残り火の伝言|掌編小説
夏が終わりかけの、肌寒い夜だった。僕は祖父が残した山小屋の裏庭で、慣れない焚火を囲んでいた。都会の喧騒から逃れてきたわけではなく、祖父の遺品整理のためだ。祖父は読書が好きで、何千冊という本に囲まれていた。遺されたものの重さに、僕は心底うんざりしていた。
そんな僕の唯一の救いが、この焚火だった。薪を組み、火をつけ、ただぼんやりと炎を見つめる。それが全てを「無」にしてくれる気がした。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが、静寂を切り裂く。僕は燃え残った丸太を火かき棒でつついた。火が崩れ、赤々と燃え盛る中、ふと、炎の色が奇妙なことに気づいた。普段の赤やオレンジだけでなく、縁や青に染まっている。それは蛍石のような、どこか懐かしい光だった。その青い炎が、まるで水面に映る月のように、炎の中に一つの影を映し出した。
最初は光の加減かと何かだと思った。でも、目が慣れるにつれて、それが何か金属質の、手のひらサイズの「物」の形をしていると分かった。それは、祖父が肌身離さず持っていた、古びた懐中時計の形によく似ていた。僕は思わず立ち上がった。祖父の懐中時計は遺品整理の際、最後まで見つからなかった。祖父が懐中時計をどこへやったのか、誰も知らないままだった。
その幻影のような懐中電灯は青い炎の中心で、チクタクという音も立てずに、静かに存在していた。僕は炎に向かって恐る恐る手を伸ばした。
――熱くない。
炎は皮膚を焦がすどころか、ほんのりとした温かさで僕の手を包んだ。
「どういうことだ……」
理性が警鐘を鳴らす。科学的にありえないと。しかし、僕の目は確かに、青い炎の中にある、祖父の懐中時計を見ている。その時計の表面には、いつも祖父が指で触っていた、微かな傷の一つ一つまではっきりと見えた。
時計の影が、徐々に大きくなる。炎全体が、一つの窓のようになった。やがてその窓の中に、映像が展開し始めた。
それは、祖父の書斎だった。本が乱雑に積まれ、夕日が差し込んでいる。祖父はいつもの肘掛け椅子に座っていて、病室の痩せ細った姿とは違い、ピンと背筋を伸ばし、優しい微笑を浮かべている。
祖父はゆっくりと懐中時計を両手に包み込んだ。そして、その時計を胸に抱き、何かを話そうと口を開いた。
僕は叫びそうになった。
――おじいちゃん!
しかし、声は出ない。ただ、炎の爆ぜる音が、まるで遠い昔の囁きのように僕の耳に届く。その音は言葉ではなく、感情だった。
——ありがとう。
——大丈夫だよ。
——お前なら、きっと。
祖父の最後の言葉はいつも曖昧なまま、僕の心に残っていた。病床ではもう言葉を発せなかったからだ。でも今、この青い炎の力を借りて、僕に伝えたかった「何か」が、熱を持たない光として、僕の心に流れ込んでくる。
それは、深い愛情と、僕の未来への静かな期待だった。祖父は後悔などしていなかった。ただ、それを僕に渡す時間が、あと数秒だけ足りなかったのだ。その数秒分の思いが焚火の炎に宿り、僕の前に現れた。
僕はしゃがみ込んで、無意識のうちに涙を流していた。遺品整理で拭いきれなかった心の淀みが、祖父の言葉によって溶かされていくようだった。
幻影の祖父が、そっと目を閉じる。
青い炎が、シュッと音を立てて消えた。残ったのは、再び赤とオレンジの、普通の炎だけ。懐中時計の幻影も、書斎の光景も、跡形もなく消え去った。
僕は火かき棒を置き、しばらく呆然と座っていた。夢だったのだろうか。あまりにも鮮明で、あまりにも優しくて、暖かい夢。
やがて、焚火は静かに燃え尽き、黒い灰と、わずかな残り火だけになった。僕は灰をならし、火が完全に消えたことを確認する。
その時、指先に僅かな硬い感触があった。
灰の中から掘り出したのは、間違いなく、祖父の古びた懐中時計だった。煤を被っているが、形は損なわれていない。そして何より、金属の表面が、今誰かが触ったばかりのように温かい。
僕は震える手で時計を開けた。中には何も書かれていない。しかし、その内側の蓋の隅に、小さく祖父のサインが彫られていた。
僕はそれを胸に抱き、もう一度夜空を見上げた。焚火は終わった。でも、その夜の炎は、僕が何年も心の隅で燃やし続けていた後悔や悲しみを、静かに燃やし尽くしてくれた。
僕は深呼吸をして立ち上がった。祖父の言葉は、もう炎の中にはない。それは、懐中時計の温もりと一緒に、僕の心の中にしっかりと収まっていた。
(了)
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