バースデー・コネクト|第七話「国境のない贈り物」(リン/二十二歳)
コンベアが流れる規則的な音が、耳の奥にこびりついて離れない。
私の仕事は工場の中で、プラスチックの小さな部品を決まった位置にカチリとはめ込むことだ。右から流れてくる部品を取り、左へ流す。その間、わずか三秒。その三秒の繰り返しが、私の日本での一日だ。
「リンさん。手元、止まってるよ」
班長の鋭い声に、私は弾かれたように顔を上げた。
「はい、すみません」
短く謝り、視線をコンベアに戻す。マスクの中に、自分の吐く息がこもる。防塵帽から漏れ出た髪が、汗で額に張り付いて痒いけど、それを掻く暇さえない。
私の名前はグエン・ティ・リン。二十二歳。ベトナム北部の小さな村から技能実習生として日本に来て、一年が過ぎた。日本に来る前、ハノイの送り出し機関で半年間、必死に日本語を勉強した。でも、実際に働き始めると、職場で飛び交う言葉は教科書とは全く違っていた。
「それ、そこ置いといて」
「ちょっと待ってて」
「五分前行動を心がけて」
短く、速い日本語の洪水。そして、私に向けられる「実習生」という一括りの視線。ここでの私は名前を持った一人の女性というより、工場の機械の部品の一つだった。
仕事を終えて工場の寮に戻ると、部屋の中はしんと静かで冷え切っていた。三畳ひと間の小さな空間。窓の外には見慣れない日本の住宅街が広がっている。
今日は私の二十二歳の誕生日だった。ベトナムにいた頃なら、家族が集まって母さんが得意のブンチャー(米粉麺の料理)を作ってくれただろう。妹たちが賑やかに笑い、近所の人たちも顔を出して、家の中は温かい食べ物の匂いと笑い声で満たされていたはずだ。
私はコンビニで買ったカップラーメンにお湯を注いだ。スマートフォンの画面を開き、家族にビデオ通話をかける。
「おめでとう、リン! 元気か? ちゃんと食べてるか?」
画面の向こうで父さんが大きな声を出した。背景には懐かしい我が家の居間が見える。
「うん、元気だよ。今日はお肉食べたよ」
カップラーメンを画面に映さないようにしながら嘘をついた。
「リン、無理しないでね。辛かったらいつでも帰っておいで」
母さんの優しい声。その響きに、喉の奥が熱くなった。
「大丈夫。全然寂しくないよ。日本は綺麗だし、みんな優しいから」
これ以上の嘘をつくと、声が震えてしまいそうだった。
「仕事、忙しいから、もう切るね。バイバイ」
通話を切った瞬間、部屋の静寂がさっきよりも重くのしかかってきた。誰にも見られていないのに、私は顔を覆ってしゃがみ込んだ。寂しい。帰りたい。お母さんに会いたい。日本語の勉強なんて、もう嫌だ。誰とも話したくない。
暗い部屋の中で、私は自分の存在が透明になって、そのまま消えてしまうような恐怖を感じていた。
ふと、枕元でスマートフォンが震えた。画面を見ると、一か月前に同じ実習生の友人から「日本語の勉強になるよ」と教えられて登録したアプリ、「バースデー・コネクト」からの通知だった。
――お誕生日おめでとうございます。
私は震える指でメッセージを開いた。そこには、一通のメッセージが届いていた。差出人は「健斗」。
☆『リンさん、二十二歳の誕生日おめでとう。一人は怖いよね。寂しいよね。でも、大丈夫。あなたは一人じゃありません。言葉は違っても、あなたの頑張りは、きっと誰かが見ています。
僕は今日、自分の夢に一つの区切りをつけました。悲しいけれど、どこか清々しい気持ちです。それは、見知らぬ誰かが僕を祝ってくれたから。だから今度は、僕があなたを祝います。音楽に言葉はいらないように、この「おめでとう」に嘘はありません。遠い空の下から、あなたの幸せを祈って、一曲の歌を送るつもりでこのメッセージを書いています。
自分を信じて。あなたは、とても強い人です』
私はそのメッセージを何度も何度も、翻訳アプリを使いながら読み返した。
「音楽に言葉はいらない」
「あなたは、とても強い人です」
その言葉が、私の心の一番柔らかい場所に触れた。日本に来てから「頑張れ」とか「もっと早く」とは言われてきたけれど、「あなたは強い」と言われたのは初めてだった。私の孤独を知っている人が、この広い日本のどこかにいる。私の誰にも届かないと思っていた叫びを、歌を送るつもりで聞いてくれた人がいる。
私は、スマートフォンの画面を胸に抱きしめた。冷え切った部屋の空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
翌朝。私はいつもより少しだけ早く寮を出た。工場の敷地の隅には小さな公園のようなスペースがあり、そこには、一人の老人がいつもベンチに座って朝の散歩の休憩をしていた。
私は今まで、そのおじいさんと目を合わせるのが怖かった。言葉が通じなかったらどうしよう。冷たい目で見られたらどうしよう。そう思って、いつも俯いて通り過ぎていた。でも、今朝の私は違った。健斗さんの言葉が、私の背中をそっと押していた。
「言葉は違っても、あなたの頑張りはきっと誰かが見ています」
私はベンチの前を通る時、勇気を出して足を止めた。そして、覚えたての、一番丁寧な日本語で言った。
「……おはようございます」
おじいさんは驚いたように顔を上げた。白髪の混じった眉が微かに動き、深いシワの刻まれた顔がこちらを向いた。
「おう。おはよう、お姉ちゃん」
返ってきたのは、低くて、でも温かい声だった。
「今日も仕事か。大変だなぁ、実習生さんは」
「はい。がんばります」
私はそれ以上言葉が続かなくて、ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとした。その時――。
「ちょっと待って、お姉ちゃん」
おじいさんが立ち上がり、自分のカバンの中から何かを取り出した。
「これ、あげるよ。さっきそこで買ったんだが、余っちゃってな」
差し出されたのは、温かい缶コーヒーだった。
「あ……ありがとうございます」
私は両手でその缶を受け取った。掌から伝わってくる熱が、体の芯まで染み渡るようだった。
「あんた、いい声してるな。ベトナムの子か?」
「はい。ベトナムです」
「そうか。遠いところから、偉いな。まぁ、あんまり根を詰めなさんなよ」
おじいさんはそう言って私の肩をポンと叩くと、ゆっくりと歩いていった。私はその背中が見えなくなるまで、何度も頭を下げた。
甘く、温かい缶コーヒーは、今の私にはどんな高級なプレゼントも嬉しい贈り物に感じられた。国境を越え、言葉の壁を越えて届いた、同じ「人」としての優しさに、私は胸が一杯になった。。
その日の工場の仕事は、いつもより少しだけ楽しく感じられた。コンベアの音が、不思議とリズムを刻んでいるように聞こえる。
私は健斗さんの言っていた「音楽」を思い出していた。作業をしながら、心の中でベトナムの歌を口ずさむ。故郷の村の夕暮れの風景を思い出す。風に揺れる稲穂、水牛の鳴き声、そして、家族の笑顔。その旋律は、私の心の中に強い力を与えてくれた。
「リンさん、今日は動きがいいね」
班長が通りすがりにそう言った。私はマスク越しでも分かるような笑顔で頷いた。私はもう「透明な歯車」じゃない。私はここで生きている。誰かと繋がって、誰かに見守られて。
夜、私は寮の自室でスマートフォンを開いた。健斗さんへの返信を書くために。
『健斗さん。メッセージ、本当にありがとうございました。
私は今日、日本のおじいさんから温かいコーヒーをもらいました。「お姉ちゃん、偉いな」と言ってもらいました。とても嬉しかったです。涙が出ました。あなたの言った通り、音楽に言葉はいりません。優しさにも、言葉はいりませんね。
私はこれからも日本で頑張ります。あなたの新しい始まりも、素晴らしいものになりますように。
あなたの歌が、いつか世界中に届くことを、日本の空の下で祈っています』
送信ボタンを押すと、私の心は晴れやかな解放感に包まれた。次に「バースデー・コネクト」のリストを眺める。リストの中に、一人の男性の名前を見つけた。
「田中」。五十二歳。心境欄には、疲れ果てたような文字でこう書かれていた。
『今日も教室で、自分の声が誰にも届いていない気がした。私はもう必要ない存在なのかもしれない。もう教師を続けていく自信がない』
学校の先生だろうか。毎日たくさんの人に囲まれているのに、それでも孤独を感じている。その気持ちが少しだけ分かる気がした。
私は拙い日本語で、でも心を込めてメッセージを打つ。
☆田中さんへ贈るメッセージ
『田中さん、五十二歳の誕生日おめでとうございます。
私はベトナムから来た実習生です。日本に来て、毎日大変です。寂しいです。でも今日、おじいさんから缶コーヒーをもらって、とても元気になりました。
先生、あなたの声は、きっと誰かに届いています。あなたの生徒さんの中に、私のように「助けて」と思っている人がいるかもしれません。先生という存在は、誰かの人生の地図になる、とても素晴らしい仕事だと私は思います。自分を信じてください。あなたは、誰かにとって大切な人です。
遠い場所から、あなたの幸せを祈っています』
――送信。
窓の外を見ると、満月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。この月は、ベトナムで見ている月と同じだ。そして、今メッセージを送った田中さんの空にも、きっと同じ月が浮かんでいる。私たちは、繋がっている。国境も、年齢も、言葉も越えて。「バースデー・コネクト」という名の、目に見えない優しい糸で。
私は穏やかな眠りに就いた。明日もまた、私の「三秒の繰り返し」が始まる。でも、それはもう、ただの繰り返しではない。新しい自分を刻んでいくための、大切なリズムなのだ。
(第七話 完)
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