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夜風の置き手紙|掌編小説(#風まかせ文芸部)

 深夜、世界から人が消え去ってしまったかのように静まり返る住宅街に、私のヒールの靴音だけが響き渡っている。連日の残業で、私の心身はとうに限界を迎えていた。
 角を曲がった時、不意に強い夜風が吹いた。ただの風ではない。見えない手が私の背中を押したり、立ち止まらせようと、コートの裾を引っ張ったりしているような、奇妙な意志を感じる風だった。街路樹の葉がザワザワと擦れ合い、アスファルトに落ちた影が生き物のように蠢く。
 その風の中に、あり得ない匂いが混じっていることに気づいた。
 ――潮の香り……。
 ここは海から何十キロも離れた内陸の街だ。それなのに、微かな磯の匂いが鼻腔をくすぐった。疲労のせいで、感覚がバカになってしまったんだろう。立ち止まり、風の吹いてきた方向へ顔を向けると、見慣れた通勤経路の途中に、昨日までは存在しなかったはずの細い路地がぽっかりと口を開けていた。
 ――入ってはいけない。
 理性が警鐘を鳴らす。しかし、潮の香りを孕んだ夜風が「こちらへおいで」と手招きしているようで、私は吸い寄せられるようにその暗がりへ足を踏み入れた。
 路地は不自然なほど長く、両脇の古いブロック塀がじわじわと迫ってくるようで息苦しい。風が吹き抜けるたび、ヒュウ、ヒュウという音が、誰かの囁き声に聞こえた。全身の産毛が逆立つ。
 ――やっぱり引き返そう。
 そう決意して振り返った瞬間、視界を奪うほどの突風が吹き荒れ、私は思わず目を閉じた。風が止み、恐る恐る目を開けると、そこは路地の行き止まりだった。青白いガス灯のような街灯の下に、古い木製のベンチがぽつんと置かれている。そしてその上に、何かが乗っていた。
 誰かが待ち伏せているのかと警戒しながら近づくと、それは人ではなく、白い陶器のマグカップだった。周囲を見回しても、誰もいない。こんな深夜の、しかも路地裏に、ゆらゆらと湯気を立てる飲み物。カップの下には風で飛ばされないように、一枚の古い便箋が敷かれていた。慎重に便箋を引き抜き、街灯の光に照らすと、そこには数年前に亡くなった祖母の、あの特徴的な丸っこい字で、ただ一言だけ記されていた。

『たまには、肩の力を抜きなさい』

 背後で、再び夜風がサワッと吹いた。不思議と、今度の風はちっとも怖くなかった。驚きや恐怖よりも先に、自分でも気づかないうちに張り詰めていた心の糸が、ふっと音を立てて解けていくのが分かった。 私はベンチに腰を下ろし、マグカップを両手で包み込んだ。一口すすると、懐かしくて甘いホットミルクの味がした。
 気が付くと、私は自分のアパートのドアの前に立っていた。あの路地がどこだったのか、マグカップを一体誰が、どうやって置いたのかは分からない。ただ、両手の中には確かな温もりが、今もじんわりと残っている。
 見上げると、雲一つない夜空に月が浮かんでいた。頬を撫でる夜風は、もう不気味な音を立てることは
「ありがとう……」
 私は小さく呟いて、鍵穴に鍵を差し込んだ。明日も仕事だけれど、今夜はぐっすりと眠れる気がした。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「夜風」です。


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