バースデー・コネクト|第六話「ラストステージ」(健斗/二十九歳)
――二十九歳。
それは、夢という名の麻薬から覚めるには、少しだけ遅すぎる年齢だった。
朝、六畳一間のアパートのカーテンを引くと、埃の舞う光の中に、無造作に積み上げられた段ボール箱が浮き彫りになった。ギターのハードケース、使い古されたエフェクターボード、そして、数えきれないほどの楽譜の山。それら全てが、俺の故郷である地方都市へと送られる。
俺は部屋の中央に置かれたアコースティックギターを手に取り、ポロンと弦を弾いた。チューニングが狂っている。昨夜、最後の練習を終えた後、俺はもう二度とこの弦のチューニングを合わせることはないだろうと思っていたからだ。
「健斗、そろそろ現実を見ろ」
半年前、実家の父から言われた言葉が、耳の奥で鈍い痛みを持って蘇る。大学を卒業して上京し、音楽で飯を食うと誓って七年。俺の手元に残ったのは、いくつかの不採用通知と、バイトで繋いできたスカスカの銀行口座、そして、誰も見向きもしなくなった動画サイトの再生数だけだった。
今日は、俺の二十九歳の誕生日であり、下北沢の小さなライブハウスで、「健斗」としてステージに立つ、最後の日だ。
正午過ぎ。俺は最後の荷物を発送し、ギター一本だけを抱えてアパートを出た。鍵を管理人に返し、最寄り駅へと歩く。何度も通ったはずの商店街の景色が、今日は妙に遠く感じられた。
ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、登録したことさえ後悔し始めていたアプリ「バースデー・コネクト」からの通知だった。
『お誕生日おめでとうございます』
その言葉が、今の俺にはどうしようもなく残酷に響く。「おめでとう」なんて言われても、今日で俺の夢は死ぬのだ。とてもお祝いされる気分ではない。無視しようと思ったが、なぜか指が勝手に画面をスワイプしていた。
差出人は「玲子」。四十五歳の女性。
☆『健斗さん、二十九歳の誕生日おめでとう。
死ぬほど苦しい時、あなたはまだ歌おうとしている。それは、あなたの魂がまだ、生きようとしている証拠です。
あなたの歌は、まだ誰にも届いていないかもしれない。でも、今日、少なくとも私という一人の人間に、あなたの言葉は届きました。
あなたの魂の叫びを、どこかで誰かが、きっと待っています。
今夜の歌を、どうか、あなた自身のために全力で歌い切ってください。
あなたは、決して無価値な存在じゃない』
「魂の叫び……か」
俺は駅のホームのベンチに座り込み、そのメッセージを何度も読み返した。玲子という人が、どんな人生を送っているのかは知らない。だが、その言葉には上辺だけの励ましではない、血の通った重みがあった。
彼女は、俺が今夜ライブをすることを知っているわけではないはずだ。ただ、俺がプロフィールに書いた「今夜、全てを終わらせます」という絶望の断片を拾い上げ、真っ向から肯定してくれたのだ。
――無価値な存在じゃない。
俺は目を閉じた。七年間、誰かにそう言ってほしくて、歌ってきたのかもしれない。曲を書いてきたのかもしれない。
誰の耳にも届かない、暗闇に向かって叫び続けてきた俺の声。それを「届いた」と言ってくれた人がここにいる。
俺は立ち上がり、ギターケースを握り直した。湿っていた掌に、熱が戻ってくる。
――最後だ。
だったら、綺麗に終わろうなんて考えるのはやめよう。彼女が言う通り、自分自身のために、この七年間の全てを叩きつけてやろう。
下北沢の地下にあるライブハウス『Sound Abyss』。名前の通り、奈落の底にあるような薄暗い空間だ。壁には無数のステッカーが貼られ、煙草と湿ったビールの匂いが染み付いている。
俺の出番はトリの二十一時。客席には対バンの仲間数人と、通りすがりの客が数人。全部で十人にも満たない。これが七年間の集大成だ。
「健斗、次だ。準備はいいか?」
店長の声に頷き、俺はステージの袖に立った。心臓が耳元でうるさいほど鼓動を刻んでいる。
ステージに上がり、スツールに座る。一本のスポットライトが俺を射抜き、周囲を深い闇に変えた。俺はマイクの前に立ち、ギターを抱えた。
「こんばんは。健斗です」
声が震えないよう、深く息を吸う。
「今日は僕の誕生日です。そして、僕がこうして人前で歌う、最後の日でもあります。今まで、誰かに届く歌を書きたいと思ってきました。でも、今日は一人の女性がくれた言葉に応えるために歌います。僕自身のために。そして、僕の魂を待っていてくれた人のために」
俺は右手を振り抜いた。最初のコードは、濁りのないEメジャー。ギターの弦が、俺の指先の熱をそのまま音に変えて空気を震わせる。
一曲目は上京して最初に書いた曲。二曲目は挫折して眠れなかった夜に書いたバラード。
歌っているうちに、俺は自分がどこにいるのか分からなくなった。目の前の疎らな客席も、下北沢の地下室も消え、ただ音の世界だけが広がっていた。
玲子さんの言葉が、メロディの裏側で鳴り続けている。
――あなたの魂の叫びを、誰かが待っている。
叫んだ。声が枯れても、喉の奥から血の味がしても、俺は歌い続けた。
最後の一曲。タイトルは「ラストコード」。昨日、アパートの荷造りを終えた後に、衝動的に書き上げた曲だ。歌詞なんてないに等しい。ただ頭に浮かんだ言葉を並べただけだ。二十九年間生きてきた自分への怒りと悲しみ、そして微かな愛おしさを、ありったけ詰め込んだ。
最後の一節を歌い終え、ギターの残響がゆっくりと闇に溶けていく。
――静寂。
数秒の沈黙の後、パラパラと、しかし力強い拍手が聞こえてきた。ふと見ると、一番後ろの席で、一人の女性が涙を拭っているのが見えた。彼女は俺の歌が終わると同時に立ち上がり、深く頭を下げて店を出て行った。
俺はステージの上で呆然としていた。届いたんだ。たった一人かもしれない。でも、俺の叫びは、確かに誰かの心を揺さぶった。
ライブが終わり、楽器を片付けていると、店長がやってきた。
「健斗。今日のライブ、今までで一番良かったぞ。本当に辞めるのか?」
俺はギターをケースに収めながら、少しだけ笑った。
「はい。一旦、田舎に帰ります。でも――」
俺は自分の胸の辺りをそっと押さえた。
「歌うことは辞めないかもしれません。ステージじゃなくても、誰にも見られなくても。俺には歌が必要なんだって、今日やっと分かりました」
店を出ると、冷たい夜風が火照った顔に心地よかった。
日付が変わり、俺は三十歳へのカウントダウンを始めた。深夜の駅のホームでスマートフォンを取り出し、玲子さんへの返信を書く。
『玲子さん。歌い切りました。あなたのおかげで、最高の「最後」にすることができました。いえ、最後ではなく、新しい始まりかもしれません。
とりあえず、プロのミュージシャンになる夢は、一旦ここで区切りをつけます。でも、今日届いた拍手の音とあなたの言葉を、僕は一生忘れません。僕は僕という人間のままで、また新しい歌を探してみようと思います。本当に本当に、ありがとうございました』
送信ボタンを押すと、画面がふわりと光った。
今日の「バースデー・コネクト」のリストを眺める。玲子さんが俺に光をくれたように、この温かな熱を誰かに手渡したい。
リストの中に、一人の女性の名前を見つけた。
「リン」。二十二歳。心境欄には、悲痛なメッセージが書いてあった。
『日本に来て一年。言葉も分からない、友達もいない。一人の誕生日は、とても怖いです。お母さんに会いたい』
俺は彼女の孤独を想像した。海を越え、異国の地で一人、冷たい部屋で誕生日を迎えている。俺はギターを傍らに置き、スマホの画面を叩く。言葉の壁を越えて、メロディが届くように。
『リンさん、二十二歳の誕生日おめでとう。一人は怖いよね。寂しいよね。でも、大丈夫。あなたは一人じゃありません。言葉は違っても、あなたの頑張りは、きっと誰かが見ています。
僕は今日、自分の夢に一つの区切りをつけました。悲しいけれど、どこか清々しい気持ちです。それは、見知らぬ誰かが僕を祝ってくれたから。だから今度は、僕があなたを祝います。音楽に言葉はいらないように、この「おめでとう」に嘘はありません。遠い空の下から、あなたの幸せを祈って、一曲の歌を送るつもりでこのメッセージを書いています。
自分を信じて。あなたは、とても強い人です』
――送信。
夜空には、満天の星が輝いていた。下北沢の街明かりに消されそうな、小さな光。でも、その光は確かに存在している。
俺はギターを背負い、始発の電車に乗った。窓の外に流れる景色は、新しい一日の始まりを告げていた。
俺の歌は、まだ終わらない。コードはまだ、鳴り響いている。
(第六話 完)
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