半分残されたケーキ | #風まかせ文芸部
私は、正しくない道を選んだ。
店の前には、今日も長い列ができている。
ガラス越しに見えるショーケースは、開店から二時間も経たないうちにほとんど空になった。
拍手のような歓声。
「やっぱりここのが一番好きです」という声。
その言葉を、私は正確に受け止める。丁寧にうなずき、礼を言い、微笑む。
けれど、胸の奥は静かだ。
波も立たず、喜びも湧かない。
甘い香りが充満した厨房で、私は一瞬だけ目を閉じる。
砂糖とバターの濃い匂い。
それは正しい配合ではない。
けれど、売れる。
私は、いつから“売れること”を基準にしたのだろう。
思い出すのは、あの学園祭だ。
専門学校二年の秋。
私はその年も成績首位だった。
配合は正確、温度管理も完璧。
理論的に最もバランスの取れた焼き菓子を仕上げた。
糖分も脂肪分も、栄養学の基準内に収めた。
見た目も整い、寸分の狂いもない。
担任は言った。
「さすがだね。模範解答だ。」
私は胸を張った。
正しいものは、評価される。
それが世界の仕組みだと信じていた。
結果、私の売上は一位だった。
けれど、閉店後の教室で私は奇妙な光景を見ることになる。
回収されたトレイの上に、食べかけのケーキがいくつも残っていた。
半分だけ齧られたもの。
フォークで崩されたまま放置されたもの。
美しく切り分けられた断面が、乾いている。
数字は一位。
でも、最後まで食べられていない。
隣のクラスの屋台は二位だった。
けれど、彼女の焼き菓子はすべて空になっていた。
買った人が十個まとめて持ち帰り、友人と分け合い、笑っていた。
私はそれを遠くから見ていた。
彼女のレシピは、正しくない。
糖分は多すぎる。
油脂も強い。
理論上は、もっと改良できる。
それでも――
誰も残していなかった。
その夜、私は教室に一人残り、
自分のケーキを一口食べた。
完璧な食感。
計算通りの甘さ。
非の打ちどころがない。
なのに、二口目が進まなかった。
正しいのに、足りない。
私は初めて、理解できない違和感を覚えた。
正しさは、最後まで食べてもらえるとは限らない。
その事実を、私はそのときまだ、受け入れられなかった。
あの夜から、私は観察を始めた。
二位だった彼女の屋台に、何度も足を運んだ。
整いすぎていない陳列。
焼き色も少し濃い。
包装も簡素。
それでも、人が途切れない。
「これ、また食べたくなるよね」
「昨日のも美味しかったから」
その言葉が、胸の奥をざわつかせる。
また食べたくなる。
私は自分のレシピノートを開いた。
正確な数値。
栄養バランス。
理論に基づいた甘さ。
どこにも間違いはない。
けれど、彼女の菓子には、理論では測れない何かがある。
温度。
余韻。
少しだけ過剰な甘さが、舌に残る。
私は初めて、自分の基準を疑った。
正しさは、誰のための正しさなのか。
翌週、私は試作を重ねた。
砂糖を少しだけ増やす。
バターの比率をほんのわずか上げる。
焼き上がりの温度を変える。
理論上は、最適から外れる。
けれど、口に入れた瞬間、
私ははっとした。
強い。
印象が、強い。
それは「完璧」ではない。
けれど、「忘れられない」。
私はその瞬間、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
正しくない。
でも、これなら最後まで食べてもらえるかもしれない。
私は自分に言い聞かせた。
これは妥協ではない。
改良だ。
より多くの人に届くための、調整だ。
次の販売実習で、そのレシピを出した。
売上は前回より少し落ちた。
だが、トレイの上に残ったケーキは、ほとんどなかった。
「全部食べちゃった」
そう笑う声を聞いたとき、
胸の奥が、熱を帯びた。
その熱は、評価のときとは違う。
私は、その感覚を求め始めた。
さらに砂糖を足す。
さらに油分を強める。
より刺激的な風味に寄せる。
栄養バランスの欄に赤い数字が並ぶ。
私はページを閉じた。
正しくない。
けれど、売れる。
そして――
食べてもらえる。
私は自分に問いかけることをやめた。
正しさより、選ばれることを。
あの学園祭の夜、
半分残されたケーキを見つめていた少女は、
少しずつ、静かに後ろへ下がっていった。
私は前に進んだ。
それが、正しくない道だと、
分かっていながら。
卒業して三年後、私は店を持った。
白を基調にした内装。
清潔で、整然としている。
レシピはすでに完成形に近い。
甘さは強く、香りは濃く、
口に入れた瞬間に記憶へ残る設計。
メディアは私を「若き実力派」と呼んだ。
売上は順調。
回転率も高い。
ショーケースは、毎日ほぼ空になる。
誰も、残さない。
その事実は、かつての私が望んだ光景のはずだった。
厨房で焼き上がったタルトを一切れ、
私は試食する。
舌にまとわりつく甘さ。
余韻が長い。
確かに、美味しい。
でも、どこかで、静かに違和感が広がる。
これは、私の味だろうか。
ある日、専門学校から実習生が来た。
成績優秀。
真面目で、礼儀正しい。
どこか、昔の私に似ている。
彼女は完璧な配合で、低糖の焼き菓子を仕上げた。
外見も美しい。
理論も正しい。
販売に出すと、売上は悪くなかった。
けれど、夕方、トレイにはいくつか残っていた。
私は、その光景を見つめる。
あの日と同じだ。
彼女は静かに、唇を結んだ。
自分の菓子を一口食べ、
そして、何も言わなかった。
私は、声をかけようとした。
「もう少し、砂糖を足してみたらどうかしら」
その言葉が喉まで上がる。
けれど、止まる。
それは、助言なのか。
それとも、誘導なのか。
正しくない道へ。
彼女の菓子は、静かにそこにある。
整っていて、誠実で、まっすぐだ。
私は気づく。
あの夜、半分残されたケーキを見て、
私は問い続けるべきだった。
なぜ、残されたのか。
なぜ、食べきれなかったのか。
けれど私は、
「どうすれば食べきってもらえるか」だけを考えた。
いつの間にか、
私は正しさを守るためではなく、
選ばれ続けるために菓子を作っている。
選ばれることが、目的になった。
だから、今、私は思う。
私は、正しくない道を選んだ。
成功している。
称賛もある。
誰も残さない。
それでも、胸の奥は静かだ。
私は、なぜ菓子を作り始めたのだろう。
健康のためか。
正しさの証明か。
それとも――
誰かに最後まで食べてもらいたかっただけなのか。
ショーケースの前で、実習生が立ち尽くしている。
私は、何も言わない。
その沈黙の中で、
私はようやく理解する。
正しくない道を選んだのは、
あの学園祭の日ではない。
問いを手放した、あの瞬間だ。
そして今も、
私はその問いに戻れないまま、
甘い香りの中に立っている。
今回の短篇は、
事件タロットの三枚のカード を軸に組み立てています。
