包まれなかった甘さ | #風まかせ文芸部
約束の時間より少し早く着いた。
作業台の上には、まだ何も置かれていない。換気扇の音だけが低く回っている。上着を脱ぎ、袖を軽くまくる。その動きは慣れているようにも、初めてのようにも見えた。
少し遅れて、友人が入ってくる。紙袋を胸に抱え、歩幅が小さい。
友人:『ごめん、遅れた。電車がね』
「大丈夫。まだ始まってない」
二人は並んで立つ。距離は肩一つ分。近すぎず、遠すぎない。
講師が材料を配る。カカオの匂いが、包みを開けた瞬間に立ち上る。甘さより先に、乾いた苦さが鼻に触れる。空気が一段、重くなる。
講師:『今日はテンパリングからいきます。温度、ここ大事です』
彼女はうなずく。小さく、一定の角度で。
ボウルを受け取り、指で縁を押さえる。金属が冷たい。湯せんにかけると、すぐに匂いが変わる。甘さが増し、部屋の輪郭がぼやける。
友人が紙袋を開ける。中から、赤い箱とリボン。
友人:『これ、あとで使うの。渡すの、今日だから』
「そう」
彼女は言葉を足さない。温度計に視線を落とし、数値を確認する。
溶け始めたチョコレートを、ゴムベラで静かに回す。円を描く速さは一定。止まらない。止めない。
隣の作業台では、誰かが笑っている。
「彼、甘いの好きなんですか?」という声が飛ぶ。
彼女の方を見る視線が一瞬、集まる。
店員:『お二人とも、プレゼント用ですか?』
彼女はベラを止めない。友人が先に答える。
友人:『はい。彼氏に』
店員:『素敵ですね』
彼女は軽く口角を上げる。角度は小さい。目元は動かない。
湯せんの湯気が立ち上り、匂いが強くなる。甘さが増え、苦さが奥に下がる。
店員:『お連れの方も?』
「一緒に作ってます」
それだけ言って、温度計を見る。
数値が目標に近づく。彼女は一度、ベラを持ち替える。利き手を変え、円を描き直す。速度は変えない。
友人が型を取り出す。ハート型。星形。
彼女は無地の型を選ぶ。四角。縁がまっすぐ。
友人:『そっち、シンプルだね』
「うん」
講師が近づき、手元を覗く。
講師:『いいですね。香り、立ってます』
彼女は一度、鼻で息を吸う。短く。
湯気の中で、匂いがはっきりする。甘さと苦さが重なり、境目が見える。
ベラを置き、ボウルを持ち上げる。液面が揺れないように、手首を固定する。
型に流す。細い線。途切れない。
一滴もこぼさない。
表面を軽く叩き、気泡を抜く。叩く回数は三回。音は小さい。
友人はリボンの色を迷っている。
彼女は冷却台に型を置く。位置を微調整し、他の型と一直線に揃える。
講師が「冷やしすぎないで」と言う。彼女はうなずく。
待ち時間。
誰かが「渡すとき緊張するよね」と言う。笑いが起きる。
彼女はエプロンの紐を結び直す。結び目を指で押し、余りを内側に折る。
友人:『ねえ、味見する?』
「あとで」
彼女は言って、冷却台を見る。
表面が少しだけ曇る。
匂いは落ち着き、甘さが薄くなる。苦さが前に出る。
店員が包材を配る。透明の袋、台紙、シール。
彼女は一式を受け取り、端を揃える。シールは使わず、脇に置く。
店員:『お名前、書きます?』
彼女は首を横に振る。小さく。
友人:『私は書く』
友人はペンを取り、迷いなく書く。
彼女はその手元を見ない。冷却台に戻り、型を裏返す準備をする。
講師:『もう外せますよ』
彼女は型を反転させ、軽くひねる。
四角が静かに外れる。音はしない。
表面は均一。角が立っている。
彼女は一つを指で持ち上げ、光にかざす。
匂いを確かめるように、短く息を吸う。
口元は動かない。
友人が包み始める。リボンを結び、満足そうに息を吐く。
彼女は四角を並べ直す。数を数え、端を揃える。
透明の袋に入れ、台紙を差し込む。封はしない。
友人:『帰り、寄る?渡してくる』
「先に行って」
彼女はエプロンを外し、畳む。
テーブルの端に置いた袋を一つ、そっと手前に引き寄せる。
匂いが、近くなる。
換気扇が止まり、部屋の音が変わる。
甘さは控えめ。苦さが残る。
彼女は袋を閉じないまま、出口に向かう。
外に出ると、空気が軽い。
袋の中の四角が、歩くたびにわずかに触れ合う。音はしない。
彼女は駅とは反対の方向へ向かう。信号を一つ渡り、角を曲がる。歩幅は一定。
店の前で立ち止まる。自動ドアが開き、閉じる。入らない。
袋を持ち替え、手首を回す。匂いが少し逃げる。甘さはもう前に出ない。
帰り道、スマートフォンが振動する。
画面を見るが、開かない。ポケットに戻す。
足取りは変わらない。
部屋に入る。照明は点けない。
上着を掛け、靴を揃える。
袋をテーブルに置き、椅子を引く。引く距離は短い。
袋を開く。封はない。
中の四角を一つ、指でつまむ。指先に冷たさ。
鼻先に近づけ、短く吸う。苦さが先に来る。遅れて、甘さ。
彼女は椅子に腰を下ろす。背もたれには寄りかからない。
四角を割る。音は小さい。
断面が見える。色は均一。
一口目。
歯が入る。
舌に触れる。
最初は甘い。すぐに引く。苦さが広がる。奥に残る。
彼女は噛まない。溶かす。
視線はテーブルの端。
次の一口を、同じ大きさに切る。
二口目。
間が短い。
甘さはもう確認しない。苦さだけが残る。
彼女は袋から残りを出し、皿に置く。数を数え、並べる。
包材は使わない。リボンも出さない。
シールは袋の底に残ったまま。
水を一口。
味が薄まる。
もう一度、四角を取る。
三口目。
角が欠ける。
彼女は一瞬だけ口角を上げる。角度は小さい。すぐ戻る。
食べ終わる。
指先に残った粉を払う。
袋を畳み、引き出しに入れる。位置を揃える。
テーブルの上には何も残らない。
匂いだけが、少し遅れて消える。
彼女は椅子を戻し、立つ。
照明を点け、すぐ消す。
玄関の鍵を確かめる。
最後に、口の中で舌を動かす。
甘さはもうない。
苦さが、ちょうどいい。
今回は、
事件タロットの二枚のカード を軸に組み立てています。
