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月曜日の路地|掌編小説(#風まかせ文芸部)

 胃の底が冷えるような憂鬱。それが、僕にとっての月曜日の朝の定義するものだ。
 駅のホームは既に黒いスーツの群れで埋め尽くされている。あと数分で到着する鈍色にびいろの車両に寿司詰めになり、一時間揺られる。その想像だけで、喉の奥が酸っぱくなる。

「……逃げたいな」

 無意識に呟いて、自販機の裏に視線を向けた時だ。いつもなら清掃用具入れと壁の隙間なんて気にも留めないのに、今日はそこに妙な奥行きがあることに気づいた。
 幅は人が一人ようやく通れるくらい。壁の向こうは隣のビルのはずなのに、その隙間の奥には、ぼんやりとした青白い光が漏れている。アスファルトではなく、湿った土の匂いがした。

『抜道』

 誰かがチョークで書いたような殴り書きが、横の小さなブロック塀に残されている。
 僕は改札へ向かう足を止め、まるで何かに引っ張られるように、その隙間へと体を滑り込ませた。

 一歩踏み入れた瞬間、駅の喧騒が嘘のように消え失せた。
 ――静寂。
 いや、ただの静けさではない。音という概念が存在しない真空のような場所だ。左右の壁はどこまでも高く伸び、空は見えない。ただ、足元に続く細い一本道を、青白い苔のようなものが照らしているだけだった。

 不思議と恐怖はなかった。むしろ、妙に心地いい。
 僕は歩いた。時間にして五分ほどだっただろうか。あるいは五秒だったかもしれない。時間の感覚が曖昧になっていた。
 不意に、出口の光が見えた。

 眩しさに目を細めながら外に出ると、そこは会社の最寄り駅の裏路地だった。
 時計を見る。家を出てから、まだ十分も経っていない。
 一時間の満員電車地獄を、たった十分の散歩でスキップしてしまったのだ。汗一つかいてないし、疲労も一切ない。

「最高じゃないか」

 それから僕は、毎日その抜道を使った。
 行きも帰りも。
 抜道を通れば、面倒なプロセスを全て省略できる。移動時間、待ち時間、気まずい沈黙の時間。全てをカットして、結果だけを手に入れられる。

 異変に気づいたのは、金曜日の夜だった。
 帰宅してビールを飲もうとした時、指先の感覚が妙に鈍いことに気づいた。コップの水滴の冷たさが分からない。
 鏡を見てみると、顔色は変わらないが、目の奥から光が消えているように感じた。

 その時、ポケットの中でスマホが震えた。見知らぬ番号からのメッセージ。

『ご利用明細:プロセス代として、あなたの感動、ならびに実在感の五パーセントを徴収いたしました』

 背筋が凍った。
 あそこは、ただの近道じゃない。人生の「過程」を切り捨てる場所だ。嫌な時間も、退屈な移動も、無駄だと思っていた時間も、生きていく上では必要な余白だったのだ。それを放棄した分だけ、僕は世界から浮き上がり、希薄になっている。

 ショートカットし続けた先にあるのは、恐らく「死」というゴールへの近道。

 月曜日の朝。
 僕は駅のホームに立っていた。自販機の裏には、相変わらず魅力的な青白い光が漏れている。甘美な誘惑だ。あの道を通れば、今の憂鬱など一瞬で消え去る。

 到着のアナウンスが響き、満員電車が滑り込んでくる。湿った熱気、他人の香水の匂い、苛立ちの波動。

 不快だ。最高に不快で、生々しい。

「……行くか」

 僕はネクタイを締め直し、敢えて人の波に揉まれるために、一歩を踏み出した。
 今日という一日を、一秒たりとも省略せずに味わい尽くすために。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「抜道」です。


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