カシモフの首【小説】 幕間: アナスタシア、展望塔にのぼる
八月末のある昼下がりのこと。アナスタシアは足音を消し、ハミードフ邸本館の二階廊下を歩いていた。
屋敷の中はひっそりと静かだった。その日は憲法記念日に当たっており、家の者はみな政府主催の行事のために出払っていた。使用人たちはそろって休憩に入ったところだ。
廊下の中ほど、父ハミードフの書斎の前でアナスタシアは立ち止まった。ドアにぴったりと背中をつけ、用心深くあたりを見まわす。懐から取り出した鍵を後ろ手で鍵穴に差し込む。
先日、ここで父親と話した際、彼女は机の上に置かれていた書斎の本鍵を見逃さなかった。持ち手の部分に刻まれた鍵番号。網膜に焼き付けたその小さな数字をもとに、あらかじめ合鍵を手配しておいたのだ。
首尾よく錠が開いた。アナスタシアはドアの隙間からするりと室内に忍び入った。
どっしりした書斎机へ近づくと、引き出し式の金庫に取りかかるまでもなかった。不用心にも、口の開いた大判の厚紙封筒がレタートレイに載っていた。封筒の表、差出人のところに「〇〇遺伝子情報解析センター」とある。住所表示はブリュッセル。中から出てきたのはA4判の英文の報告書だった。
アナスタシアは脇に挟んでいた黒い棒状のものを机の上に置いた。携帯用のスキャナーだ。報告書を飛ばし読みしながらめくっていき、あるところではたと手を止めた。スキャナーを片手で持ち、書類の上をゆっくり滑らせる。表紙と合わせてその数ページを読み込むのに三、四分かかった。
報告書を封筒に戻す。彼女がほっと息をついたのもつかの間、廊下のほうから話し声が聞こえてきた。父たちが帰ってきたのだ。迷う余裕もなく、別室になっている書庫へ飛び込んだ。ほぼ同時に書斎のドアを勢いよく開く音が響いた。
暗がりの中でアナスタシアは息を殺した。
書庫の扉のルーバー越しにそっと部屋をのぞく。と、ちょうどカリムがテレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れるところだった。ハミードフがソファに腰を下ろし、前のめりに身を乗り出した。アナスタシアの位置からは画面はよく見えない。が、音声によって放送の内容はわかった。
それは「ケネサリー・ハン報恩事業会」代表、アイベク・ジュヌーソフの記者会見の模様だった。
アイベクは世界平和宮殿の現場で広まった例の怪談話を紹介していた。まるで特ダネでもつかんだかのように得意げな声だ。彼は前置きを終えると、今度はいかにも重々しく告げた。この話はあながちでたらめとも言いきれない。実は、ロシアでカシモフの首が発見され、すでにカザフスタン領内に持ち込まれたとの情報がある、と。
会場からどよめきがあがる。もったいぶった口調でアイベクが続ける。まさに国の根本が問われる重大事だ。カシモフ直系の子孫であり、首の返還運動を行ってきた者として、事の真偽ならびに経緯を明らかにしていただくよう、政府と関係者各位に強く求めたい──。
カメラのシャッター音が激しく鳴った。フラッシュがたかれるたびに画面がまたたいた。
ハミードフがいまいましげにうなる。
「調子に乗りおって、舌先三寸のペテン師めが。それにしても、いったいどこから機密が漏れているのだ?」
彼はソファから立ち上がると、そのままバルコニーへ出ていった。カリムがあとに続いた。アナスタシアは書庫から出て窓辺に張りつき、カーテンの向こうの会話に耳をそばだてた。
涼やかな日陰を作る柱廊式のバルコニー。カリムがハミードフの隣に並んで言う。
「妙だと思わないか、父さん。おかしなことばかり立て続けに起こる。平和宮殿の火事といい、亡霊のうわさといい……。アイベクが急に動きだしたのも変だ。もしかしてこれは、あいつじゃないのか。あいつが帰ってきたんだとしたら?」
ハミードフは欄干に両手をついてまぶしい中庭を眺めていた。逆光になったその後ろ姿がかすかに首をかしげる。
「……なぜあいつなんだ」
「ほかに誰がいるっていうんだよ。みんな死んだ。あいつを除いて」
「おまえもよく知っているだろう。この十年間、くまなく探してきた。今もアルマティ周辺を定期的に調べさせている。もし姿を現したら、今度こそ始末せねば、と。だが、あれはどこにも見つからんのだ」
深いため息混じりの声だった。カリムは父の横顔をじっと見ていたが、ふとその耳元へささやきかけた。
「やはりナースチャはカシモフの首の件から外そう」
ハミードフの体がびくりと揺れる。
「あの子はペテルで大事な仕事をしたじゃないか! 東京でもよくやってくれた」
「念のためだよ。父さんだってわかっているはずだ、なぜそれが必要なのか」
「余計なことに気を回さんでいい。おまえはまずアイベクと話をつけろ。どうでもいい輩だが、メディアで派手に騒がれるのは困る」
カリムが鼻白んだように肩をすくめる。
「味方に引き入れるのか、あんなちんけな野郎を?」
「うまく丸め込むんだ、こちらの手の内は明かさずにな。竣工式が終われば、いつでも切り捨てられる」
ハミードフは苦々しく言い放つと、片手を上げてゆっくり頭を振った。もう話は終わりだといわんばかりに。
父が部屋のほうへ向きなおった時、アナスタシアはすでに窓辺を離れていた。彼女は忍び足で書斎の入り口に戻る。細く開けたドアから音もなく廊下へ抜け出す。
*
まだ夏の盛りを思わせる太陽が、首都の空いっぱいに照りわたっていた。 アナスタシアは真新しい街路の表面に濃い影を落として歩いた。白いワンピースの裾を風になびかせ、長い髪が乱れるのを手で押さえながら。
かぎ針編みの帽子の下で彼女の目は明るく輝いている。ほおにはうっすらと赤みが差している。
イシム川左岸で建設が進む新都心。アナスタシアが行くのは、滑走路のようにだだっ広い都市公園、ないしプロムナードだ。彼女の視界の左右に何棟もの高層建築が立ち並ぶ。政府各省の庁舎、銀行や石油会社が入居するオフィスビル、高所得者向けの集合住宅などなど。どれも躯体工事が終わり、外装工事がたけなわを迎えている。
歩道沿いにたくさんある花壇はほとんど空っぽのまま。競技用プールのごとく大きな噴水池もいまだ造成半ば。それでも今日は祝日ということで、あちこちに遊牧民のフェルト製テントであるユルタを使ったイベント会場が設けられていた。
あるユルタのそばでは、歌手や楽器奏者が集まった人々の気分を盛り上げている。別のユルタの前では、民族衣装を着た女性たちが伝統舞踊をお披露目中だ。
新都心に住む人口は今なお微々たるものにすぎない。が、川向こうの旧市街から繰り出してきたのだろう。大勢の若者や家族連れが夏を惜しむようにそぞろ歩きを楽しんでいる。
ようやく人だかりが途切れたところで、アナスタシアは行く手の空を見上げた。町の新しいランドマーク、「バイテレク」展望塔が目と鼻の先にそびえていた。
一本の円柱状のシャフトが天に向かって伸びる。シャフトは白く細かいトラス構造の支柱に取り巻かれている。塔の頂部へ近づくにつれ、それら精巧な支柱の群れは徐々に外側に開いていく。まるでレースの包装紙に包まれた一輪ブーケのような姿。
ただ、遠目には、丸い棒付きキャンディを突っ立てたかのごとく見えなくもない。というのも、シャフトの先端には金色の球状の展望台が取り付けられているからだ。その展望デッキは地上九十七メートルの高さにある。これは、一九九七年に首都がアスタナに移転したことにちなんでいる。
さて、アナスタシアが塔足元の広場に差しかかった時のこと。彼女ははっと息をのみ、ほんの少し歩を緩めた。背後を振り向きかけたが、結局はそうしなかった。何気ない調子でそのまま歩きつづける。
バイテレクの玄関ロビーは半地下になっていて、入り口は広場から一段下がったところにあった。アナスタシアは地面に掘り込まれた階段を急ぎ足で降りた。玄関ドアをくぐるや、さっと脇へ寄る。風除室横の待合スペースに隠れ、息を潜めた。
そこへ遅れて入ってきたのは美智だった。アナスタシアには気づかずに真っすぐ通り過ぎていく。こそこそといかにも挙動がおかしい。つま先立ちで伸び上がっては、しきりに他の客の後ろからロビーを見まわしている。
アナスタシアはあきれたように首を振り、前へ出て美智の背中に声をかけた。
「誰をお捜しですか、探偵さん?」
あうっ、と妙ちくりんな声をあげると、美智は肩を縮めたままおそるおそる振り返った。腕組みをして立つアナスタシアを見て、世にも情けない顔をする。
「ナ、ナースチャ、そんなところでなにを──」
「美智、懲りもせず、またお得意の尾行ごっこを始めたんだ」
アナスタシアはつかつかと近づき、頭をかしげて美智の目をのぞき込んだ。
「ほんとに信じられない。まるで私がどうするか、前もってわかっているみたい」
「ききき、今日はひとりで散歩? 久しぶりの休みだもんね。天気もいいし」
「ごまかさないの。さあ、答えなさい。あなた、屋敷からずっとつけてきたわけ?」
美智が釣り上げられた魚のように口をぱくぱくさせる。とその時、出し抜けに後ろから「やあ、ごめん。待ったかい?」と呼びかける者があった。アナスタシアはぎょっとなり、つかんでいた美智の手首を離した。
男が一人、そばへやって来た。ロシア系。三十代半ばから後半の、どちらかといえば小柄な男だ。
「でも約束の時間どおりだろう、美智? さすがに初めてのデートに遅れたりしないよ、僕は」
「ドミトリー……」
美智はあっけにとられたように男の人懐っこい笑顔を見ていたが、次の瞬間、彼の腕に手を回してアナスタシアに向きなおった。
「そう、デ、デートなんだ。えへへ」
デート、とオウム返しにつぶやき、アナスタシアは何度かまばたきした。それから疑わしそうな目で闖入者をにらみながら、
「よくそんな見え透いた言い訳を……。なんなの、デートって。美智、いったいいつのまに──」
ドミトリーと呼ばれた男は美智のほうへ首を傾けつつ、アナスタシアににっこりとほほえんでみせた。
「いやいや、まったく身に余る光栄だよね」
そのあとも終始感じのよい笑みを浮かべ、ドミトリーは丁寧に自己紹介をした。ロシア中南部の都市、ノヴォシビルスクから来たこと。アスタナの首都建設について長期の連載記事を書いていること。春に旧市街のビリヤード・クラブで美智と知り合ったきっかけについて、彼は特に面白おかしく語った。気安く、温かみのある話し方だ。
アナスタシアは黙って美智とドミトリーの顔を見比べていた。が、次第に気がそぞろになり、最後はうつろなまなざしをじっと前に向けていた。美智がちらちらと心配そうにその表情をうかがう。
ドミトリーがひととおり話し終えた時だ。ヨーロッパ人らしい観光客の一団が玄関からどっとなだれ込んできた。彼らはロビーを占拠し、数人ずつ固まって大声でしゃべり始めた。それを機に、アナスタシアは半ば強引に立ち話を切り上げた。
「私、急いでいるから。じゃあね、お二人さん、せいぜいデートを楽しんで!」
美智とドミトリーをその場に残し、アナスタシアはロビー奥のエレベーターへ向かった。チケット売り場は素通りした。彼女が身分証明書を見せると、係員はうやうやしく頭を下げ、順番待ちの列の先頭に案内した。ちょうどそこへ、二基あるエレベーターのうちの一基が到着した。
あぜんとして見送る美智たちを尻目に、アナスタシアはひとり先に最上階へと上がっていった。
総ガラス張りの展望台に出たとたん、視界は三百六十度に広がった。黄みがかった複層ガラス越しに、新都心で建設中のすべての建物を見わたすことができた。掛け値なしに壮大な光景だ。
アナスタシアは展望デッキをゆっくり一周し、人混みから離れてたたずむ若い男のそばに並んだ。
それは新都心の東端に立つ大統領官邸を真正面に望む位置だった。ここまで彼女が歩いてきたプロムナード公園は、バイテレク塔のさらに先へ延びている。青いルネッサンス風のドームを持つ白亜の官邸は、公園の終点に要石のように鎮座している。ドーム頂部に突き立った金色の尖塔。その向こう、イシム川を隔てて対岸には、世界平和宮殿のピラミッドが小さく見える。
男は大きな背をかがめ、手すりに両ひじをついて目の前の景観を眺めていた。鳥の巣のようなぼさぼさの髪。そげたほおに浮いた無精ひげ。色の濃いサングラスをかけ、くちゃくちゃと音をたてて口元を動かしている。
「向こうじゃ、いつも腹をすかせていてね。ひもじくてしかたない時、よくこいつをかじってしのいだもんさ。以来、手放せなくなっちまった」
見た目とは裏腹な甲高い声で言うと、男は洗いざらした灰色のシャツの裾ポケットからなにかつかみ出した。アナスタシアの手のひらに、干しなつめの実がいくつか載せられた。赤黒く、細長い卵型をしており、ぬらぬらと光る表面にたくさんの深いしわがある。長さ四センチほどもある特大サイズ。ここらあたりで採れるものではない。
アナスタシアは干しなつめに鼻を近づけ、甘く香ばしいにおいを嗅いだ。
「十分しか話せない。下に美智がいるんだ。次のエレベーターで上がってくる」
それからしばらくの間、彼らは数枚の書類──アナスタシアが父の書斎でスキャンし、印刷したもの──を挟んでひそひそと頭を寄せ合っていた。展望台は多くの観客でにぎわっていたが、二人に特に注意を払う者はいなかった。外界の明るさが逆光となり、行き来する人々を影絵のように黒く浮き立たせている。時折、子供たちのはしゃぎ声がそばを走り過ぎる。
男が書類から目を離し、得意げに鼻をすすってみせた。
「これでこっちにも勝ち目が出てきた。次もきっとうまくいくぜ、打ち合わせどおりにやれば」
「なにが打ち合わせどおりだ。この間だって、一歩間違えば平和宮殿を丸焼けにするところだった」
アナスタシアは怒気を含んだ声で言うと、もたれていた手すりから身を起こした。男はたちまち気怖じした顔になり、哀願するようにアナスタシアを見上げた。
「ごめんよ、ナースチャ。あんなに勢いよく燃えるなんて、思いもよらなかったんだ。怒らないで」
「またそうやって甘えん坊のフリで言い逃れしようとする。……ねぇ、それより、いったいどうなるの、今度のことが終わったら」
「ナースチャはあの家から解放され、晴れて自由の身になる。いつも自分でそう言ってただろ?」
「私のことはいい。あなたはどうなるのかって聞いてるんだ! この計画のためになにもかも投げ打ってしまって、そのあとどうするの……」
男はガラスの向こうを見つめたまま黙り込んだ。アナスタシアはしばしの間声を詰まらせていた。やがて彼女は落ち着きを取り戻すと、
「あの形見の言葉、覚えてる? 『あなたが生き延びることが、なによりの復讐になる』っていう」「……もう始めてしまったことだ。今さらあとへは引けないよ」
「聞いて。なにがあろうと、私は最後まであなたにつき合う。ずっとずっと前にそう心に決めた。ただ、今やろうとしているのは、あの日言われたこととは正反対。それが引っかかるだけ」
「わかってるさ。でも、誰かが連中を止めるべきなんだ。でなきゃ、これまで見てきた悪夢を、この先も見つづけることになる。違うか?」
「そう、そうだったね。ほかに道はない、私たちには」
「ナースチャ、約束するよ。全部片づいたら、僕らは今度こそ──」
折しも、次のエレベーターがあと二分で出発するという案内放送が流れた。彼らの会話はいったん途切れた。まわりにいた観客たちが幾人か引き上げていく。
「最後に一つだけ。あの日本人建築家のことだけど」
男が早口で仕切りなおした。アナスタシアはため息をつき、いっそう声を沈ませた。
「不思議といえば不思議。美智にはね、なんでも見通してしまうような鋭い一面があるの。ちょっと怖いくらい。今日も見事につかまってしまった」
「うーん、いつだったか物陰から見たかぎりでは、そんなふうには思えなかったがな。どっちかっていうとおっとりした感じで。たぶん屋敷を出る際、偶然姿を見られたんだろ」
「私、あの人にこれ以上知られたくない。ハミードフ家の、というより、私自身のずるくて残酷なところ……。彼女を見ているとね、つくづく自分が嫌になるんだ。私の人生はすべて間違ってるって思い知らされる」
「よしなよ、そんな言い方。そもそもお互い生きてきた世界が違うんだから。ともかく、あれこれ勘ぐられないように用心するこった。今、余計な邪魔立てをされるとまずい」
そこでアナスタシアは真剣な面持ちで言う。
「心配ない。美智はこっちの手中にある。彼女、私にぞっこんだもの」
男がくすりと笑い、片目をつぶってみせた。
「熱いね、君たち」
歯をむき、こぶしで男を打とうとするアナスタシア。男は手すりから体を起こすと、大型類人猿のように長い両腕で彼女を抱きすくめた。
「あと少し、もう少しだ、ナースチャ。さあ、しっかり立って。決めたとおりやれるな?」
時間が来て、男を乗せたエレベーターが展望台から降りていった。
アナスタシアはひとりガラスの前に立ち、あらためて広大なパノラマに向き合った。新都心の細長い敷地の南側は、一面遮るもののない大平原だ。彼女は手すりの横木をつかんで頭をうつむけた。涙はまぶたの縁から真っすぐ下へ落とした。指でぬぐって、目元に跡を残すわけにはいかない。
ほどなくしてもう一基のエレベーターが到着した。他の客に交じって美智たちがデッキに出てきた。
その時、アナスタシアがすまし顔で見送っていたのは、建設現場の先で途切れ、草の中へ消えていく新都の大街路ではなかった。彼女の琥珀の瞳がひそかにとらえていたのは、一つの人影、タワーの足元から出ていくけし粒のような影だった。
☞ 次回へつづく
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