よかったのかもしれない。
風が、ふっとやわらぐ。
今までずっと強く吹きつけていた音が、
遠くなる。
橋の上の空気が、
静かになる。
「……ああ」
胸の奥が、あたたかい。
ここに縛られていた何かが、ゆっくりと溶けていく。
私は、橋の中央に立つ。
彼の背中が、遠ざかっていく。
もう、追いかけたいとは思わない。
安心感が、すっと消える。
でも、それは空白じゃない。
ちゃんと、
置いていかれた感情がある。
私は、
小さく息を吸う。
「ありがとう」
今度は、私の番だ。
声は風に混ざり、夜に溶ける。
身体の輪郭が、
少しずつ薄くなる。
足元の感覚が消えていく。
怖くない。
今度は、
風に押されたわけじゃない。
自分で、
終わる。
最後に見えたのは、
橋の上を通り過ぎる一台の車のライトと、揺れない夜空。
そして――
橋は、また風だけの場所に戻る。
強く、静かに。
何もなかったみたいに。
