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カシモフの首【小説】 Ⅲ.草原の首都開発 ④

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 ある週末の静かな昼下がり、美智はハミードフ邸の広大な中庭をぶらぶらと歩いていた。ケネサリー・ハン報恩会のアイベクと話してから間もない五月初めのことだ。
 光まばゆい新緑の芝生。あちこちでスプリンクラーが水しぶきを飛ばしながら回っている。白や薄紫の花をつけたライラックの茂み。甘い香りが穏やかな風によって鼻先まで運ばれてくる。
 庭の中ほどまで来ると、八角形の屋根を持つ瀟洒なあずまやが立っていた。鋳鉄製の柱の間に籐のソファセットがあり、二人の人影が座っているのが見えた。
 ──家政婦長さんと、それから……、あ、祈祷師さんか。
 美智が会釈して通り過ぎようとしたところ、家政婦長のザリエマが手を振って呼び止めた。
「美智ぃ、こっちへいらっしゃいな。ワンガ様があなたとお話ししたいとおっしゃるの」
 あずまやが作る陰のもと、ワンガは小さな体を一人掛けソファにちょこんと載せていた。頭に白いスカーフを巻いているのはいつもどおりだが、今日は春らしい緑色の軽やかなローブをまとっている。植物文様を織り込んだ、繊細かつ美しいものだ。
 美智が向かい合わせに座ると、老祈祷師は両手でひじ掛けをつかみ、カザフ語で問いかけてきた。
〈この町に来てどのくらいたつ?〉
 家政婦長が通訳してくれる。美智は指を折りながら、
「一か月半になります」
〈腰を据えてじっくり仕事をしなさい。焦ることなど何一つない〉
 ワンガはしわがれた、しかし張りのある声をしていた。首を軽くかしげ、口元をとがらせるようにして話す。
〈知っておるか? おまえさんはこの上ないほどの幸せに包まれている〉
「はぁ、幸せ……、とおっしゃいますと?」
〈私にはわかる。ここにいても母国に帰っても、おまえならきっとだいじょうぶだ。ただし、人生の伴侶を得ることは必要じゃぞ。そうしてこそ──〉
 やられたぁ、と美智は心の中でうめいた。アスタナに来てまでこの手の説教を聞こうとは。がっくりと気落ちがする。
〈そうしてこそ、これからもその先も、ずっとずっとうまくやっていけるのだ。ぜひいい嫁を見つけなくては〉
「えっ、お嫁さん?」
 美智は顔を上げ、きょとんとワンガを見た。その両まぶたは重く垂れ下がっているが、奥の瞳は大まじめに光っている。
〈ところでナースチャのことをどう思う? あの子が好きか?〉
「はい、大好きです……」
〈彼女をもらってはどうか。頭のよい、美しい娘じゃろうが〉
 一語一語を訳しながら、家政婦長がこらえきれなくなったように噴き出した。
「ごめんなさい、美智。ワンガ様は耳が遠くて、目もお悪いの。あなたは背が高いから、勘違いをなさったみたい。それにカザフスタンでは、そこまで髪を短くしたり、スニーカーをはいたりする女の子はまだ珍しくてね」
 まさか、そんなわけあるはずないでしょ、と美智は思った。たとえ自分の髪が東京にいたころより短くなっているとしてもだ。が、いぶかるそぶりを見せず、笑顔で答えた。
「いえ、気にしていません。ほんと、私が男だったら、とっくにプロポーズしてますね、ハハハ」
 家政婦長がワンガの耳元へ口を寄せ、なにかささやいている。「美智さんは女の子ですよ」と言っているらしい。わかっているのか、いないのか、ワンガは顔をしかめ、口をもぐもぐと動かすばかりだ。
 イシム川のほうから吹いてくる湿った風が、あたりの庭木をさわさわと揺らしていた。やがてワンガはソファの背もたれに寄りかかり、うつらうつらし始めた。家政婦長がひざ掛けを手に取り、老婦人の小さな体にかぶせながら言う。
「まだナースチャとけんかしてるの?」
「けんか……。そうですね、嫌われる理由もわからないから、けんかすらできていないです」
「仲良くしてあげて。私はアスタナに来てからの彼女しか知らないけど、ああ見えてあの子、十代半ばのころは情緒が不安定だったらしくてね。時間をかけてどうにかこうにか立ちなおってきたんだって」
 ──ナースチャが情緒不安定? 立ちなおるって、なにから?
 美智はにわかに関心をかき立てられた。こんな話が聞ける機会はめったにない。
「十代のころって、誰でも悩んだり、不安になったり……。それ、ナースチャのアルマティ時代の話ですよね。あの、できればもうちょっと詳しく──」
「あ、いけない、いけない。またペラペラと。私は人づてに聞いただけだから、これ以上はごめんなさい。ワンガ様ならそのあたりよくご存じかと思うけれど」
 家政婦長は気まずそうに首をすくめ、
「とにかく根は真っすぐでいい子よ。多少気難しいところがあっても、ただ甘やかされて育ったわがままお嬢様ではないでしょ」
 美智は苦笑いを漏らし、あらためて家政婦長を見なおした。
 職業柄か、いつも詰襟の控えめな服装をしている彼女。唯一、左手の中指に、青緑色のトルコ石をはめ込んだ指輪がなまめかしく光っている。サングラスの奥のまなざしはわからない。レンズ下部の色の薄いところを通し、目元の深いしわが透けて見える。
「英語、うまいですね」
 お世辞抜きで美智が言うと、家政婦長はにやりと唇を反らした。
「なのにどうして、こんなところで家政婦なんかやってるのかって?」
「そんなことは……。いえ、正直言うと、興味あります」
「ここはよそよりお給料が高いっていう、それだけの話。一人娘がね、ロンドンに留学しているの。いちおう奨学金はもらってるんだけど、まったく足りない。仕送りがかさむばかり」
「なら、会社勤めのほうが報酬はいいんじゃないですか? 新首都だというので、外資系企業もちらほら集まってきているみたいだし」
「それはカザフ人の場合。私はタタール系だから、この先そんなにいい思いはできない」
「えっ、ザリエマさん、カザフ人じゃなかったの?」
「ふふ、あなたからすれば、見分けがつかないんでしょうけどね。私はカザフ人に囲まれて育ったから、ロシア語だけでなくカザフ語もできる。でも、やっぱり縁故主義が強まってきているのを肌で感じるんだ。稼ぐだけ稼いだら、とっととこの町におさらばして、娘のところへ移るつもり」
 家政婦長のさばさばした態度に美智は感心した。地方からの人口流入が続いている新首都アスタナ。多くのカザフ人にとってそれはめざすべき目的地だが、この人からすれば単なる通過点でしかないわけだ。
 と、そこで、ガラステーブルの上に置かれていた携帯電話が鳴った。家政婦長が電話を取り上げた。ごく自然なしぐさだが、心なしか、その顔にかすかな緊張が走ったようだ。彼女は、ちょっとごめんなさいね、と言って席を外した。
 しばし手持ちぶさたな時間が流れる。また風がそよぎ、うららかな木漏れ日があたりを舞う。ワンガは軽いいびきをたてて眠り込んでいる。
 あずまやを出た家政婦長は、ライラックの植え込みの陰で誰かと通話していた。まるで盗み聞きされるのを恐れるようにこそこそと。咲き乱れる花の下に立つその痩せぎすな姿を、美智はスプリンクラーのしぶき越しにじっと眺めた。

 世界平和宮殿の現場では、鉄骨の組み立てが終わりつつあった。
 高さ六十メートルのピラミッドは、その外形をほぼ完全に現した。空に向かってそびえ立つ赤さび色の骨組み。目を凝らせば、その内部にはさらにもう一つ、相似形のピラミッド状空間が透けて見えた。アトリウムだ。
 ある日、タワークレーンが高さ調整のために作業を中断した際、美智とナースチャはすでに床スラブが組み付け済みの中間階までのぼってみた。
 ピラミッドの各階フロアは、アトリウムの吹き抜けを取り囲む「ロの字」型の平面を持つ。当然のこと、上の階へ行くほど面積は狭くなり、真ん中の正方形の空所も小さくなっていく。今、彼らがいる6層目では、三十三メートル四方のフロアの中央に十一メートル四方の穴が開いている。
 当初の設計では、アトリウムはこのまま上に向かって収束し、正四角錐の内部空間として完結するはずだった。が、施主の変更要求を受け入れた実施案では、この6層目より上でアトリウムは再び開いていき、建物のてっぺんへ吹き抜ける。つまり、ピラミッドの頂部は空っぽの巨大なトップライトとなるわけだ。
 美智は吹きさらしのフロアの隅、ピラミッドの稜線を成す極太の鋼管のそばに立ち、南の地平線を望んだ。地上三十メートル以上、高層住宅なら十階ほどの高さだ。スラブの縁には赤白の縞の警告テープが張り巡らされているだけ。どうしても足がすくむ。しかしそのぶん、コンクリート躯体の上から眺めていた時よりはるか遠くまで見わたせた。
 空を行く雲が大地にまだらな影を落としている。草原の緑はさらに一段と鮮やかさを増している。風に乗って届く、ヨモギのような青々としたにおい。市街から離れたところに、アスタナ国際空港の滑走路が見える。その向こうには大きな湖の水面がのっぺりと広がっている。
 私はたぶん、アスタナという町があまり好きじゃない、と美智は思った。ただ、このステップの眺望にはやはり胸を打たれる。自分の心を占めている悩みや愁い。それらを取るに足りない小さなことと思わせてくれるのだ。
 ゆっくりと後ろを振り返れば、ナースチャがフロアの反対側にたたずみ、吹き抜け越しにこちらを見つめていた。美智がにっこりほほえんでみせると、ナースチャはすぐに顔をそらした。彼女はヘルメットの小さなつばを引っ張り、どこかその辺に視線を落とす。相変わらずだ。
 美智は無言で問いかける。
 ──秘密を抱えているのって大変だよね、ナースチャ。無理してまで私を避けるのは、サンクト・ペテルブルグでのことに触れられたくないから? それとも、まだほかになにか隠さなきゃならないことが?
 その時、不意に強い風が吹きつけるような音がした。急な気圧の変化にも似た、奇妙な感覚だった。美智は建物の外へ向きなおり、驚きに目を見張った。それは鳩だった。鳩の大群がすぐそこに迫り、ピラミッドを取り囲むようにして飛んでいた。何百羽という数だ。
 群れが美智たちのいる6層目をかすめた。大きな羽音とともに、一瞬空が暗く覆われた。ナースチャが腰を落とし、警戒するようにあたりを見まわしている。鳩たちは建物につかず離れず、高さを変えながら旋回を続けた。が、やがてピラミッドの頂部に集まると、赤茶の防錆塗装を施された鉄骨の水平部材にとまった。
 美智はフロア中央に近づき、吹き抜けを介して上層階を見上げた。ピラミッドの上三分の一が鳩に占拠されていた。作業員の一人が空を指さして言う。
「あれに追われてきたんじゃないか」
 目を凝らすと、ピラミッド最頂部のずっと先で二羽の黒い鳥が円を描いていた。雲ひとつない青空の中にいて、距離感がつかめないせいだろうか。それらのシルエットは途方もなく大きく見える。翼の先を手指のように開いて浮かんでいるさまは圧巻で、まさに両腕を広げた死神だ。
「鷹だな」と作業員。
「た、鷹……? あんな大きな鷹なんているの?」
 美智が言い返した時、静かに漂う二つの影のうち、一羽がぐらりと身を傾けた。
 それが合図となったようだ。つかの間おとなしくしていた鳩たちがいっせいに羽ばたいた。彼らはピラミッドの鉄骨フレームの中を、なんと下へ向かって飛んだ。次の瞬間、フロアの中央寄りにいた者はみな、吹き抜けを急降下する鳩の群れに巻き込まれていた。
 滝のような勢いでなだれ落ちてくる灰色の物体。上からだけでなく、横からもその暴風は襲ってくる。美智は両手で頭を覆ってよろめいた。吹き抜けのまわりにも警告テープが張られてはいた。が、コンクリートスラブの継ぎ目に足を取られ、弾みでテープの先へつんのめってしまった。
 奈落へと通じる大穴に体が飛び出した。背中を反り返らせ、美智はやみくもに宙をかいた。伸ばした手の先、恐怖でゆがんだ視界の端に一つの影が映った。それは吹き抜けの角を回り、まっしぐらにこちらへ突っ込んでくる。
 と、強い力で手首をつかまれた。美智の目と、その腕を引っ張るナースチャの目が絡み合った。二人は警告テープを巻き込みながら、スラブの端ぎりぎりのところに倒れた。全身を打ち据えられるような衝撃。テープを支えていた仮設の鉄筋が床から外れ、何本かが音をたてて下へ落ちていった。
 鳩の羽音が遠のいていく。作業員たちが駆け寄ってくる。
「ごめんよ、ナースチャ! だいじょうぶ?」
 美智は身をよじり、ナースチャの上に覆いかぶさって、その体をさすった。ナースチャは仰向けに横たわったまま顔をしかめ、かすれた声でうめいた。幸いにも彼女はこれといったけがはしていないようだ。
 それから美智は腹ばいになり、おそるおそるスラブの縁から下をのぞき込んだ。鳩の群れはすでにアトリウム1階に差しかかっていた。いまだ床スラブがない中央部を抜け、地下階の深い闇の中へと消えていく。
 その光景を目の当たりにして、突然なにかが脳裏にひらめいた。あれだ、ナースチャと一緒に訪れた、東京・表参道での建築展だ。あの小さな展示会で見た、とある墓廟建築の断面図。そこに描かれていたディテールの一つ一つが鮮明によみがえった。
 ドーム頂部の円窓から薄闇に射し込む光、ひらひらと舞い込む鳥のシルエット、そして墓室の床下に埋葬された人体。
 ──そうか、そういうことだったんだ。
 しびれにも似た直感が美智の体じゅうに広がり、ある考えとなって像を結んだ。
 今、自分が建てているのは、国際会議場などではない。世界平和宮殿の真の用途は別にある。つまるところ、この建物は一個人の墓だ。ケネサリー・カシモフを祀るための巨大な霊廟なのだ。

☞ 次回へつづく


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