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バースデー・コネクト|第五話「鉄の女」(玲子/四十五歳)

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 ――カツ、カツ、カツ。
 大理石の床に響くヒールの音は、自分でも惚れ惚れするほど冷徹で、正確なリズムを刻んでいる。
 午後八時のオフィス。退勤を急ぐ社員たちの視線が私の背中に突き刺さるのを感じる。彼らの目には、私はどう映っているのだろうか。非の打ち所のないスーツに身を包み、常に完璧な数字を叩き出し、部下のミスには一分の隙もなく論理的な鉄槌を下す。
 ――鉄の女。
 それが、この大手広告代理店で私が勝ち取った称号だ。四十五歳、会社創設以来、初の女性管理職。この椅子に座るために、私はどれだけのものを削ぎ落としてきただろう。
 部長室に入り、重厚な革張りの椅子に深く腰を下ろす。窓の外には、東京の夜景が広がっている。美しくて妖しい、そして、どこまでも冷ややかな光の群れ。この光の一つ一つに誰かの生活があり、誰かの欲望がある。私はその欲望を煽り、形にし、消費という名の波に乗せる仕事を二十年以上続けてきた。
 ふと、デスクの隅に置かれたデジタルカレンダーに目をやる。
 今日は私の四十五回目の誕生日だ。一か月前から、自分へのご褒美として銀座の超一流フレンチを予約していた。一人で誰にも邪魔されず、最高のワインと料理を堪能する。それが私の数少ない「自分を愛するための儀式」のはずだった。だが、手元のスマートフォンには、ついさっき届いた一通のメールが表示されている。

『海外クライアントとの急ぎの調整が入りました。至急、修正案のチェックをお願いします』

 私は迷うことなく、レストランにキャンセルの電話を入れた。
「急用が入りました。申し訳ありませんが、キャンセルで」
 受話器を置く私の声は、まるで他人の事務連絡のように無機質だった。虚しさ―― いや、そんな感情はとうの昔に殺した。仕事が恋人であり、数字が家族。責任こそが私の生存証明。
 そう自分に言い聞かせながら、私は再びノートPCの画面に向き合った。ブルーライトが私の乾いた瞳を無慈悲に照らし出す。
 結局、オフィスを出たのは日付が変わる直前だった。タクシーの窓から流れる景色は深夜の静寂に沈んでいる。
 港区にあるタワーマンション。その最上階に近い私の部屋はモデルルームのように整然としていて、生活感という名のノイズを一切排除している。
 ヒールを脱ぎ捨て、ストッキングを脱ぐ。足首には、一日中自分を支え続けたヒールの跡が赤く痛々しく残っていた。
「ふぅ……」
 喉を潤すために冷蔵庫を開けたが、中には炭酸水と数本のシャンパン、そして期限の切れたドレッシングがあるだけだ。
 暗いリビングのソファに倒れ込む。私は自分が何を求めているのか分からなくなった。
 地位か、名誉か、それとも、ただの休息か。
 ふと、テーブルの上に置いたスマートフォンが短く震えた。仕事のトラブルかと身構えたが、画面に表示されたのは半年前に酒の勢いでインストールしたきり忘れていたアプリ、「バースデー・コネクト」のアイコンだった。

『お誕生日おめでとうございます』

 その文字列を見た瞬間、不覚にも心臓が小さく跳ねた。画面を開くと、見知らぬ誰かからのメッセージが届いていた。
 差出人は「志穂」。

☆『玲子さん、お誕生日おめでとうございます。
毎日、本当にお疲れ様です。
あなたは戦っているんですね。誰にも見えない場所で、ずっと。でも、どうか忘れないでください。
あなたが今日まで繋いできた仕事が誰かの生活を支え、誰かの喜びを作っています。
完璧でなくてもいい。今日は自分を一番に甘やかしてあげてください。
コンビニの小さなスイーツでもいいんです。それを一口食べる瞬間、あなたが自分を愛せますように。
あなたは、決して一人じゃありません』

「甘やかす? はは……」
 乾いた笑いが漏れた。そして、二十年前の同僚の陰口が脳内に響き渡る。
 ――どん亀ちゃん。
 仕事ができなくて鈍臭い私に付けられた、笑えないあだ名だ。普通ならショックを受けて会社に行けなくなるだろうが、私は違った。どん亀ちゃんというキーワードが、私の中の何かのスイッチを「ON」にしたのだ。
 それ以来、私は他の社員の十倍努力し、百倍仕事をこなした。その結果、同期入社の誰よりも早く出世し、私に「どん亀ちゃん」とあだ名を付けた連中は私とすれ違う時、立ち止まってお辞儀をするようになった。そんな私に、「自分を甘やかせ」だと?
 部下からは完璧を求められ、上司からは成果を搾り取られ、親戚からは「いい加減、一人で生きる覚悟は決まったのか?」と暗に皮肉られる。
 私は自分自身を甘やかす方法なんて、とうの昔に忘れてしまった。自分を甘やかす暇なんて一秒もないほど、仕事に没頭してきた。だが、志穂という名の見知らぬ誰かが書いた「戦っているんですね」という一言が、私の心の最も深い場所にある、分厚い氷の壁に小さなヒビを入れた。
 ――誰にも見えない場所で、ずっと。
 そう、私は戦ってきた。
「女性だから」という偏見を跳ね除けるために。「管理職失格」というレッテルを貼られないために。「どん亀ちゃん」というふざけたあだ名を付けた連中を見返すために。
 甘えることは敗北を意味し、弱音を吐くことは死を意味すると、自分に言い聞かせながら。
 私はコートを掴み、再び部屋を出た。マンションの近くにある、二十四時間営業のコンビニエンスストア。深夜の店内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 私は高級なスーツにコートを羽織ったまま、スイーツの棚の前に立った。普段なら見向きもしない、プラスチックの容器に入った安価なケーキ。
「プレミアム・ロールケーキ」
 私はそれを一つ手に取り、レジに向かった。レジで商品をバーコードに通しているのは、眠そうな顔をした若い男性店員だ。かつての私なら、「もう少しシャキッとしなさい!」と心の中で毒づいていたかもしれないが、今の私は志穂さんの言葉を思い出していた。
『コンビニの小さなスイーツでもいいんです』
 店を出ると、冷たい夜風が頬を打つ。私はマンションの前の公園のベンチに座った。プラスチックの蓋を開けると、甘い香りがふわりと漂う。付属のスプーンで真ん中のクリームを掬い取り、口に運ぶ。
「……あまい」
 暴力的なまでの甘さが私の味覚を刺激し、脳に直接訴えかけてくる。一流レストランの、計算され尽くした繊細な味とは違う。ただひたすらに、優しく、安っぽい、でも確かな甘さ。
 その瞬間、私は自分がどれほど「飢えていた」かを自覚した。
 地位でもなく、賞賛でもなく、ただ誰かに「お疲れ様」と言ってもらい、自分を労う。そんな当たり前のことに。
 一滴、熱いものが頬を伝った。一度流れ出した涙は、もう止まらなかった。
 私は深夜の公園でロールケーキを握りしめながら、声を殺して泣いた。
「鉄の女」の仮面が、音を立てて崩れ落ちていく。今の私はただの、四十五歳の、寂しくて疲れた一人の女だった。
 泣いて、泣いて、泣き腫らした後、不思議なほど胸のつかえが取れていた。夜空を見上げると、月が驚くほど白く、清らかに輝いている。
「明日も……頑張らなきゃね」
 私は最後の一口を飲み込み、空になった容器をゴミ箱に捨てた。
 足首の痛みはまだ残っている。でも、心は数時間前よりもずっと軽やかだった。

 翌朝。私はいつものように完璧なスーツに身を包み、オフィスへと出社した。気のせいか、私の周囲を流れる空気は、微かに、しかし決定的に変わっていた。
「部長、昨日の修正案ですが……」
 昨日、私にこっぴどく叱られた若手社員が怯えながら書類を持ってくる。以前の私なら、その書類を五秒見ただけで「やり直し」と一蹴していただろう。でも、今の私は、彼の目の下に薄っすらとできているクマに気づいた。
「一晩でここまで仕上げたのね。お疲れ様。この切り口、面白いと思うわ。ただ、この部分をもっと具体的にすれば、きっとクライアントに刺さるはずよ。一緒に考えてみましょうか」
 部下は信じられないものを見るような顔で私を見つめた。
「あ……ありがとうございます! すぐに取り掛かります!」
 彼の背中を見送りながら、私は自分の唇が自然と柔らかな弧を描いていることに気づいた。
 ――鉄である必要はない。
 しなやかな竹のように。あるいは、あのロールケーキのクリームのように、自分を甘やかせる人は、きっと他人の痛みにも寄り添える。
 昼休み、私はデスクでスマートフォンを開いた。
「バースデー・コネクト」を通じて、志穂さんへの返信を書く。

『志穂さん。
私はあなたの言葉に救われました。
昨夜、コンビニでロールケーキを買いました。人生で一番泣きながら食べた、甘いケーキでした。
私は今日、部下に少しだけ優しくすることができました。誰かを甘やかすための余裕を、あなたが私にくれたからです。
心から、感謝します』

 送信ボタンを押すと、画面に「おめでとう!」というクラッカーのアニメーションが弾けた。
 今日の誕生日リストを眺める。私のこの新しく芽生えた「温かさ」を、今度は誰かに届けたい。
 目に留まったのは、「健斗」という名前。二十九歳。
 心境欄には、震えるような文字でこうあった。

『夢はもう、死んだ。今夜、最後の歌を歌って、全てを終わらせます』

 不器用な、でも必死な若者の叫び。かつての私が、何度も飲み込んできた絶望がそこにあった。
 私の力強く文字を叩き始めた。一人の「戦士」から、もう一人の「戦士」へ向けて。

『健斗さん、二十九歳の誕生日おめでとう。
死ぬほど苦しい時、あなたはまだ歌おうとしている。それは、あなたの魂がまだ、生きようとしている証拠です。
あなたの歌は、まだ誰にも届いていないかもしれない。でも、今日、少なくとも私という一人の人間に、あなたの言葉は届きました。
あなたの魂の叫びを、どこかで誰かが、きっと待っています。
今夜の歌を、どうか、あなた自身のために全力で歌い切ってください。
あなたは、決して無価値な存在じゃない』

 ――送信。
 オフィスの喧騒の中に、私の祈りが溶けていく。
「部長、会議の時間です」
 秘書の呼びかけに、私は立ち上がった。
 ヒールの音は、相変わらず鋭く響く。でも、その一歩一歩は、もう誰かを威圧するためのものではない。自分を信じ、そして誰かを信じるための、新しいリズムを刻むためだ。
 四十五歳の私は、今、ようやく本当の「自分」として歩き始めた。

(第五話 完)


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