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バースデー・コネクト|第三話「仮面の教室」(翔/十七歳)

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 午前六時。アラームが鳴る三秒前に、僕は意識を覚醒させた。指先一つ動かさず、ただ天井を見つめる。視界の端にある勉強机の上には、昨日深夜まで解いていた数学の難問集と、整然と並んだ参考書が、まるで行儀の良い兵隊のように僕を監視している。
 ――一日の始まり。
 それは、僕が「完璧な高校生」という役を演じるための幕が上がる合図でもある。
 僕はベッドを出て、無音の中で制服に着替える。鏡の前に立ち、襟元を整える。そこには、進学校として有名なこの高校で、常に学年トップファイブに入り、テニス部の副部長を務め、教師からも信頼の厚い「深山かける」という少年が立っている。
 表情をチェックする。口角を数ミリ上げ、目に理知的な光を宿す。
 ――よし、今日も「彼」は完璧だ。
 鏡の中の自分と目を合わせるが、その奥にあるはずの感情は、自分でもよく見えなかった。

 台所へ行くと、母が既に栄養バランスが整った完璧な朝食を用意していた。
「おはよう、翔。今日は十七歳の誕生日ね。おめでとう」
「おはよう、母さん。ありがとう」
 僕は淀みのない声で答える。母の目は僕の顔を通り越し、背後のカレンダーにある「模試」の文字に向けられている。
「今夜は塾があるから、お祝いは週末にしましょう。今日は大切なテストの日だし、集中力を切らさないようにね。あなたの志望校は、この模試の判定が鍵を握るんだから」
「分かってるよ。全力を尽くすから」
 トーストを噛み締める。味はしない。ただ、身体を動かすための燃料を摂取しているような感覚だ。
 父は新聞を広げたまま、顔も上げずに付け加えた。
「十七歳か。人生で一番伸びる時期だ。無駄なことに時間を使うなよ。時間は有限だからな」
「はい」
 僕は短く答え、席を立った。家を出る時、背中に突き刺さる両親の期待という名の重圧を、僕はいつものように、見えない鎧で跳ね返した。

 学校へ向かう電車の中で、僕は単語帳を開いていた。周囲の喧騒はイヤホンから流れるノイズキャンセリングの静寂によって遮断されている。
 ふと、吊り革を掴む自分の手を見た。指先には、ペンを握りすぎたことによるタコができている。このタコの数だけ、僕は誰かの期待に応えてきた。この傷跡の数だけ、僕は自分を削り、形を整えてきた。
 僕の人生は、まるで精密に設計された建築物のようだ。一ミリの狂いも許されず、常に美しく、機能的でなければならない。ふしのない、滑らかな木材だけで作られた、完璧な家。
 学校に着くと、クラスメイトたちが僕を取り囲む。
「深山、昨日の物理の課題、教えてくれないか?」
「翔、今度の週末、部活の後にミーティングできる?」
 僕は一人一人に、最も適切な笑顔と、最も明快な回答を返していく。
「もちろん、いいよ。ここが分からないんだよね?」
「ああ、ミーティングの件は僕がレジュメを作っておくから、十五分で済ませよう」
 周囲の賞賛や依存を、僕は心地よいとは感じない。ただ、「役割を果たしている」という安堵感があるだけだ。もし、僕が「分からない」と言ったら。もし、僕が「疲れた」と座り込んだら――。
 この教室という劇場は瞬時に静まり返り、観客たちは失望して立ち去るだろう。そんな恐怖が、僕の足元に常に黒い影のように張り付いている。

 昼休み。僕は誰もいない屋上へ続く階段の踊り場で独りになった。
 ふと、ポケットの中でスマートフォンが震えた。通知画面に表示されたのは、半年前に、ほんの好奇心、あるいは、壊れそうな心を繋ぎ止めるための無意識の叫びで登録したアプリ「バースデー・コネクト」のアイコンだった。
 画面を開くと、そこには驚くほど多くの、見知らぬ誰かからのメッセージが届いていた。

☆『十七歳、おめでとう! 若いって素晴らしいね』(Ken)
☆『素敵な誕生日を。未来は明るいですよ』(美紀)
☆『青春は一生の宝物になります。頑張れ!』(やまだ)

 定型文のような言葉たちが並ぶ中、僕は一通のメッセージの前で指を止めた。差出人の名前は「佐藤」。アイコンは何かの木工品のようだった。

☆『佐藤です。十七歳のお誕生日おめでとう。
高校二年生。一番苦しくて、一番眩しい時期かもしれませんね。
私は最近、趣味で木工を始めた年寄りですが、木を扱っていると、ふと思うことがあります。世の中の人は、ふしのない、まっすぐで滑らかな木材を「良質」だと呼びます。でもね、本当に面白いのは、節のある木なんです。節というのは、その木がかつて枝を伸ばそうとして傷つき、それでも生きようとして残った痕跡です。その歪みが、年輪の中で美しい模様になり、世界に二つとない独特の表情を生む。
翔さん、あなたは今、完璧に振る舞おうと必死かもしれない。でもね、完璧じゃなくていいんです。木には節があるからこそ、面白いんだ。あなたの抱えている傷も、弱さも、いつかあなただけの美しい「木目」になります。どうか、自分を追い込みすぎないでください。あなたの人生は、誰のためでもない、あなただけのものです』

 心臓が、ドクンと大きく波打った。喉の奥が熱くなり、視界が急激に滲んでいく。
ふしがあるからこそ、面白い」。
 その言葉が、僕が十七年間必死に守り続けてきた「完璧」という名の城壁に、大きな亀裂を入れた。
 僕は、節のない木材になりたかった。誰に見せても恥ずかしくない、滑らかで、欠点のない、量産型の高級材。でも、僕の内側は、本当は節だらけだった。親の期待に応えられないのではないかという恐怖、偽りの自分を演じ続ける虚しさ、将来への漠然とした不安。それらを全て、「弱さ」だと思い、必死に削り取り、隠してきた。でも、この佐藤という人は、それを「美しい模様になる」と言ってくれた。この傷だらけのままの僕で生きていてもいいのだと、そう言われた気がした。
 その時、予鈴のチャイムが無機質に鳴り響いた。午後の授業が始まる。大切な模試の結果が返ってくる。また、完璧な深山翔を演じる時間が始まる。
 僕は立ち上がり、ブレザーの埃を払った。でも、階段を下りようとしたら足が止まった。
 ――行きたくない。
 初めて、その声が自分の中からはっきりと聞こえた。これ以上、仮面を被ってあの息苦しい教室に戻りたくない。僕は僕自身の人生を、一分間だけでもいいから取り戻したい。
 僕は階段を駆け上がった。屋上の扉を開けると、五月の風が僕の髪を乱暴に掻き乱した。
 広い空。どこまでも続く青。僕は屋上のフェンス越しに街を眺めた。整然と並ぶビル、規則正しく動く車。その全てが、巨大な檻の中のジオラマのように見えた。
 僕は屋上から飛び降りるような勇気は持っていない。でも、この場から逃げ出す勇気なら、今、佐藤さんの言葉がくれたような気がした。
 僕は屋上を後にして、教室には戻らずに非常階段を駆け下りた。正面玄関は通れない。裏門の植え込みが切れている場所から学校の外へと飛び出した。
 十七年間の人生で、初めての「逸脱」。
 背負っている重いリュックサックが、走るたびに背中を打つ。その痛みが、今はたまらなく愛おしかった。

 学校から離れ、僕は適当なバスに乗った。終点まで行くと、そこは静かな海辺の街だった。潮の香りが鼻をくすぐり、波の音が遠くから聞こえてくる。
 僕は制服のネクタイを緩め、ブレザーを脱いだ。ワイシャツの袖を捲り上げ、砂浜に座り込んだ。
 平日の午後、海には誰もいない。僕はリュックから参考書を取り出し、砂の上に並べた。
「物理重要問題集」、「英単語ターゲット」、「志望校別過去問」。
 僕を縛り付けてきた、鎖のような紙の塊を一冊ずつ手に取り、表紙を眺めた。
 これを解かなければならない。良い成績を取らなければならない。立派な大人にならなければならない。
「……うるさい」
 僕は呟いた。声に出すと、さらに心が軽くなった。
「うるさいんだよ! 全部!」
 一番分厚い難問集を、思い切り海に向かって放り投げた。本は空中でバラバラとページを散らしながら、重たい音を立てて波間に沈んでいった。
 続いて、英単語帳、過去問。僕は狂ったように、自分の「完璧」を象徴していた道具たちを海へ投げ捨てた。肩で息をしながら、波打ち際に立ち尽くす。海に沈んでいく紙の束。それは、僕が今日まで削り落としてきた自分自身の破片のようにも見えた。
 僕は砂の上に大の字に寝転んだ。太陽が眩しい。潮風が頬を撫でる。
 模試はどうでもいい。学年順位も、親の顔色も、未来の保証も、今はどうでもいい。
 ――今、ここに僕がいる。
 砂の冷たさを感じ、海の匂いを嗅ぎ、心臓が波打っているのを感じる。
 僕は「完璧な深山翔」ではない。ただの、十七歳の、迷える一人の人間だ。節だらけで、傷だらけで、不格好な、一本の木だ。
 気づけば、涙が溢れていた。声を上げて、僕は泣いた。子供のように、何もかもを吐き出すように。
 これまで一度も言えなかった「助けて」という言葉が、波音に混じって消えていった。

 夕暮れ。空が紫色に染まり始めた頃、僕はスマートフォンを取り出した。「バースデー・コネクト」を開き、佐藤さんへの返信を書く。

『佐藤さんへ。
あなたのメッセージを読んで、今日、初めて学校をサボりました。海に来て、教科書を全部投げ捨ててきました。親に殺されるかもしれないし、明日からの学校がどうなるか、正直怖いです。でも、今日、僕は初めて呼吸ができた気がします。節だらけの木でいいんだと、そう思えました。いつか、僕のこの歪んだ模様が、誰かにとって美しいと思えるような、そんな大人になりたいです。
本当に、ありがとうございました』

 送信ボタンを押すと、胸の奥の支えが取れたような気がした。
 海に背を向ける。これから家に戻れば、地獄のような叱責が待っているだろう。明日学校へ行けば、奇異な目で見られるだろう。それでも、僕の手の中には、佐藤さんがくれた「節」という名の宝物がある。これがあれば、僕はもう自分を削りすぎて消えてしまうことはない。
 僕は駅に向かう途中のコンビニで足を止めた。自動ドアが開き、冷たい空気と独特の照明が漏れてくる。
 ふと、レジで働いている店員の女性が目に入った。彼女は疲れ果てた様子で、機械的に商品を袋に詰めている。彼女の誕生日はいつだろうか。彼女もまた、何かの役割を演じることに疲れているのではないだろうか。
 僕はスマートフォンを再び取り出した。「バースデー・コネクト」には、今日が誕生日の人のリストが並んでいる。その人のから一人、目についた名前に向けて指を動かした。
 佐藤さんが僕にしてくれたように、僕もまた、誰かの節を肯定する言葉を送りたかった。

『りい(33歳)
心境:友達の結婚式で、おめでとうって言いまくりました。誰か私にもおめでとうって言って』
『志穂(23歳)
心境:コンビニでバイトしてます。足が痛い。店長に「もっと笑顔で接客しろ」と言われました。いつも笑顔だっつーの!』
『本田(49歳)
心境:中小企業の管理職です。どこにも居場所がない』

 僕は「志穂」という名前をタップしてメッセージを打つ。

『志穂さん、お誕生日おめでとうございます。今日一日、お疲れ様でした。
誰かのために頑張っているあなたのことを、見ている人が必ずいます。完璧じゃなくていい。そのままのあなたで、今日はゆっくり休んでください。あなたの笑顔に、救われている人がきっといますから』

 メッセージを送り終えると、僕は一歩、駅へと足を踏み出した。足取りは、朝よりもずっと重い。でも、その一歩一歩は、間違いなく僕自身の意志で、大地を力強く踏みしめていた。
 僕は僕のままで、明日へ向かう。
 十七歳の誕生日は、僕が「僕」として生まれた、本当の記念日になった。

(第三話 完)


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