バースデー・コネクト|第八話「人生の地図」(田中/五十三歳)
放課後の教室には、夕立のあとの湿った空気と、わずかなチョークの粉の匂いが残っている。
私は教卓の前に立ち、誰もいなくなった教室を眺めていた。黒板には、先ほどまで行われていた古典の授業の跡が白く残っている。
「……春はあけぼの、か」
独り言は、高く冷たい天井に吸い込まれて消えた。
教師になって三十年近くが経とうとしている。かつての教室はもっと騒がしく、もっと泥臭い熱気に溢れていた。生徒とぶつかり合い、涙を流し、放課後まで将来について語り明かしたこともあった。しかし、今の教室はどうだろう。生徒たちはタブレット端末を使いこなし、教師の言葉を効率よくメモし、スマートに、そして静かに授業を「消費」していく。彼らとの間には、決して越えられない透明なアクリル板があるような、そんな感覚が拭えなかった。
私の声は、彼らに届いているのだろうか。自分が語る言葉は、彼らの血肉になっているのだろうか。それとも、自分はただ、テストや入試に必要な情報を淡々と出力するだけの、古びた拡声器に過ぎないのではないのか。
チョークの粉で汚れた手を、ハンカチで丁寧に拭きながら職員室に戻った、その時。
「あの、田中先生、つい先ほど、根本君のお母さまからお電話が……」
富岡先生の、意味なく申し訳なさそうな表情にピンときた。
――クレームか。
根本君は今日、体調不良で欠席している。普通に考えれば、「明日も休む」という連絡だろうが、だったら富岡先生があんな表情をするはずがない。
私は無理やり笑顔をつくり、富岡先生に「分かりました。ありがとうございます」と言うと、電話の受話器を取った。名簿の「根本勝」を確認し、深呼吸をする。
「もしもし? 西中学校の田中――」
「ちょっと先生! どうなってんの!?」
耳をつんざくようなヒステリックな声が、受話器から飛び出す。
「あの、勝君の体調はいかがでしょうか?」
「はぁ? そんなの嘘に決まってるでしょ! 今朝、急に『学校に行きたくない』って言い出したのよ。おかしくない? もしかしてウチの子、いじめられてるんじゃないの? 見て見ぬフリ、してるんじゃないの? どうなの?」
「いえ、決してそのようなことは……」
「話にならないわ。教育委員会に言うんで、そのつもりで」
ガチャリと電話が切られた後も、私は呆然と立ち尽くしていた。周りの先生たちの、「気の毒に」という視線が全身に突き刺さる。これが今の教育現場の現実だ。教師は目の前の生徒だけでなく、その向こうにいる保護者の存在にも気を揉まなければならない。
ふと、今日が自分の誕生日だということを思い出した。とはいっても、待っているのは一人暮らしの静かなアパートと、スーパーで買った値引きの惣菜だけだが。
駅から自宅へと向かう道すがら、何気なくスマートフォンの画面を見ると、数か月前、好奇心とほんの少しの寂しさからインストールしたアプリ「バースデー・コネクト」の通知が灯っていた。
――五十三歳のお誕生日おめでとうございます。
「ああ、分かってるよ」
何かの広告が自動で表示されたんだろうと思い、通知を消そうとした時、「差出人 リン 二十二歳」という文字が目に入り、思わず足を止めた。
――ベトナム人?
画面をスワイプすると、そこに一通の、拙い日本語で綴られたメッセージが届いていた。
☆『田中さん、五十二歳の誕生日おめでとうございます。
私はベトナムから来た実習生です。日本に来て、毎日大変です。寂しいです。でも今日、おじいさんから缶コーヒーをもらって、とても元気になりました。
先生、あなたの声は、きっと誰かに届いています。あなたの生徒さんの中に、私のように「助けて」と思っている人がいるかもしれません。先生という存在は、誰かの人生の地図になる、とても素晴らしい仕事だと私は思います。自分を信じてください。あなたは、誰かにとって大切な人です。
遠い場所から、あなたの幸せを祈っています』
私は何度もそのメッセージを読み返した。
――人生の地図。
その言葉が私の胸の奥で、古びた鐘が鳴るように響いた。自分よりもはるかに過酷な環境で、見知らぬ異国の地で必死に生きている若い女性が、自分の仕事を「素晴らしい」と言ってくれている。
自分の声が届かないと嘆いていたのは、生徒たちのせいではなく、自分自身が彼らを信じることをやめていたからではないだろうか。
その時、ふと一枚の古いハガキが脳裏をよぎった。職員室の自分の机の引き出し、一番奥に眠っている、もう十年も前の教え子からのハガキだ。
翌朝、私はいつもより一時間早く学校へ向かった。職員室の鍵を開け、自分のデスクに座る。引き出しの奥から色あせたハガキを取り出した。そこには、殴り書きのような文字でこうあった。
『田中先生、元気ですか?
あの時、先生が黒板に書いた「泥中の蓮」という言葉、今になって少しだけ分かってきた気がします。
仕事はきついし、泥をかぶるような毎日だけど、それでも綺麗に咲いてやろうと思います。
先生、あの言葉を教えてくれてありがとう。
――前原誠也』
「誠也……」
クラスのムードメーカーだったが、家庭環境に恵まれず、いつも尖った視線で大人を拒絶していた少年だ。彼が卒業する間際、私が黒板の隅に書いた言葉だった。その時は見向きもされなかったと思っていたその一言が、十年の時を経て、一人の男の支えになっていた。
リンさんの言った通りだ。教師の言葉は、その場では届かないかもしれない。砂に水を撒くような、虚しい作業に見えるかもしれない。だが、その水は地層を通り、いつか、どこかで、誰かの「地図」の道標となるのだ。
私は立ち上がり、黒板消しを手に取った。そして、まだ誰もいない一年三組の教室へ向かった。
一時間目の授業が始まった。生徒たちはいつものように、無表情でノートを広げている。
私は教卓の前に立ち、一人一人の顔をじっと見つめた。リンさんが言った「助けて」と思っている生徒が、この中にいるかもしれない。海斗のように、いつかこの言葉を必要とする生徒が、この中にいるかもしれない。
私はチョークを手に取り、黒板に大きく一言を書いた。
「今日は教科書を開く前に、少しだけ『言葉の力』について話をしたい」
生徒たちはタブレットを操作する手を止めて、驚いたように顔を上げた。私は昨日メッセージを受け取った、リンさんという女性の話をした。見知らぬ若者から届いた「おめでとう」の言葉が、いかに一人の老いた教師を救ったか。
「言葉はただの記号ではない。それは誰かの心を温める灯になり、暗闇を歩くための地図になる。私が今日語る古文も、千年前の誰かが、未来の誰かに届けようとした『心の地図』なんだ」
教室の空気が変わった。アクリル板が割れるような、パリンという音が聞こえた気がした。居眠りをしていた生徒が姿勢を正し、スマホをいじろうとしていた生徒が、じっと私の目を見た。
その日の授業は、三十年の教師生活の中でも最高のものとなった。放課後、一人の女子生徒が私のもとへやってきた。
「先生……今日の話、すごく良かったです。私、最近自分が何のために勉強しているのか分からなくなってたけど……私も誰かの地図になれるように頑張ろうって思えました」
彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
私は彼女に優しく微笑んだ。
「ありがとう。君のその言葉が、また私の地図になったよ」
夕暮れの職員室。私はスマートフォンの「バースデー・コネクト」の画面を見つめた。リンさんへの感謝の気持ちを、丁寧に言葉にする。
> 『リンさんへ。
> 誕生日のメッセージ、ありがとうございました。
> あなたの温かい言葉に、心から救われました。
> 今日、私は教え子たちに「本当の言葉」を届けることができました。
> 五十三歳の誕生日は、私にとって、もう一度教師として生まれた記念日になりました。
> 実習生としての毎日は大変でしょうが、あなたの優しさは、必ず誰かの光になっています。
> 自分を信じて。あなたの未来が、温かなもので満たされることを祈っています』
送信ボタンを押し、私は大きく伸びをした。窓の外には、紫色の夕焼けが広がっている。
次に、私は今日の誕生日のリストをスクロールした。自分の心に灯ったこの火を、また次の誰かへ。
目に留まったのは、「華」という名前だった。三十一歳。
心境欄には、こうあった。
『誰かの幸せを祝う花を包む毎日。でも、私の人生には誰も花を捧げてくれない。私はいつも、誰かの幸せの背景でしかない』
花屋の店員だろうか。私は彼女の言葉に、かつての自分を重ねた。
私は、チョークで汚れ、節くれだった自分の手を見つめ、静かに文字をタップする。
☆華さんへ贈るメッセージ
『華さん、三十一歳のお誕生日おめでとうございます。
花を包む仕事。それは、世界に喜びを届ける素晴らしい仕事ですね。
自分を「背景」だと言いましたね。でも、どうか思い出してください。美しい花束が主役になれるのは、それを束ねるあなたの手があるからです。
脇役がいるから、世界は美しい。舞台の照明が当たらなくても、あなたの手から生まれた花束が、誰かの仲直りや、誰かの愛の告白を支えている。その「誇り」は、何ものにも代えがたいものです。
あなたは背景ではありません。誰かの人生という物語を完成させるために欠かせない、大切な登場人物です。
今日は誰のためでもなく、あなた自身のために、一番美しい花を飾ってください。その花は、世界で一番、あなたに似合っているはずです』
――送信。
私は鞄を手に取り、職員室を出た。カツ、カツ……と響く足音。廊下の窓から見える月は、驚くほど澄んでいた。
黒板に書いたチョークの跡は、いつか消えてしまう。だが、誰かの心に刻まれた「誇り」は、決して消えることはない。
帰り道、私はふと思い立ち、いつもは通り過ぎる駅前の花屋に足を向けた。
(第八話 完)
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