甘さをやめたふたり | #風まかせ文芸部
みかんと美柑のまわりには、いつも人がいた。
それは特別な出来事ではなく、空気のようなものだった。
朝、教室の引き戸を開けると、誰かが振り向き、誰かが席をずらし、誰かが「おはよう」と少しだけ声を高くする。理由はない。ただ、そこに二人がいるからだった。
みかんの肩には、よく女子の手が置かれた。
「そばにいると落ち着くんだよね」と、何度も言われた。
美柑の隣には、いつの間にか男子が立っていた。
「なんか、いい匂いするよね」と、笑いながら。
二人は、自分の匂いを知らなかった。
香水はつけていない。特別なシャンプーも使っていない。ただ、なぜか近づかれる。なぜか囲まれる。なぜか、距離が近い。
小学生のころは、それが嬉しかった。
「みかんの近く、あったかい」
「美柑、今日もいい匂いする」
冬の教室は、暖房と制服の繊維と、消しゴムの粉と、ほんのり甘い何かが混ざっていた。みかんと美柑は、その中心にいた。自分では感じ取れない、柑橘の皮を剥いたあとのような淡い香りが、空気に溶けていた。
それは特別ではなかった。
ただの、日常だった。
けれど高校に入ってから、空気は少し重くなった。
廊下を歩くと、自然と半円ができる。
昼休み、席はいつも埋まる。
放課後、二人の後ろには、なぜか人影が増える。
匂いは変わらない。
けれど密度が変わった。
甘さの奥に、汗の湿り気や、緊張の熱が混ざる。呼吸を吸い込むと、少しだけ胸が詰まるような感覚があった。誰かの腕が触れ、誰かの声が近づき、空気は常に満ちている。
みかんは、ときどき窓を開けたくなった。
美柑は、ときどき一人で帰りたくなった。
けれど理由は説明できなかった。
自分たちが何かを発しているとは、思っていなかった。
ただ、人が近いだけだと、思っていた。
ある日の放課後。
クラスの数人と一緒に、駅前のスーパーへ寄ることになった。
人混みはいつも通りだった。
笑い声と足音と、制服の布が擦れる音。
みかんと美柑のまわりには、自然と人が集まる。
青果コーナーを抜け、惣菜売り場を曲がったところで、強い匂いが漂ってきた。
濃く、甘く、どこか腐熟したような重たい匂い。
「ドリアン試食」と書かれた小さな台が、通路の端に置かれていた。
その瞬間だった。
二人のまわりにいた人影が、ほんのわずかに、後ろへ引いた。
声が一段、遠のく。
誰も顔をしかめてはいない。
けれど、自然に距離ができた。
みかんと美柑のすぐそばにいたはずの数人が、半歩、さらに半歩と下がる。人の輪がほどけ、空間が広がる。
二人だけが、ドリアンの匂いの中に立っていた。
それは、初めて感じる「匂い」だった。
甘いのに鋭く、濃いのに透明で、空気の形がはっきりわかるような匂い。鼻の奥に重く残る。
みかんは、静かに息を吸った。
美柑も、同じように。
冷房の風が、直接肌に触れた。
自動ドアの開閉音が、くっきり聞こえる。
空気が、軽い。
みかんは美柑を見た。
美柑も、みかんを見た。
二人のあいだに、誰もいなかった。
そこには、ただドリアンの匂いと、まっさらな空間だけがあった。
ドリアンの匂いの中で立っていたあの時間は、長くはなかった。
試食の小さな楊枝を手に取り、みかんは一口だけ口に運んだ。
美柑も、同じように。
とろりとした果肉は、舌の上でゆっくり溶けた。
甘い。けれど、どこか鋭い。
鼻の奥に残る匂いは、さきほどまでの空気とはまったく違っていた。
その匂いをまとったまま、二人は売り場を離れた。
気づけば、まわりにいたはずのクラスメイトたちは、少し先を歩いていた。
誰かが「こっちだよ」と手を振る。
距離はある。声も遠い。
みかんは、歩きながら息を吸った。
美柑も、同じように。
空気は、薄かった。
人の体温も、甘さも、重さもない。
ただ、ドリアンの濃い匂いが、二人のまわりに静かに漂っている。
みかんは思った。
空気には、こんなに形があったのかと。
その日以降、何かが変わった。
次の朝、教室の戸を開けても、半円はできなかった。
席は自然に埋まるが、中心にはならない。
昼休み、机のまわりに人が集まることもない。
誰かが避けているわけではない。
誰かが嫌っているわけでもない。
ただ、二人はそこにいるだけになった。
みかんは黒板の文字を、最後まで遮られずに読めた。
美柑は購買の列に、一人で並んだ。
廊下は、まっすぐだった。
空気は、乾いていた。
匂いは、ほとんどしない。
洗い立ての制服と、冬の冷たい外気が、淡く混ざるだけ。
放課後、二人は並んで歩いた。
後ろに足音はない。
肩に触れる手もない。
笑い声も、近づいてこない。
みかんは、ふと立ち止まった。
美柑も、同じように。
校門の向こうで、夕方の風が吹く。
匂いは、ない。
あの日のドリアンの濃さだけが、かすかに記憶に残っている。
みかんは、小さく笑った。
美柑も、同じように。
特別な理由はない。
ただ、二人のあいだの空気が、静かだった。
それは甘くもなく、重くもなく、誰かに消費されることもない。
二人は、ただの高校生になった。
匂いの中心ではなく、
群れの焦点でもなく、
名前を呼ばれなくても立っていられる存在。
空気は、透明だった。
みかんと美柑は、その透明さの中で、並んで歩き出した。
