ジ愛のオプティミズム 第二章・シークレッツ
第二章・シークレッツ
初めて観る『幻燈館』の劇場での上演は、俺の知るどの演劇とも映画とも、少し違っていた。
舞台に、ときには客席にも、あらゆる風景や人物が突如として現れ、彼女もその一員となって物語を紡ぐ。
その情景はどれも幻想的で、神秘的で、郷愁を誘った。
「さて、どうだっただろうか、今の物語は。感想などあれば言ってくれ」
上演を終え、舞台端に腰を下ろした彼女は、そう問いかける。
「え?感想ですか?」
この劇場で唯一の客席、玉座を思わせる豪華絢爛な椅子に座っていた俺は、突然の振りについつい体を乗り出した。
「当たり前だろう。私の城に入ってきたからには、ただで逃がしたりはしない」
そう言われ、俺は戸惑いながらも先ほどまで見ていた物語を思い返す。
「えーっと、きっとあの時主人公の少年が反感を持ったのは、それこそが彼の一番大事にしたい事だったからでしょうね……だからああいう結末になったのも頷けるというか……」
「なるほどな。君は映画好きだし、そういう感想になるか」
彼女は、頭をもたげて独りごつ。
「ただ、ところどころ途中の展開が全部すっ飛ばされているのは、なんていうか、分かりづらくありません?」
「まあ、演出とも言うし?やる気が起きなかったとも言うなぁ」
彼女はちょっととぼけたような口調で答える。取り繕う気は皆無のようであった。
「それで、あの……」
そんなことより、と俺は一番の関心事を聞いた。
「オーナーさん?は、魔法使いなんですか?」
彼女は目を丸くする。
「ハッハッハ、そういう呼ばれ方は初めてだ。オーナーでも、美麗さんでも、ちゃん、でも好きなように呼びたまえ」
俺はここで初めて彼女の名前を知った。
「私は魔法使いではないよ。まあ、仙人の端くれではあるがな!」
「仙人、ですか?」
「そうだとも!仙人とは、果てしない内省から真理に到達する者のことだ」
「じゃあさっきの、色々なものが突然出てきたりしたのは魔法、というか仙人の術みたいなものですか?」
俺は質問を変えて、先ほどの不思議な光景の謎に更に迫ろうとした。が、
「ん?私はそんな漫画みたいな能力は使えないぞ」
と、彼女はあっけらかんとした様子でそう答えた。
「これはれっきとした最新の映像技術だ。空気中に散布したフォグにあらゆる方向から光を投影して、立体を作り出している、らしい!……他にもこの劇場全体の壁と床にも液晶が埋め込まれていて、観客の視線をカメラで感知するアイトラッキング、とかなんとか言うやつで、視差を矯正することで質感を補完している?とかなんとか……実は私もよくは分かっていないがな!詳しくは設備会社任せにしている!」
なんだかうまく躱されたように感じ、俺は追撃を試みる。
「でも、動物霊がどうとか、魔術がどうとか言っていたじゃないですか」
「あれは一般論だ。それはまあ、多少の霊感はあるがな。それにしても見えるというよりは、感じると言った方が適切かな。そもそも誰にでも認識できるようなものなら、もっとその存在が周知されていると思うがな?」
結果俺は、超常現象でもSFですらない、ひどく現実的な意見を突きつけられただけだった。胸にせりあがっていた何かが下の方に落ちていく。
「それはつまり、超常的な現象や不思議な力なんて、ないということですか?」
「……君はさっきの物語の、いったい何を見ていたんだ」
彼女は「はぁー」と大きくため息を吐いた。
「君がその極めて三次元的な立体構造の眼球で認識できないものは、存在しないことになるのか?」
彼女は続ける。
「人間は近代において電子を制御する術を獲得した。これはミクロの世界を知らない人からすればまるで魔法だ。では君の知覚できない次元があって、そこで何かの変化が起こっていても、それは存在しないことになるのか?」
俺はグッと喉を詰まらせた。
「存在しないかどうかっていうのは、確かに俺が知らないだけで、本当のところは分からないですが……」
物理学の理論では、現在我々の知覚できる三次元より多くの宇宙が存在すると提唱されている。例えば念じるだけでそういった次元で変化が起こることも、広義で考えれば一応、ないとは断定できない。
「君にとって世界がその程度のものでいいというならば、それでもいいけどな、でも違うだろう?だからまた肉体の意思に嘘をついているんじゃないかと思ってな」
俺はその言葉を再び聞いた。肉体の意思。彼女曰く、自分の中のもう一つの意思。
「君が望めば望むほど、信じれば信じるほど、世界は変化していくのだよ」
そう言うと、彼女はフッと優しくほほえんだ。
「君が私を魔法使いというのなら、私は私も気づかぬうちに魔法を使っているかもしれない」
俺が信じるだけで彼女が魔法使いに変化するというのは、さすがに突飛な空想だとは思う。だが確かにある意味では、俺にとって彼女は、見たこともない未知の風を吹き込んでくれる魔法使いであった。
そしてもう一つ、俺は気づいた。彼女の聞きたかった感想というのは、この物語を見て何を感じたとか、どういう知見を得たとか、そういうベクトルのことか、と。のうのうと考察を語っていた自分が少し恥ずかしくなる。
「それじゃ、もう遅いしそろそろお開きとしようか。また私の都合のいい時に呼び出すから」
「ああ、はい。え?」
俺の都合のいい時ではなく?一瞬言い間違いかとも思ったが、彼女の様子を見るとそうではないらしい。
「いやあ!作ったはいいが、見せる人がいなかったのだ!アレだ、乗り掛かった船というヤツだ。君もほら、映画とか好きだろう?」
せっかく劇場があるのに、今まで上演したことがなかったのか。こんな人でも、自分の作品を見せることにはプレッシャーがあったりするのだろうか。
しかし、なぜかいつの間にか俺も勝手に船に乗せられているようだった。
どちらにせよ、俺の都合は全く考えられていないことは確かだ。理不尽な不平等条約が、かくも流れるように締結された。
「いやすまないな。遅くまで私の上演に付き合わせて」
俺を出口までいざないながら、彼女は朗らかに言う。
「よい週末をな。とは言っても、あと一日しかないが」
時計を確認すると、二日ある休日のうちの一日目は、もう終わろうとしていた。
彼女にはどうも飴と鞭を使いこなされた感が否めないが、俺は帰り道も、帰宅しても、眠りに落ちるまで終始、清々しい気持ちだった。
明日、貴重な休日に何をするかも、週明けの憂鬱も、一瞬も考えることはなかった。
少なくとも少しの間は、この余韻に浸っていたいと思った。
翌朝、俺はスマートフォンの通知音によって意識を浮上させた。
さらに続けて二回通知音が鳴ったことで、完全に覚醒した。
カーテンから日の光が漏れている。スマートフォンを確認すると、時刻はすでに正午近くであった。
通知欄には、彼女からのメッセージが三通表示されていた。
『緊急招集!!緊急招集!!』
『上演会をやるぞ!!!!来い』
『裏門から入ってくるように!』
別れ際、「よい週末をな」とはにかむ彼女のセリフが、脳裏に木霊する。
「あの流れで昨日の今日で呼び出すことってある!?」
やたらとテンションの高い彼女からのメッセージに当てられたのか、俺は思わず雄叫びを上げた。
何が仙人だ。今考えると、あれはコミュニケーションの取り方が一方的な、傍若無人の性格をカッコよく言っただけじゃないか。
俺は毒づきながら、『幻燈館』へ向かう橋を渡っていた。
よく晴れ、日差しの暑い夏日であった。
メッセージによると裏門があるらしい。
俺は馴染みのある古びたコンクリートの建物、映画館としての『幻燈館』の入り口を素通りし、道をぐるりと回って裏門を発見した。
鉄で編まれた門は錆びついていて、開けると甲高いキィという音を立てた。
その先の鬱蒼とした雑草と、人二人はすれ違えないであろう木々の幹の間を抜けると、開けた場所に出た。そこにあったのは久しく忘れていた郷愁、古き良き日本家屋の庭先であった。
一瞬間違えて別の建物に来てしまったと思ったが、どうやら違うらしい。
というのも、この日本家屋には広めの縁側があるのだが、それが伸びる先はコンクリート造りの建物であった。どうやらこの日本家屋は表の映画館から生えているらしかった。木造とコンクリートの境目には金属製のドアがあり、銀色のドアノブにはパスワード用のボタンが並んでいる。
この庭の中央には上部の平らな巨大な岩が鎮座していた。こういうのは舟石と言ったかと思う。
縁側に勝手に上がるのはなんだか気が引けて、俺はその岩に腰掛けた。
岩は直射日光に熱せられて素肌ではとても触れられず、両手は膝の上に乗せた。
縁側を挟んだ奥はどうやら畳の部屋らしかった。ガラス戸で閉じ切られている。
辺りは蝉の鳴き声に包まれる。映画館から出てくる人たちの話し声が遠くから聞こえる。上映の一つが終わったのだろう。
しばらく待っていると、ガラス戸がガラガラと鳴った。
そこには、畳の部屋には不釣り合いな真っ黒のレース付きのワンピースを着た彼女が立っていた。
「なんでそんなところで待っているんだ。こっちに来い」
彼女に促されるまま、俺は縁側へと座席を移した。
「君、昼はまだか?弁当が余ってしまってな。よかったら食べるか?」
「あ、はい」
と、彼女からレジ袋に入った弁当を受け取る。
「今日アルバイトに入っているママさんなんだが、いつも私が一緒に昼食を買っているんだ。だがどうもお子さんが急病でな、病院に連れていくからと、さっき早退してしまったんだよ」
ひとしきり話し終わると、彼女は部屋の奥から竹製のビーチベッドを引っ張り出し、それにもたれて本を読み始めた。
ガラス戸が全て開いたことで、部屋に吊るされた風鈴が風で揺れる。蝉の大合唱にチリンチリンという音が加わる。
俺は縁側に座り、庭の岩を眺めながら弁当を食べ始めた。
そういえば、なんであんなところに岩があるんだろう。せっかく広い庭なのに、真ん中にあんなものがあっては使い勝手が悪くないか?
食事中は取り留めもなく脳が回る。
縁側、庭に岩……どこかの寺社で見た、枯山水というものを連想する。あれは、砂や岩を川や山に見立てて鑑賞するんだったか。
それでハッとする。
ひょっとして、あの岩は鑑賞されるためにそこにあるのではないか。
そういえば、舟石というのは神聖なものとして扱われることもあるのではなかったか。
俺は遠慮をしていたつもりが、逆にものすごく無礼なことをしていたのではなかろうか。
俺は岩を凝視する。
弁当の最後の一口を咀嚼する口が止まる。
俺は恐る恐る、彼女の方へ振り返った。
彼女は、夏の日差しが届かない、ちょっと薄暗い部屋の中からこちらを見ていた。
「ん……食べ終わったか?」
彼女は優しい声で尋ねる。
「いや、あ……はい……」
口の中のものを飲み込み、俺は答えた。
彼女は本を閉じて立ち上がり、俺の方に歩み寄ってくる。
「ちょっと退きたまえ」
彼女の声に、俺はビクッとし、咄嗟に立ち上がった。
彼女は手を差し出し、少しそのまま止まっていたが、やがて俺の肩に手を下ろし、その上全ての体重をかけ、思い切り踏み込んで勢いよく跳躍した。
そして、三メートル近くは離れているであろう庭の岩へ、裸足で悠々と着地する。
俺は突然体がガクンと沈んだことで、よろけて再び縁側に腰を落とした。
彼女はそのまま素晴らしい平衡感覚ですくりと岩の上に立ち上がると、
「どうだ、これでも幼少期は山の中で暮らしていてな。恐怖心を捨てて思い切れば、誰でもこのくらいは飛べるものだ」
そして、パタパタと岩の上で足踏みを始めた。
「あっつ!いやあっついな!」
と、岩の、俺が最初に座っていたあたりに移った。
彼女は片手をマイクのようにあてがい、オホンと咳払いをしてもう片方の手を空に掲げる。
「えー、これより!第二回上演会を開催する!」
演説のように宙に向かって高らかに声を飛ばす。
「実は、先ほどついに!私史上初の長編が!長編が完成したのだ!苦節二年!いやぁ長かった!二年だぞ、二年!二年前といえば、君はまだ未成年かな?」
「いや、もう成人ですかね……」
いや成人年齢は変わったんだったか、と思い直したが、どちらにせよ成人であった。
彼女は俺の声を無視して続ける。
「まだ君に見せていない作品は山ほどあるが!今日は記念すべき日なので、せっかくだからそれを見てもらおうと思ってな!」
そう言い終わると、いそいそと地面に降り、縁側の端の方へと歩を進める。
足の裏を手ではたいて縁側に上がると、例の金属製のドアについたボタンをいくつかカチカチと押した。
開いたドアの先は、すぐに地下へと続く階段になっていた。
「パスワードは80192だ。覚えておけ」
彼女はそう言って、階段を下っていく。
俺は急いで靴を脱ぎ、その背中を追いかけた。
***
「さて、この話はどう思う?」
いつも通り、彼女は蛍光灯の灯りをつけると舞台の縁の部分に腰を下ろす。
玉座に座ってそれを眺めていた俺は、やがて目線を落とし、頬杖をついた。
「今度は俺にも分かりましたよ。今のは前に言ってた、肉体の意思の話ですよね?」
俺は彼女の宙にぶら下がった足元を見ながら、今の上演で感じたことを、ただ話す。
「そう、肉体はただ健気に鼓動を刻み、君をこの世に生かし続けている。翻ると、肉体がこの世界に存在する以上、君もまた世界に認められていて、その存在に意味があるということになる」
彼女もまた、俺の右斜め下あたりに視線を放ったまま、独り言のように話す。
あの時以来、俺は週末になると『幻燈館』の劇場へ足を運ぶようになっていた。
そこで彼女が物語を上演し、俺が鑑賞した後、お互いに感想を半ば一方的に言い合うといった流れが通例化していた。
「やはり外から見た方が上手く伝わるのだろうな。客観的に見た時、人は初めて物事が腑に落ちるのか」
と、彼女はまだブツブツと独り言を言っている。それを聞いて、俺は被験体になって何かしらの効果を検証されているような気になる。
「確かに今回は胸に刺さったというか、シンパシーを感じるというか……これって別に俺のために作ってくれたってわけじゃないですよね?」
俺は顔を上げたが、彼女はまだ俯いていた。
やがて視線に気づいたのか、ようやく俺に向き合う。
「ああいや、そういうわけではないよ。この話自体は、元々私も人から聞いたものだ」
すっかり彼女の感性の産物だと思っていたので、あんな話を考える人が彼女以外にいたのかと意外に思った。
「そうなんですか、原作者さん?がいたんですね」
と返す。彼女は「あー、うーん」と表現に困ったように首を捻った後、
「まあ……原作者ということになるかな。私がその話を聞いたのは、うちから山を一つ越えた先の山に住んでいた老人からだ。私はそいつを山のジジイと呼んでいたんだが、そいつが暇つぶしで語り部のように聞かせてきた作り話というのが、君に見せた作品の原型というわけだ」
と説明した。
「まあいくつかは、やつの体験談も混じってるんじゃないかな?今日の話なんかは、やけに気持ちを込めて語られたし」
以上が彼女の見解であった。
「へー、面白いですね。じゃあ俺がシンパシーを感じたのはそのおじいさんにってことですね」
「まあ、どうだろうな。そこまで今日の話が気に入ったのなら会わせてやりたかったが、それもできんしな……」
「……もう、お亡くなりに……?」
俺はおそるおそる聞いた。
彼女はただただ遠い目をしていた。
俺はなぜだか無性に悲しくなった。
「まあしかし!君が今日の話に何かを感じたのなら、山のジジイは時を超えて君のためにこれを残したとも言えるな!」
悲しむべきは彼女なのに、なぜか俺の方が励まされているようで申し訳なくなる。
「でもまだ俺は、肝心の肉体の意思さんの存在を実感したことはないですが」
俺も気持ちを切り替えようと、別の質問を考える。
「俺の中の別の意思って、それって俺からすると結局自分自身ですよね?直接声が聞こえたりするんですか?」
「いいところを突いているな。大丈夫、ちゃんと聞こえるぞ。きっと驚くだろう、肉体は驚くほどに素直だ」
彼女は俺に指を差し向ける。
「だから君も……最近は何か楽しそうにしているけどな。いずれは負の感情の根本原因を見つめ直さないと、また見放されるぞ」
彼女は「あっ」と息継ぎをし、両手を顔の前でパンと叩いた。
「そうだ!うちで働けばいいじゃないか!」
恐ろしく大胆で、かつシンプルな提案だった。
とても身も蓋もない力技のような提案で、だけどもそれは俺にとって青天の霹靂だった。
しかし俺はその未来の姿を、想像することができなかった。
次に脳をよぎるのは、俺が会社を辞めると言った時に起こるであろう未来。ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる上司、すごい顔をしながら大量の仕事に埋もれる同僚たち。こちらは難なく想像できた。
「どうした?苦虫を噛み潰したような表情をしているぞ」
彼女の声で、俺は妄想から帰ってくる。
「いえ、今辞めたら他の人にタスクが行くなぁと思って。俺は楽になるべきなんでしょうか?」
我ながら情けない質問だなと心で自嘲する。
「どう選択するかは君次第だ。まあ私なら、辞めたかったらとっとと辞めるがな。それで他人が困るかどうかはその人の問題で、私の問題ではないからなっ!」
彼女のあまりにも自分本位すぎる発言に、おかしくてつい笑いが出た。
そんな発想が出てくるとは、彼女はなんというモンスターだろうか。
「美麗さんって、結構わがままですよね」
俺は出会ってからずっと思っていたことを切り込んだ。
「うむ、その通りだ!私はわがまましか採用しないことにしている!」
予想に反して、彼女は得意げに肯定した。
「それがありのままの自分視点で生きるコツだよ」
なんて身勝手なコツだろう。
しかし、なるほど、彼女の自信と自己肯定感はこうやって醸成されているのか、と納得する。
俺のような、他人に合わせて自分を変容させてしまう人間には、その神経の太さに尊敬すら感じる。
「そんなこと言ったって、生きていく以上いろいろ責任とかが……」
急に彼女が立ち上がり、舞台袖に消えたので、俺の言葉は尻すぼみとなった。
彼女はすぐに出てきた。そこにあった巨大なキャスター付き脚立を引いている。
「もちろん、その責任を果たしたいと思ったら、果たすさ」
彼女は脚立に手をかけてそう言う。
「こんな話がある。人の原動力は愛か不安しかない、というものだ」
「何かの哲学ですか?」
「哲学ではない、心理学だ!」
ガシャン!という音と共に、彼女が足を踏み込む。どうやら脚立のキャスターをロックしたらしい。
「責任を果たしたら嬉しい、心安らぐ、自分のためになる、誰かのためになる、喜んでくれる。仮に失敗しても、許してくれる、励ましてくれると信じられる。そういった愛の気持ちが少しでもあるのなら、やればいい。ただし……」
再びガシャン!と大きな音がする。
「失敗した時の後ろめたさ、失望、絶望、叱責、そういった不安や恐怖しか動機が浮かばないのであれば、そんな責任は果たさなくていい。周りから何と言われようともだ。それは、自分を傷つけているだけだ」
彼女はそう言うと、黒い手袋をはめる。
「未来に対する悲しみが怖れを生み、不安から逃れたいがために怒りを生む。これらの感情も、元を辿れば同じことだ」
そう言うと、顔の横に手を立ててこれみよがしに開口部の端を引き絞った。その仕草は、映画の女スパイのようにサマになっていた。
「でももし、不安や怖れに直面しても、何かをしないといけない時は?」
俺のこの問いは、彼女に聞き流された。
代わりにそのまま、両手を自由にしたままほとんど直立姿勢で脚立を登って行く。
「ちょ、ちょ、ちょっと!危ないですよ!」
俺は動揺してつい大声を出した。
「違う!そこはバランス感覚の良さに感嘆しろ!」
と、彼女は静かながらにはっきりとした声で言う。
やがて彼女が頂上に着くと、天井から吊り下がる照明の灯体の、根元あたりを弄り始めた。
その様子にどこか見覚えがあったが、記憶をたぐるとそれはぶどう狩りであった。
彼女は灯体を外すつもりなのだと理解して、「なるほど」という声が漏れる。
彼女はその目を手元から離すことなく、作業しながら声をかけてくる。
「あ、そうそう、今週は……まあ、色々あって上演ができないからな。次来るのは来週以降にしてくれ」
***
三日後、俺は仕事終わりに『幻燈館』の庭先にいた。
次は来週以降にと言われてはいたが、彼女にどうしても話したいことがあった。来ずにはいられなかった。
スマートフォンを開き、メッセージの送信履歴を確認する。
『今から行ってもいいですか?』
『ひとまず劇場に向かいます。いなければ帰りますので連絡ください』
もう一時間以上経った。
返信はない。
ちょっと入ってみて、劇場にいなければおとなしく帰ればいい、と思ってスマートフォンの液晶をオフにする。
俺は月明かりの中、ドアノブのパスワードを押して、劇場へのドアを開けた。
今日は満月のようだが薄く雲がかかっていて、辺りに街灯もないため少しだけ手間取った。
ドアを閉めると、もはや完全に真っ暗だった。
スマートフォンの液晶の明かりを頼りに、慎重に階段を降りる。
俺は初めて彼女とこの階段を降りた時の出来事を思い出す。
一つ気になっていたことがあった。
俺を縁側に何度も座らせたこと、あえて岩の上に飛び乗ったこと。
あの時、彼女は俺の不安を全て察していたのではないか。
招かれざる客を演じていた俺に、その怖れを払拭させようとしたのではないか。
彼女にそういったエンパシーがあるのかは分からない。なんにでも意味をこじつけようとしてしまう俺の考えすぎかもしれない。
あるいは、自分の思考回路を他者に投影してしまう、認知バイアスの一つやも。
俺は階段を降りて廊下を進み、劇場を覗いてみたが、中は真っ暗であった。
彼女にとってここが家なのか仕事場なのかも分からなかったので、もしかしたら今日はここにはいないのかもしれない。
そう思い来た道を帰ろうと振り返ると、反対の廊下の途中の曲がり角から光が漏れていることに気づいた。
サーッという音がかすかに聞こえる。
煙が床面近くに流れ出て広がっているのが分かった。
廊下がコンクリートの打ちっぱなしのためか、仄かに湿気が籠っているように感じる。
シャワーで温水を出しているのか、もしかしてあそこは浴室だろうか。
少なからずの興味を持って、その曲がり角を覗き込んだ。
その先にあったのは、浴室にお馴染みの刷りガラス調のドアであった。
普通、そういうドアの向こう側はぼやけて見えないが、その輪郭、影くらいは見えるはずだ。
だが、いざ目に飛び込んできた光景に、俺は息を飲んだ。
そこには、巨大な魚の尾びれのようなシルエットが、映し出されていた。
それは尾びれの先がドアの天辺に届くほどの巨大さで、ドア全体を埋め尽くし、ぬらりと揺れ動いている。
「誰だ!」
ドアの向こうから聞こえたのは語気の強い、彼女の声だった。
「あ……っと……」
声にならない声が漏れる。
「君か……」
キュッと音がして、シャワーの音が止まる。
「……開けていいぞ」
彼女の声はそう言った。
俺は促されるままそっとドアノブを捻ると、ドアはそのままじわりと惰性で開いていく。
俺の目に映ったのは、広い浴室の中央に据えられた四つ足付きの西洋風の浴槽。
それに浸かってこちらに向き合う彼女の顔。
そして、浴槽から手前に垂れ下がる、青みがかった巨大な魚の尻尾であった。
浴槽からはみ出している分だけでも俺の身長ほどあるその物体は、ゆらりと湯煙を巻き込みながら俺の前を横切る。
それに連動して、彼女の頭も微かに揺らぐ。
仄かにシトラス系の、ライムのような香りがする。
尻尾が床に垂れ、ペチャという音がした。
どう見ても、彼女の体から生えていて、生きた体の一部であるとしか思えなかった。
尻尾が浴室の床をズズッと引きずる。
俺は直接目の当たりにしたその尻尾の巨大さに、再び圧倒される。
「これが私の正体だ。世に言う人魚というやつさ」
俺は電流が走る様に首筋がチリチリと震え、全身の毛が逆立つ様な感覚になる。
「人魚って、あの、食べると不老不死になるっていう……?」
「ほう?人魚といえばロマンチックな逸話も数多くあるというのに、よりにもよってまず最初にそれを持ち出すか……」
本当にその通りである。なぜか最初に出てきた伝承がそれであった。
「さては君は、人魚の肉の味に興味があるのかな?」
と、彼女は自らの肩から首にかけてを手ですらりと撫でるような素振りをする。
「い、いやそういうわけでは……」
とは言うものの、俺の視線はついつい彼女の顔から首へ、そしてさらにその下に移動する。
白濁した湯の水面に、彼女の逆さまの顔が映っている。
くそっ!入浴剤がっ!……俺の心の中で落胆の嘆きが響く。
「これは実際、そんなにメルヘンチックなものではないよ。もう結構血は薄まっているらしいし、特殊なことと言えばちょっと人より寿命が長いことと、満月の夜に水に浸かるとこういう姿になることくらいだ」
彼女は飄々として語る。
「そ、そうなんですか……」
「これが、今週は会えないと言った理由だよ。満月近くは畢竟、体質自体が変わるというか、やはり皮膚や鱗が乾燥に弱くてな。こうやって行水をしなければ、なんとも気持ちが悪いんだ」
彼女は尻尾をぐにゃりと反らせて持ち上げ、手で浴槽の湯を掬っては掛ける。
「私はこれと一生付き合っていかなければならないんだ。これは私の性質であり、治るようなものではないからな。だから私はこういうものとして受け入れている」
尻尾に隠れて彼女の顔はよく見えなかった。
「こんな秘密、なんで俺に教えたんですか?」
俺は言葉を選んで問いかけた。
「なぜだろうな。君に失望されたかったからかもしれない」
どうして俺が失望するのか。
その物言いも意味が分からなかったし、俺はそんな彼女に何か、いつもと違う雰囲気を感じた。だがその正体までは分からなかった。
「ああそうだった。ちょうどいい……そこにイスがあるだろう?」
彼女は尻尾の陰からひょいと顔を出す。
俺の目の前、浴槽との間にはプラスチックのバスチェアが置いてあった。
すると彼女は、反らせていた尻尾を縦にピンと伸ばす。
それは見上げるほどに高く掲げられ、俺の顔に影がかかる。
次の瞬間、丸太のような太さの物体目の前を通り過ぎ、それが引き起こす風圧を、全身に受ける。
彼女がそのバスチェアに向けて、尻尾を強烈な勢いで叩きつけたのだ。
ビタンッ!という音と、同時にパァン!と何かが弾けるような破裂音が室内に響き渡り、俺の心が両肩と共に跳ねる。
「それを捨てておいてくれないか?」
次に尻尾が持ち上がると、さっきまでバスチェアだったものはいくつかの破片になっていた。
魚の身はそのほとんどが筋肉だ。いつか釣りで掴んだことのある小魚ですら凄まじい力だったのに、人間の身の丈ほどもあればその力は計り知れない。
「いやあ、安かったから買ったのだが、どうも入浴中にわざわざイスに座るということがなくてな。やはりこういうのは幼少期の習慣が影響するのだろうな。このままではただのカビの温床だし、こうすれば粗大ゴミにならずに捨てられ……」
ぴたりと彼女が喋るのをやめた。
そして、しばらくの沈黙の後、彼女は一言、低い声で問いかけた。
「怖いか……?」
普段のふてぶてしく、何時も嬉々としたその雰囲気は消えていた。
その表情は、笑みを浮かべてはいたが、眉が落ちて、力の抜けた目であった。
俺はそれがどんな表情かを知っていた。
そしてその瞬間、俺はようやく己の重大な思い違いを知った。
彼女は、俺と同じだ。
浴室がシンと静まる。
浴槽の上の天井付近に固定されたシャワーから水滴が落ち、浴槽に波紋をつくる。
ぴちょんっという音の波動が、この場の全ての空間と物質に、鳴り響き渡る。
この世界に、この肉体が生きているということ……
ただそれだけで俺たちの存在には意味があると、あなたはそう言っていたじゃないか。
そんなあなたが、自らの承認を他人に問うなんて……
俺は心のどこかで彼女を完璧なメンタリティを持った超人だと思っていた。境地に至っていると思っていた。
しかしそうではなかった。
彼女もまた、その光の裏側に、孤独に闇を抱えていたのだ。
「君は初めて会った時、自分は人間ではないと言っていたな」
静寂を壊さぬように、彼女は小声で囁く。
「私から言わせてもらうと、君は人間だよ。間違いなくな……人間でないのは私の方だ!内心そう思っていた」
それは自嘲だろうか、それとも俺を突き放しているのだろうか。
人魚の姿に変化する彼女の性質は、どう解決することもできない。それは彼女も言っていたことだ。
だが分かっていても、どうしようもなく弱気になる時がある。どんな信条を持っていても、もう大丈夫だと思っても、揺らぐ時がある。
無理解の苦しみとはそういうものだ。
俺も長年、自分の心の闇とでも呼ぶべきものと対峙し続けているから、それが分かる。
分かる、はずなのに……
俺は彼女になんと声をかければいいのだろうか。
俺は人魚ではない。
俺は人魚ではないから、彼女の闇に真には共感できないし、その闇に寄り添って癒すこともできない。
ただの人間であるところの俺が何を言ったところで、彼女にとっては無意味だ。
俺は何も言えず、浴室から目を逸らし、立ち去った。
そして廊下の暗闇を進む。
彼女にとって大多数の一人にすぎない俺の言葉などでは、彼女の闇には何の影響も与えられない。
たとえ彼女の良いところを褒めちぎったところで、彼女の闇が消えるわけじゃない。
だから、俺はあなたに救われた、なんて伝えたところで、彼女にとっては無意味かもしれない。
そう……あの時彼女の在り方が、俺の目指す希望の光だと思ったことさえも……
——無意味じゃない
そう答えたのは誰だろう。
頭の中で積み重ねた問答に、まるで子どもの駄々のような一声が割り込んでくる。
さながら、まとまりかけていた会議の進行を妨げる無法者の如く。
どの様なロジックでその言葉が出てきたのか、なぜそう思うのか。もう一度頭を巡らせても、そこに至るプロセスが見出せない。
——無意味なんかじゃない
俺の脳裏には、相変わらず悲しげな、諦めたような顔の彼女が映る。
そんな彼女の表情に、記憶の中の彼女の姿が重なる。
劇場の照明に照らされ、煌々と輝く彼女は、不敵に微笑んでいる。
夏の日差しの中で、燦々と輝く彼女は、闊達に笑っている。
そうだ、ただ一つ確かなこと。俺の目には彼女はこの時、光り輝いて見えたということだ!
彼女にとってはどうか分からないが、俺にとっては、決して無意味ではなかった。
それだけでも、伝える価値がある。
俺の体は転回し、暗闇を走り出した。その先に見える光に向けて。
再び浴室に辿り着いた俺は、そのままの勢いで閉じかけたドアにぶつかる。
勢いを殺すためにドア枠に思い切り肩をぶつけたが、痛みなどはどうでも良かった。
浴槽がバシャっと飛沫を立てた。そこに浸かる彼女の顔は、呆気に取られたように目と口が丸くなっていた。
俺は思い切り息を吸った。そして、
「どう捉えるか、決めるのは俺だ。俺の世界は俺のものだ!ちょっとコンプレックスがあるからって、それで俺が、それを俺の世界が、受け入れられないとでも思ったか!残念だったな!」
そう、彼女に宣言した。
俺は彼女の全てが分かるわけじゃない。彼女の闇を払拭させることもできない。
でも、闇があるからって光が無意味になるわけじゃない。闇が消えないと、光が全て偽物になるわけじゃない。
「俺はあなたがいてくれてうれしいですよ。あなたに会えて幸運だと思っています。今も変わらずにあなたを勝手に尊敬しているし、俺の見る世界では、今でもあなたは光り輝いているんです」
なんのことはない。彼女もまた、心に闇を抱えつつも、光を目指す途中なだけだ。
だから俺は、彼女の闇ごとそのまま受け入れたい。
「むしろそういうコンプレックスがコントラストになって、より光が際立ってるというか、魅力的というか……あ……」
彼女はまだポカンとしている。
伝わったかはよく分からなかったが、とはいえ補足説明もできなかった。
ただ、勢いに任せて最後に余計なことを言ったかも、とだけ思った。
俺は彼女の方を見ないようにしながらも、急いで床に散らばるプラスチックのかけらを拾う。
「じゃ、じゃあそういうことで……」
「あ、おい!」
彼女が呼ぶが、そのままサッとドアを閉める。
「ちょっと待っていてくれ!すぐ出るから」
ドア越しに彼女の声が聞こえる。
「いやわざわざそんな……」
俺の言葉を遮って彼女はまくし立てる。
「いいから!待っているんだぞ!」
「じゃあ……劇場にいますから」
そう言ってドア越しに手を挙げた。
俺は、いつも彼女がそうしているように劇場の舞台端に腰掛け、彼女を待った。
真っ暗だったので蛍光灯を点けたが、それなりの広さの劇場なのに三箇所くらいがポツポツと点灯するだけだった。
袖裏からパタパタッとスリッパの音が聞こえる。
「待たせたな」
彼女は真っ白の大きめのバスローブを羽織って現れた。
髪からポタポタと水滴が滴っている。
換気が悪いのだからちゃんと乾かしてから来てほしいな、などと間抜けな俺は思った。
「君は今日は、何か話があって来たんじゃないのか?」
彼女に言われるまで忘れていた。
「あー、いえ大した話じゃないんですよ。今度社員旅行があるんです。二泊三日も。あんな職場環境なのにですよ……それでちょっと泣き言を言いたかっただけです」
彼女は堪えきれないというように吹き出す。
「あっはっはっ!何かと思えば……それは大変だなぁ!くっくっくっ」
ひとしきり笑った後、
「素直だなあ君は……ん?……あぁ!なるほど?ほぉーん?」
と、何かに気づいた彼女はニヤニヤと俺を見る。
「じゃあ最後のアレは、そのまま君の性癖か!」
俺が最後に口を滑らせた、唯一伝わらなくてもよかったところが的確にバレていた。
性癖……まあ確かにその通りかも、と俺は彼女を見て思った。
「そうか……最初から君を信じられていたら、あんな未熟さを露呈せずとも……いや、これでよかったのか……」
彼女はなんだか一人で納得し、
「で、どうするんだ?」
と、聞いてきた。
「え?」
「もういいじゃないか、うちで働けよ」
彼女は言った。
「そもそも君のような人間は、ガチガチの支配構造のコミュニティは合っていないんだ。ちょうど、表の映画館も含めて人手が足りないと思っていたんだ。なっ?」
胸がじんわりと熱くなる。
だが俺には、どうしても整理をつけたい事柄があった。だから、
「ありがとうございます。でも、もうちょっとだけ頑張ってみます」
そう言って、今日は帰路に着くことにした。
彼女は不満そうだったが、蛍光灯はちゃんと今度替えますよと伝えると、少し呆れたような笑みを浮かべた。
***
俺は慣れ親しんだ深夜の人気のない帰り道を歩く。
信号が悉く直前で赤になるので、考え事をする時間は十分にあった。
彼女のセリフが、脳裏に蘇る。
実際のところ、俺は彼女に対して、いわゆる竦み上がるような恐怖というものは微塵も感じていなかった。
だが、それとは別にずっと浮ついた気持ちだった。
それは、特異な事実を知ったことによる謎の優越感。好奇の目。
その気持ちは、一見関心を持っているようで、その実、自他を分けて歩み寄りを止めていることを意味する。
大分すると、それは怖れに類する感情かもしれないし、俺にとっては恐怖よりも恥ずべき悪性の感情だった。
どうにか秘密にしたい俺の心の闇であった。
彼女はそれに気づいていただろうか。縁側の時と同じで、本当のところは分からない。
ただもし、まだ気づいていなかったとしたら、俺の心に抱いていた感情を知った時、彼女はどう思うだろうか。
そこまで考えて、はたと気づく。
彼女の言っていた、失望の意味が分かったように思った。
俺には、どこかで彼女のことを光の化身のように、偶像のように崇拝している節があった。もしかしたらそれが、彼女の様子をおかしくさせた原因かもしれなかった。
ただしかし、だとしても、俺の言葉に変わりはないな、と振り返った。
あのとき、俺を突き動かしたのはある種の意地だった。
俺は怖れを乗り越えられないほど愚かではない、と信じたかったのだ。
怖れを乗り越えるには、信じるしかなかった。自分自身を。
そして、もう一人の俺から発せられた俺の言葉を彼女が受け入れてくれることを。
俺の思考の外から飛んできたあの声。
俺の中のもう一つの意思。
あれはつまり、俺なのだ。
そいつにとって、俺は世界の全ての中心、たった一つの窓口。
だから俺が望めば望むほど、信じれば信じるほど、俺の世界は変わるのだ。
やがていつもの橋に差し掛かった。
夜景が妙に明るい。月光が建物の壁に照り返しているからだ。
そういえば今日は満月だった。
俺は、彼女の闇を受け入れると言った。
それは、俺がそう望んだから……それが俺の目指すべき光だったから。
他人の闇を受け入れるのなら、自分の闇も受け入れなきゃ嘘だ。
客観的に見た時、人は初めて物事が腑に落ちるらしい。
攻撃性、利己心、支配欲、ざまぁないというシャーデンフロイデ、恐怖に飲み込まれること、卑しき優越感、分かってほしいという気持ち……
相変わらず人間の悪性は嫌いだ。そしてそれは自分の中にもある。
でも、あったっていいではないか。
たとえ闇を抱えていても、自分の中の光を表出すること。
たとえこの闇が未来永劫消えないとしても、それでも光を為すこと。
それが、あの時の俺の言葉が欺瞞でないことを証明するし……
それだけで、俺は俺を誇れるであろう。
俺は俺のまま、闇を内包したまま、アンビバレントに光り輝くのだ。
「明日から忙しくなるな……」
明日も仕事である。
闇の法則で営まれる世界に浸り続けることは、もはや虚しく思う。
だが、その中で光を目指す人が、自分以外にもいるかもしれない。
錯覚でもいい、やれるだけのことはやってみよう、と心の中で自分を鼓舞した。
遮るものがない橋の上では、びゅうびゅうと大きい風が吹く。
俺が全身で浴びるその風は、今までとは違う世界に吹く風だった。
否、世界は最初からこんなものだった。
混沌として、不条理なものが溢れる世界。
そんな世界がただそこに在り、どう捉えるかは自分次第だ。
俺は両手を広げ、この新たな世界に、ゆっくりと体を馴染ませた。
第三章へつづく
