見出し画像

運命の修復人|短編小説(#風まかせ文芸部)

 五限目の数学の授業中、教室の窓から差し込む陽光は、これ以上にないほど眩しく、煩わしかった。
 黒板にチョークが走るカツカツという音。教師の単調な声。そして、クラスメイトたちが放つ、無数の音と光。
 僕の視界には、常に彼らの背中から伸びる淡い光の線――運命の糸が映り込んでいる。前の席に座る野球部の田中の糸は太く、エネルギッシュな赤色で脈打っている。窓際の席で居眠りをしている女子生徒の糸は、穏やかなピンク色で安定している。それらは天井に向かって伸び、絡み合いながら、僕には見えない遥か未来へと続いている。
「……相沢。おい、相沢」
 不意に名前を呼ばれ、僕は弾かれたように顔を上げた。視界がくらりと揺れ、鉛のような重力が脳を揺さぶる。
「あ、はい」
「顔色が悪いぞ。保健室に行くか?」
 教師の言葉に、クラス中の視線が集まる。その視線の一つ一つが物理的な圧迫感を持って、僕の肌を刺した。
「いえ、大丈夫です。少し寝不足なだけで」
 僕は嘘をついた。大丈夫なわけがない。はっきり言って今の僕は、生きているだけで精一杯だ。左胸の奥、心臓のすぐ隣にある「命のタンク」とも呼ぶべき場所が、渇いた音を立てているのが分かる。昨晩、近所の交差点で、迷子になっていた子供の霊を「修復」したせいだ。あの子は交通事故に遭い、自分が死んだことに気づかず、家に帰る道を探して泣いていた。
 僕は自分の命の糸を数センチ引き抜き、あの子の切れた時間を強引に繋ぎ直した。あの子は笑顔で光の中に消えていったが、代償として僕は三日も寝込み、白髪が数本増えるという「老い」を受け取った。
 高校二年生。十七歳。
 本来なら部活に打ち込んだり、放課後のファミレスでくだらない話に花を咲かせたりする時期だ。でも、僕の手はいつも冷たく、指先は微かに震えている。鏡に映る自分の顔は、どこか生気を欠き、瞳の奥には老人めいた疲労が沈殿している。
 この力――運命の修復人としての能力が発現したのは、三年前の大病から生還した後だ。生死の境を彷徨った代償に、僕は彼岸と此岸の境界を見る眼を持ってしまった。
 放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、僕は誰とも会話を交わさず教室を出た。
「あいつ、またすぐ帰るのかよ」
「いつも付き合い悪いよね」
 背後で囁かれる声に、弁明する気力はなかった。僕には行かなければならない場所がある。

 街外れの丘の上に立つ、廃墟同然の時計台は、かつては街のシンボルだった。でも、今は立入禁止のロープが張られ、ただ朽ちていくのを待つばかりとなっている。
 錆びついたフェンスの隙間を慣れた動きで通り抜け、僕は螺旋階段を登った。カビと古い油の匂い。一歩踏み出すたびに、肺が破裂しそうになる。
 最上階の機械室。巨大な歯車が沈黙を守るその空間だけが、僕にとって唯一、呼吸ができる場所だった。
「遅いよ! 拓也」
 埃っぽい部屋には似つかわしくない、鈴を転がすような声が響いた。西日が差し込む巨大な文字盤の裏側。鉄骨の上に腰掛け、足をぶらつかせている少女がいる。
 ――本田結衣。
 透き通るような肌、風もないのにふわりと広がる紺色のセーラー服。そして、向こう側の景色が微かに透けて見える身体。
 僕の幼馴染であり、一年前の今日、この世を去った少女だ。
「ごめん。掃除当番を押し付けられてさ」
 僕は息を整えながら、床にカバンを放り出した。
「ふーん。ま、いいけど。ねぇ、見て! 今日はここまで編めたの」
 結衣が得意げに見せたのは、手元で編んでいた「あやとり」のような光の輪だ。もちろん、実体はない。彼女の残留思念が作り出した幻影だ。
「上手だね。昨日は絡まってたのに」
「でしょ? 幽霊だって成長するんだから」
 結衣はケラケラと笑う。その笑顔は、生きていた頃と何も変わらない。だが、僕の目には見えていた。彼女の胸元から伸びる運命の糸。それはほんの数センチで無残に焼き切れている。その断面は黒く焦げ付き、時折チリチリと火花のような痛ましい光を放っていた。
 彼女はあの日――トラックの暴走事故に巻き込まれたあの日から、この時計台に縛り付けられている。自分の死を受け入れられず、かといって未来へ進むことも許されずに。
「ねぇ、拓也」
 不意に、結衣の声のトーンが落ちた。
「ん?」
「私さ、最近ちょっと怖くて」
 結衣はあやとりの糸をふっと消すと、自身の膝を抱えた。
「お母さんの顔は覚えてるんだけどね、お母さんが作ってくれたハンバーグの味が思い出せないの。昨日なんて、飼ってた犬の名前が一瞬出てこなかった」
 彼女は震える声で続ける。
「自分が『本田結衣』だったことは分かる。でも、その中身が砂みたいにサラサラこぼれ落ちていく感覚があるの。……私、このままここにいたら、いつか私じゃなくなっちゃうのかな」
 それはまさに、地縛霊が辿る末路だ。現世に留まり続けた魂は、やがて自我を失い、ただ執着だけが残る「悪霊」へと変貌するか、「虚無」へと霧散する。
 結衣の輪郭が、以前よりも薄くなっていることに僕は気づいていた。彼女に残された時間は、もう僅かしかない。
「そんなことさせないよ。今日は何の日か、分かってるだろ?」
「うん。一周忌、だね……」
「僕の力が一番高まる日でもある。そして、結衣とこの場所の結びつきが、一番強くなる日だ」
 僕は立ち上がり、巨大な歯車の前に立った。
「今日こそ、結衣をあっちへ送る。本来の時間の流れに戻すんだ」
「でも……」
 結衣がふわりと時計台の床に降り立った。
「拓也、私の修復は、あの子犬の時とは違う。もっと、すごく……重いよ?」
 彼女は僕の胸元を指差した。
「拓也のその糸、もうボロボロじゃない? これ以上削ったら、拓也自身が死んじゃうかもしれない……」
 彼女の言う通りだ。他人の運命を繋ぐには、同等の質量の「命」が必要になる。一年前の事故で、複雑に切断された彼女の因果を修復するには、僕の寿命を十年、いや二十年は削ることになるだろう。
 それでも――。
「僕は諦めない。約束しただろ? 夏になったら、一緒に海へ行くって」
「そんな約束、もう守れないじゃん」
「形は変わるかもしれない。でも、結衣がここで消えてなくなるより、ずっといい」
 僕が修復人としての道を選んだのは、正義感なんかじゃない。ただのエゴだ。
 あの日、事故現場で血まみれになった彼女を見た時の絶望。そして、幽霊となって現れた彼女を見た時の、歪んだ安堵。
 僕は彼女を二度殺したくない。ただそれだけだった。

 日が落ち、街に夜の帳が降りる。
 時計台の内部は完全な闇に包まれたが、僕たちの周りだけは、運命の糸が放つ淡い燐光で青白く照らされていた。
 零時五分前。
「準備はいい?」
 僕の声は、情けないほど震えていた。
 ――怖い。
 死ぬほど怖い。命を削る痛みを知っているからこそ、身体が拒絶反応を起こしている。脂汗が額を伝い、心臓が早鐘を打つ。
 結衣は泣きそうな顔で笑った。
「バカ拓也。本当に……バカなんだから」
 彼女は静かに目を閉じた。それは、僕への信頼と別れの、覚悟の証だった。
 僕は大きく息を吸い込み、自分の左胸に右手の指を突き立てた。肉体的な傷ではないけど、霊的な肉体に指が沈み込む感触は、生肉を素手で引き裂くような生々しい不快感を伴う。
「ぐっ、あぁぁ……!」
 激痛が走る。熱した鉄串を心臓に突き刺し、かき回されるような感覚。
 僕は歯を食いしばり、胸の奥にある「光の源」を探り当てた。指先に触れたのは、熱く、脈打つ命の束。それを掴んで引きずり出す。
 ブチブチブチッ……と血管が千切れるような音が脳内に響いた。視界が真っ赤に染まり、膝が崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
 僕の胸から引き出されたのは、眩いばかりの黄金色の光の糸。それは僕の寿命そのものだ。今、この瞬間、僕の細胞は急速に老化し、未来の時間がごっそりと失われていく。髪の色素が抜け、肌のハリが失われる感覚がリアルに襲ってくる。
「拓也、もういい! 十分だよ! それ以上はやめて!」
 結衣が悲鳴を上げた。僕の姿が、あまりにも痛々しかったからだろう。
「まだだ! これじゃ、足りない!」
 僕はさらに深く指を沈め、より太い束を引き抜いた。口の中に鉄錆の味が広がる。鼻から温かいものが滴り落ちる。意識が飛びそうだ。でも、ここで手を離せば、全てが無駄になる。
 僕は震える手で、その光の束を、結衣の胸元で燻る黒い糸の切断面へと近づけた。
 ――カチリ。
 頭上で巨大な歯車が動き、長針が天頂を指した。
 午前零時。境界が消える刻。
「繋がれぇ!」
 僕は最後の力を振り絞り、命の糸を、結衣の運命の糸に繋いだ。次の瞬間、時計台の中心で、超新星が爆発したかのような閃光が炸裂する。バチバチという激しいスパーク音。
 僕の「生」の時間が、結衣の「死」の時間を侵食し、強制的に歯車を回し始める。激しい拒絶反応が暴風となって吹き荒れた。窓ガラスがガタガタと震え、積もっていた埃が舞い上がる。
「ああ……体が、熱い……」
 光の渦の中で、結衣の身体が変質していく。透き通っていた肌に血色が戻り、ぼやけていた輪郭が鮮明になる。彼女を縛り付けていた鎖が砕け散る音が聞こえた。
 僕の意識は限界だった。視界の端から闇が迫ってくる。
 それでも、僕は見た。光の中で微笑む、今までで一番綺麗な結衣の姿を。
 彼女の身体が、天からの引力に引き寄せられるように、ふわりと浮き上がる。
 結衣は僕に向かって手を伸ばした。僕もボロボロの手を伸ばす。指先が触れ合う寸前、彼女の口が動いた。声は聞こえなかったけど、心に直接響いた。

『ありがとう。拓也』
『さよなら』

 その言葉は、温かい雫となって僕の干からびた心に染み渡った。そして、光は一気に収束し、天へと駆け上がっていく。
 後には、静寂だけが残された。
 気がつくと、僕は冷たい床の上で大の字になっていた。
 朝だ。窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。身体を起こそうとするが、鉛のように重い。全身の関節が軋み、胸の奥には大きな空洞ができたような喪失感がある。
 自分の手がシワだらけになっている。喉が渇き、声が出にくい。おそらく、今の僕は二十代後半、いや三十代に見えるかもしれない。一夜にして、十年以上の時間を失った。それが、結衣を救った代償だ。
 ふらつきながら立ち上がり、結衣が座っていた場所を見る。そこにはもう、誰もいない。あやとりの糸も、セーラー服の残像も、彼女の匂いも、何も。
 ――成功したんだ。
「はは……」
 乾いた笑いが漏れた。涙は出なかった。ただ、胸にぽっかりと空いた穴を、朝の冷たい風が通り抜けていく。
 寂しい。死ぬほど寂しい。でも、後悔はなかった。あの笑顔を守れたなら、僕の寿命なんて安いものだ。
 僕はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、結衣と最後に撮った写真が映っている。ピースサインをする彼女と、照れくさそうに笑う僕。親指でそっと画面を撫で、僕は電源を切った。
 時計台を出ると、街はすでに動き始めていた。通勤する人々、通学する生徒たち。彼らの背中には、今日も無数の糸が揺れている。その中には、切れかかった糸や、絡まって苦しんでいる糸もあるだろう。
 ふと、路地裏の影に、うずくまる小さな影が見えた。老婆の霊だ。誰かを待っているように、切れた糸を握りしめている。
 僕は一瞬立ち止まり、深く息を吐いた。身体は悲鳴を上げている。これ以上修復を続ければ、僕の命は三十歳まで持たないかもしれない。
 それでも、見えてしまうから。知ってしまったから。
 糸を繋いだ瞬間の、あの魂が救われる光の美しさを。
「さて、行くか」
 僕は血の味がする唇を噛み締め、よろめく足で一歩を踏み出した。
 背後で、廃墟の時計台が風に吹かれて微かに軋む音がした。それはまるで、僕の行く末を見守る秒針の音のように聞こえた。
 これが、運命の修復人が歩む道。
 僕の命が尽きるその瞬間まで、この糸繋ぎは終わらない。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「運命」です。


こちらもどうぞ。

いいなと思ったら応援しよう!

トガシテツヤ ありがとうございます!(・∀・) 大切に使わせて頂きます!

この記事が参加している募集