わたしの銀世界|短編小説)
【作品紹介】
二日間降り続いた雪が止み、主人公は世界で一番大切な場所、雪原の中央にそびえ立つ、一本の大きな木に向かって歩き出した。その木は主人公の心の拠り所であり、生命力に満ち溢れた木のはずだったが、実は少しずつ弱っていて、日に日に傾いていた…。
――なんで雪景色を「銀世界」って言うんだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、白く覆われた世界を見つめていた。雪は二日間にわたり、休むことなく降り続けた。その雪は、畑も、道路も、原っぱも……私たちを隔てるあらゆるものの境界線を消し去り、全てを均一な、静寂の中に包み込んでいた。
私は窓の桟に頬杖をつき、その完璧なまでの白を眺めていた。雪の良いところは、こうやって全てのものを一つにしてくれることかもしれない。昨日までの悩みや、心の中に張り付いていた小さな後悔も、この雪の下に静かに埋もれていくような気がした。でも、こんなにもたくさん降ると、大変なことも増える。外へ出るのは億劫だ。それでも、今日はどうしても行かなくてはならない場所がある。
空には厚い灰色の雲が重く垂れ込めていたが、その一角が奇跡のように割れ、太陽が遠慮がちに、しかし確かな存在感をもって顔を覗かせた。差し込んだ光は雪に反射して、部屋全体を淡く照らし出す。その光の粒子一つ一つが、長く続いた陰鬱な天候の中で、久しぶりに感じる温もりだった。それは、私の中に眠っていた期待を静かに揺り起こす。
意を決して、分厚いコートを着込み、手袋をはめ、私は玄関のドアを開けた。一歩踏み出すと、サクッという、まるで乾いた砂糖を噛み砕くような軽い音とともに、足は膝近くまで柔らかい雪に沈む。冷たい空気が肺の奥まで染み渡り、全身が覚醒する。
――よし、行けそうだ。
この雪に負けてはいられない。
私は白い海原へ躍り出た。目指すのは、遠くに見える雪と空の境界線。あの地平性の向こうに、みんなが待っているはずだ。とにかく真っ直ぐに、ひたすら足を前に出す。
――一歩、また一歩……。
進むたびに、ザク、ザク……という足音が、私の心臓の鼓動と一緒に規則正しいリズムを刻んだ。その音だけが、この広大な静寂の中で、私が確かに今、生きていることを強く実感させてくれる。他の全ての音は雪に吸い込まれ、聞こえるのは自分の内側で響く音だけ。
顔を上げると、風に舞った雪の一粒一粒が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。それは、ダイヤモンドの粉末のように、世界中を満たしていた。その眩しさに、思わず目を細めた。
――そうか。これが銀世界なんだ。
胸の中に、温かいものが込み上げてきた。それは単なる感動ではなかった。この世界のどこにも、濁りや汚れたものが存在しないような、あまりにも完璧な美しさへの畏敬の念だ。真っ白な世界、銀世界、光の世界。色々な呼び方があるけれど、この眩しいほどに輝く世界を「銀世界」と呼ぶのが、やっぱり一番しっくりくる。
私はカメラのシャッターを切るように、何度も瞬きをした。この目に焼き付けよう。私だけの、輝く世界を。
ふと、進行方向の雪の上に残された小さな足跡を見つけた。キタキツネの足跡だ。それは細く、規則的で、まるで雪原に描かれた墨絵のようだ。
その跡を辿ってさらに進むと、今度はその横に、小さな団子のような雪うさぎの足跡が加わっていた。彼らは今朝、私よりもずっと早くこの雪原を駆けていったのだろう。その足跡は私を導く道標のように、一方向へと続いていた。
――みんな、待っててくれるかな。
胸の中の期待が再び膨らむ。雪は思ったより深く、焦っても体力を消耗するだけだ。私ははやる気持ちを抑え、キタキツネと雪うさぎの足跡を辿りながら、ゆっくりと確実に進んだ。彼らが踏み固めてくれたわずかな道が、私の歩みを助けてくれる。
やがてその足跡は、雪原の中央にそびえ立つ、一本の大きな木の根元で止まっていた。この木こそが、私たちみんなの待ち合わせ場所。私たちの世界の中心だ。
太い枝に留まったエゾフクロウが、その大きな琥珀色の瞳で私を見下ろした。
「遅かったね」
エゾフクロウは、静かで古びた声で言った。その声は、雪の静寂を乱すことなく、静かに私の耳に届く。
――これでも、雪を掻き分けて急いで来たんだよ?
心の中で口を尖らせる。冷たい風にさらされた頬がひりひりとした。
「みんなは?」
「さっきまでいたんだけどね。お日様が出て、もう少し待とうかと言っていたけど、待ち切れなくて帰ってしまったよ」
キタキツネと雪うさぎの足跡は、大きな木の根元を起点として、それぞれ左右に分かれて、再び雪原に延びている。
「そっかぁ……」
肩の力が抜ける。もう少し早く家を出れば、みんなに会えたかもしれない。小さな後悔と、取り残されたような寂しさが、胸をよぎる。このために、この雪を頑張って歩いてきたのに。
「疲れただろう? 少し休むといい」
「うん。そうする」
私は大きな木にそっと寄りかかった。雨にも、風にも、二日間の豪雪にも決して負けない、どっしりとした幹。子どもの頃から、この木は私にとって、いつも憧れの、そして心の拠り所だった。この木の幹に触れていると、自分が大地と繋がっているような安心感があった。
いつの間にか空は完全に晴れ渡り、雪の上には、傾いた木が生み出す細い影だけがストンと落ちていた。その影を見て、私はあることに気付いた。
「ねぇねぇ、フクちゃん」
私はエゾフクロウをそう呼んでいる。
「この影、なんかおかしいよ? 枝も幹も、実物よりだいぶ細くなってる」
木の幹は太く、まるで砦のようだ。しかし、雪の上に落ちた影は、驚くほどか細く、頼りない。
「それはね、この木が弱っているからなんだよ」
フクちゃんは、いつもよりもさらに静かに答えた。その声のトーンに、胸騒ぎが走る。
「弱ってるの? 本当に?」
私は木を見上げた。確かに幹は傾いている。長年の風雪に耐え、大地にしっかりと立っているその姿は、むしろ私なんかよりよっぽど生命力に満ち溢れているように思えたのに。
私は震える指先で、幹の表面に触れた。硬い樹皮の下で、何かがかすかに、しかし確実に軋んでいるような気がした。長年触れ合ってきた私にだけ感じ取れる、微かな振動。この瞬間、私の視界が急に滲んだ。フクちゃんの言葉が、重い真実として心に響く。この木の傾きは、風格ではなく、限界だったのだ。
「木が傾いているのも、もう自分で自分の体を支えきれないからなんだよ」
「このまま傾き続けると、どうなっちゃうの?」
私の問いに、エゾフクロウは沈黙した。その沈黙が、一番の答えだった。完璧だった銀世界に、突如として暗い亀裂が入ったような気がした。
「可哀想だけど、春になったら切るしかないね」
「ええ! なんで!?」
私は必死に涙をこらえた。でも、ダメだった。冷たい空気の中で、頬を伝う一筋の涙は、恐ろしく熱い。それはすぐに氷点下の風にさらされ、ひんやりとした感覚に変わったが、私はそれを拭うことができなかった。
この木がなくなったら、私たちはどこで会えばいいんだろう。キタキツネも、雪うさぎも、そして私も、いつもこの木の下で季節の変わり目を分かち合ってきた。みんなの、そして私の、世界で一番大切な場所なのに。この木を失うことは、私たちの世界の中心を失うことだ。
涙で目の前の銀世界が歪む。太陽の光が乱反射し、全てのダイヤモンドの輝きがぼやけて、世界は一瞬にして色のない水彩画のようになった。
「どうしても切らなきゃダメなの?」
しゃくりあげながら、問いかける。
「ああ。切らないと、いずれは根っこまで弱ってしまう。そうなると、もう二度と芽吹くことはできない。でも、根っこさえ無事なら、またきっと大きな木になるよ」
フクちゃんは私を見つめながら、優しく、しかし確固とした真実を告げた。その言葉に、わずかな希望が見えた。
私は服の袖で乱暴に涙を拭った。冷たい涙の跡が、頬にジンとした痛みを残す。
「どのくらいで、また大きくなるの?」
絞り出すような声だった。
「四十年か、五十年か……ずっとずっと未来だね」
――四十年か五十年。
それは、私の想像を遥かに超える、途方もない時間だった。その間、私たちはこの場所で、何もない空間を見つめて待ち続けなければならないのだろうか。今の私が、遠い未来のおばあさんになっているほどの時間だ。
再び、胸の奥から悲しみが込み上げてきた。この木が、この姿でいる間に、私たちは二度と会えないかもしれない。
私は幹に額を押し付け、最後の別れを惜しむように、静かに泣いた。私の涙は、太い幹の表面を濡らし、やがてその樹皮の溝に吸い込まれていく。まるで、この木が私の悲しみを受け止めてくれているかのようだ。
「もう少し、ここにいていい?」
「好きなだけいるといいさ。付き合うよ」
フクちゃんは、優しい声で「ホー、ホー」と歌い出した。それは、失われるものへの鎮魂歌のように聞こえたが、同時に、再び芽吹く生命への子守歌のようでもあった。
傾いた木に体重を預け、私はそっと目を閉じた。四十年先も、五十年先も、この大きな木と、フクちゃんの歌声を忘れないでいられるだろうか。あの時のキタキツネと雪うさぎとの約束を、私は守れるだろうか。
――忘れるわけ、ないよね。
強く自分に言い聞かせる。この涙と、この木の肌触りが、私を未来へ繋ぐ鎖になる。
私は目を開けた。太陽はさらに高くなり、銀世界は再び眩い光に満ちていた。
私はフクちゃんの真似をして、「ホー、ホー」と震える声で歌った。最初はか細かった声が、徐々に強くなっていく。それは、単なる真似ではない。失われるものへの感謝と、未来への誓いを込めた、私自身の歌だった。
私とフクちゃんの歌声は、風に乗って銀世界の隅々まで、いや、遥か先の未来まで、届いているに違いない。そして、私は知っている。この涙は、決して悲しみのためだけのものではない。この木が、これから始まる長い眠りから目覚めるための、祝福の雨なのだ。
――四十年か五十年後の春。
きっとこの場所で、再び小さな芽が生まれる。だから、これはお別れではない。この木は、私たちの記憶と、私の涙という水によって、地中で生き続けるのだ。
未来の再会への、途方もない、しかし確かな約束なんだ。私は立ち上がり、木に深く一礼してから、足跡を一つ残して家路についた。
銀世界は、まだ静かに輝いていた。
(了)
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