夕焼けの断片|掌編小説
夕暮れ時、アスファルトの熱が僅かに冷める頃、仕事帰りの人波に逆らいながら、ふいに足を止めた。目の前のビル風が吹き抜ける中、一匹の赤とんぼが、まるでこの世界の理から外れたかのように静止している。
その翅の赤色はあまりにも鮮やかで、都会の喧騒と排気ガスの匂いをすべて吸収して、赤色だけを濃く抽出したみたいだった。
私は知っている。あれはただの赤とんぼじゃない。あれは、失われた一瞬の記憶の欠片だと。
私が高校生だった頃、夏の終わりには毎日、屋上から夕焼けのグラデーションを眺めていた。隣の彼は「よく飽きないね」と笑いながらも、私が「帰ろう」と言い出すまで、決して離れることはしなかった。
「赤とんぼってさ、どこまで飛んでいくんだろうね」
彼が私の手に触れた瞬間、一匹の赤とんぼが私たちの指先のわずかな隙間をすり抜けて、校舎の向こうへ消えていった。彼が指差した先には、もう赤とんぼの姿はなかった。あの一瞬、彼と私の間にあったはずの見えない絆のようなものが、とんぼの翅音に乗って、遠い場所へ行ってしまった気がした。
今、ビルの間で静止している赤とんぼの翅は、あの日の夕焼けの色をそのまま写し取っている。あの頃の温かくて、まだ壊れていなかった時間と一緒に。
――行かないで。
声は出なかった。とんぼは私の指をすり抜け、まるで永遠の約束を破るように、真っ直ぐに、そしてゆっくりと、夕日の残光が消えゆく西の空へと飛び立って行く。
息を止めて手を伸ばすと、周囲の景色がゆるやかに歪み、コンクリートの壁が消え、遠くで錆びついたフェンスが軋む音が聞こえた。そして、その小さな赤い影が完全に空に溶けて見えなくなった時、止まっていた都市の音が一斉に戻ってきた。
残ったのは、手のひらに僅かに感じた、一秒にも満たない過去の感触と、もう二度と戻らない場所と時間を見せられた後の、鈍い痛みだけだった。
記憶は標本のように美しく保存されるけれど、決して生き返ることはない。
来年の夏が終わる頃、私はまたこの交差点で、赤い残像と記憶の欠片を待つだろう。そして、行き場のない絶望と息苦しさに咽ぶのだ。
(了)
こちらもどうぞ。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます!(・∀・)
大切に使わせて頂きます!