バースデー・コネクト|第四話「深夜のコンビニワルツ」(志穂/二十四歳)
「ピンポーン」
無機質な入店音が、誰もいない店内に響き渡る。自動ドアが左右に開くと、深夜特有の湿った外気が一瞬だけ入り込み、すぐにエアコンの効いた無味無臭の空気に押し戻された。
私はレジの奥で一人、商品の検品を続けていた。時計の針は午前二時を回ったところだ。二十四時間、常に一定の光量で照らされ続けるこの空間にいると、時間の感覚がじわじわと麻痺していく。ここには朝も夜もない。あるのは品出しと清掃と接客という、円環を描くように繰り返されるタスクの羅列だけだ。この空間にいると、自分が何者でもない、ただの「機械」になったような錯覚に陥る。
この駅前のコンビニで深夜のアルバイトを始めて、もう一年になる。
一年前の今頃、私は別の場所に立っていた。都内の小さなスタジオ、鏡張りの壁、そして全身に浴びるスポットライト。私はプロのコンテンポラリー・ダンサーを目指していた。踊っている時だけは、自分がこの世界の中心にいるような気がした。指先一つ、視線の配り方一つで空気を震わせ、観客の呼吸を支配する。肉体の限界を超えた先にある、あの高揚感。
でも、現実は残酷だった。オーディションには落ち続け、蓄えは底をつき、追い打ちをかけるように左足の靭帯を痛めた。
「君の踊りは綺麗だけど、魂を揺さぶる何かが足りない」
「上手いけど、魂が入ってないんだよね」
「もっとこう、魂に訴えかけるような――」
――魂を、魂が、魂に……。
審査員からは、いつも同じようなことばかり言われた。
結局、痛めた左足の靭帯が回復する前に、私はトウシューズを脱いだ。今の私は魂が入っていない、文字通りのただの抜け殻だ。
今の私の舞台は、この一辺三メートルほどのレジカウンターの中だ。衣装は毛玉のついた青い制服。ライトは目に刺さるようなLED。かつて、あんなに軽やかだった私の足は、今は立ち仕事のむくみで鉛のように重い。
ダンスのステップの代わりに、「レジ袋はご利用ですか?」という決まり文句を繰り返し、商品をスキャンする。そして、深々とは下げない程度の儀式的なお辞儀をする。
客の顔を見ることはほとんどない。私がが見つめているのは常に客の手元か、あるいはレジ画面に表示される数字だけだ。
何気なく壁に掛けられた時計を見ると、日付が変わってから一時間が過ぎていた。
そうか、今日は私の二十四歳の誕生日だった。といっても、誰かに祝ってもらう予定もない。両親からは「いつまでそんな生活を続けるの?」という説教じみたメールが一通届いただけで、友人たちの華やかなSNSの投稿を見る勇気もなかった。
深夜のコンビニには、昼間のような活気はない。煌々と照らすLEDの光は暗闇に怯える人々を引き寄せ、防犯カメラの無機質な視線は誰かの悪意を静かに牽制する。
ここにやってくる客たちは、誰もがどこか「欠けている」ように見えた。疲れ果ててネクタイを緩めたサラリーマン。目を充血させ、エナジードリンクを握りしめる学生。あるいは、パジャマの上にカーディガンを羽織っただけの、生活の境界線を失った人々。
私もまた、その「欠けた」人々の一人だ。
午前三時三十分。客足が途絶え、店内には冷蔵ケースの「ブーン」という低い唸り声だけが響いている。
「はぁ……」
私はため息をつき、レジの下に隠していたスマートフォンを、誰にも見られないようにそっと取り出す。画面には、半年前に自暴自棄になって登録したアプリ「バースデー・コネクト」の通知が表示されていた。
『お誕生日おめでとうございます!』
――誰だろう、こんな時間に。
画面をスワイプしてメッセージを開く。
差出人の名前は「翔」。
『志穂さん、お誕生日おめでとうございます。今日一日、お疲れ様でした。
誰かのために頑張っているあなたのことを、見ている人が必ずいます。完璧じゃなくていい。そのままのあなたで、今日はゆっくり休んでください。あなたの笑顔に、救われている人がきっといますから』
――あなたの笑顔に、救われている人がきっといます。
皮肉な言葉だと思った。今の私は「笑顔」なんてものからは遠いところにいる。客が来ればマニュアル通りの挨拶をし、感情を殺してバーコードをスキャンするだけのマシーンだ。店長からは「もっと笑顔で接客してよ。仏頂面は怖いよ」と言われた時でさえ、私は笑わなかった。いや、笑えなかった。
鏡に映る自分の顔は、笑顔どころか目の下にクマができ、生気がない。こんな死んだ魚のような顔のどこに、人を救う力なんてあるんだろう。でも、翔という見知らぬ少年からの言葉は、不思議なほど私の心に深く沈み込んでいった。
『見ている人が必ずいます』
その一文が、まるで暗闇の中で灯された小さなマッチの火のように、私の足元を微かに照らした気がした。
「……お願いします」
低い声がして、私はハッと顔を上げた。いつの間にか、レジの前に一人の男性が立っていた。五十代くらいだろうか。使い古されたスーツに、少しだけ乱れたネクタイ。彼はいつも、この午前三時過ぎにやってくる常連客だった。
彼は決まって、一番安い発泡酒の一缶とおにぎりを一つ、そしてレジ横にあるホットスナックの唐揚げを一つ注文する。
私は慣れた手つきでバーコードを読み取る。
「三点で、計三百六十八円です」
彼は無言で小銭をカウンターに置く。いつもなら、私はここで「ありがとうございました」と機械的に告げて終わるはずだった。でも、その夜の私は翔君の言葉が頭から離れなかった。
――笑顔に救われている人がいる。
私は意識的に背筋を伸ばした。ダンサーだった頃に体に染み付いた、正しい姿勢。そして、おにぎりを袋に入れる際、具材が潰れないように、そっと丁寧に置いた。発泡酒が冷たいので、おにぎりと直接触れないよう、隙間を作る。最後に、ホットスナックの袋を渡す時、少しだけ顔を上げ、彼の目を見て言った。
「ありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
それはマニュアルにはない、私自身の言葉だった。
男性は一瞬だけ驚いたように目を見開き、何かを言おうとして口を動かしたが、結局、小さく頷いただけだった。でも、店を出て行く彼の背中がほんの少しだけ、最初よりも伸びているように見えたのは、私の錯覚だっただろうか。
彼が去った後、店内には再び静寂が訪れた。私はモップを取り出し、床の清掃を始めた。普段は苦痛でしかないこの作業が、今夜は少し違って感じられた。
磨き上げられた床に、LEDの光が反射する。その光の筋を見つめていると、不意に、昔踊っていたワルツのリズムが頭の中で鳴り始めた。
一、二、三。一、二、三……。
私はモップをパートナーに見立て、ステップを踏んでみた。
深夜、誰も見ていない、世界から忘れられたようなコンビニで、私は掃除をしながら踊っていた。靭帯を痛めた左足は、まだ少し疼く。でも、動けないわけじゃない。かつてのような華やかな跳躍はできなくても、この三拍子のリズムに合わせて優雅に床を滑ることはできる。
レジカウンターの角を回り込み、揚げ物の什器の前を通る。私の動きに合わせて、制服の裾が微かに揺れる。
――これだ、この感覚だ。
私の人生は、どん詰まりなんかじゃない。ただ、ステージが変わっただけなんだ。この冷たいコンビニの床も、私が心からの笑顔で立てるなら、それは立派な舞台になる。
「ふぅ……」
一周してレジに戻った時、私は心地よい汗をかいていた。ふと、防犯カメラの映像モニターを見た。そこには、一人でステップを踏み、そして最後に、自分でも驚くほど晴れやかな笑顔を浮かべている一人の女性がいた。
「……悪くないわね」
私は二十四歳の自分に、初めて肯定的な言葉をかけた。
明け方、交代のスタッフがやってくる一時間前。外の空気が少しずつ白み始め、夜の終わりが告げられようとしていた。
私は廃棄になる予定のパンを整理しながら、スマートフォンでもう一度「バースデー・コネクト」を開いた。翔君への返信を打つ。
『翔君。メッセージ、本当にありがとう。
正直、あなたの言葉を読むまで、自分の笑顔なんて誰の役にも立たないと思っていました。でも、今日、気づいたんです。
私が丁寧に袋を詰めたり、一言「ありがとう」と言うだけで、世界のどこかで誰かの心がほんの少しだけ軽くなるかもしれないって。
私はもう、大きなステージで踊ることはないけど、この小さなレジの中から、私のワルツを届けていこうと思います。
あなたも、あなたの信じる道を進んでください。応援しています』
送信ボタンを押してから、深く、長い呼吸をした。冷たくて新鮮な空気が肺の奥まで満ちていく。達成感のようなものが胸に広がる。
それから、私は今日のリストをスクロールした。誰かにお祝いを返したい。私のこの、少しだけ前向きになった気持ちを、バトンのように誰かに繋ぎたい。
目に留まったのは、「玲子」という名前だった。年齢は四十五歳。
心境欄には、短くこう書かれていた。
『仕事、仕事の日々。気づけばいつも一人。私に明日はあるのでしょうか』
その言葉の裏側にある、張り詰めた孤独が痛いほど伝わってきた。
――かつての私だ。
あるいは、今の私の、少し先にあるかもしれない姿。私は彼女に向けて、祈るような気持ちでメッセージを打ち始めた。
『玲子さん、お誕生日おめでとうございます。
毎日、本当にお疲れ様です。
あなたは戦っているんですね。誰にも見えない場所で、ずっと。でも、どうか忘れないでください。
あなたが今日まで繋いできた仕事が誰かの生活を支え、誰かの喜びを作っています。
完璧でなくてもいい。今日は自分を一番に甘やかしてあげてください。
コンビニの小さなスイーツでもいいんです。それを一口食べる瞬間、あなたが自分を愛せますように。
あなたは、決して一人じゃありません』
送信ボタンを押した瞬間、店の自動ドアが「ピンポーン」と鳴った。早朝の澄んだ空気と共に、始発を待つ最初のお客さんが入ってくる。
「おはようございます!」
私は自分でも驚くほど、お腹の底から声を出し、最高の笑顔で迎えた。
二十四歳の私の新しいワルツが、ここから始まる。この光り輝く白い箱の中で、私は私のステップを刻み続ける。
誰かの今日を、ほんの少しだけ温かくするために。
(第四話 完)
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