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バースデー・コネクト|第二話「静寂の食卓」(佐藤/七十歳)

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 朝の六時。古い柱時計の重たい音が六回、居間に響き渡る。私はその最後の一打ちが終わる前に目が覚めた。七十歳を過ぎてからというもの、眠りは朝霧のように薄く、頼りないものになった。カーテンの隙間から差し込む光はまだ青白く、部屋の隅に溜まった影を溶かしきれていない。
 私はゆっくりと体を起こし、軋む膝をなだめながら寝室を出た。廊下を歩けば、床板がミシリと小さく鳴る。かつてはこの音に、幼い息子たちが飛び起きてくる足音が重なっていた。あるいは、台所で味噌汁の香りを立てていた妻の、せわしない立ち居振る舞いが背景にあった。だが、今のこの家にあるのは、ただ圧倒的な静寂だけだ。
 台所に立ち、使い古したやかんに水を汲む。ガスコンロの火が青く揺れるのを眺めている間、私の視線は自然と食卓の向かい側の席に向く。そこにはもう誰もいない。妻の芳江が旅立ってから、三年が経った。
 最初のうちは、その空席を見るたびに胸を抉られるような痛みを覚えたものだが、最近ではそれすらも日常の景色の一部になった。痛みは消えたわけではなく、ただ、古傷のように皮膚の奥深くに沈着しただけだ。
 白湯を一口飲み、私は居間のカレンダーに目をやった。
 ――五月二十三日。
 赤ペンで小さく丸がつけられている。今日が私の七十回目の誕生日だということを、自分自身に思い出させるための印だった。
古稀こき、か……」
 独り言が、冷えた空気に吸い込まれて消える。
 かつて七十歳といえば、知恵に溢れ、周囲から敬われる完成された長老のようなイメージがあった。しかし、実際にその年齢に立ってみれば、現実はもっと平凡で、やるせない。
 仕事は十年前に行き止まりを迎え、子供たちはそれぞれ都会で自立し、年に数回の儀礼的な連絡をよこすだけだ。私の持つ経験や技術は、めまぐるしく変わる世の中では骨董品に等しく、誰かに求められることもない。
 私はただ「余生」という名の、終わりの見えない坂道をゆっくりと下っているだけだ。その事実に気づくたび、足元がすくむような虚無感に襲われる。

 昼過ぎ、スマートフォンが震えた。長男からのメッセージだった。
『誕生日おめでとう。体調はどう? こっちは仕事が忙しくてなかなか帰れないけど、週末にでも孫にビデオ通話させるよ』
 事務的で、しかし最低限の義務を果たしたという清々しさが透けて見えるようなメッセージ。私は「ありがとう。元気だ。仕事頑張れ」とだけ返し、画面を閉じた。
 次に届いたのは、次男からの似たような定型文。それから、数少ない友人たちの、近況報告とも自慢ともつかない短い言葉。どれも私の心の表面を滑り落ちていくだけで、奥まで届くことはない。彼らが祝っているのは私という人間ではなく、「七十歳という区切り」に対して送るべき社交辞令のように思えたからだ。
 夕食は近所のスーパーで買った、少し値の張る刺身の盛り合わせと、自分で炊いた白飯。一人の食卓は、どんなに贅沢をしても味気ない。咀嚼する音だけが耳に障り、テレビをつけても、バラエティ番組のわざとらしい笑い声が虚無感を加速させるだけだった。
 食後、私は手持ち無沙汰にスマートフォンを手に取った。ふと、ホーム画面の片隅にある、見慣れないアイコンに目が留まった。
『バースデー・コネクト』。
 半年前、芳江の三回忌を終えた直後、どうしようもない孤独感に耐えかねて登録したアプリだ。深夜のテレビ番組で紹介されていたのを見て、藁にもすがる思いでニックネームを登録したのだった。今までアプリの存在すら忘れていたが、どうやら今日はその「本番」の日のようだ。
 アイコンをタップすると、未読通知の数字が「50」を超えていた。
「なんだ、これは……」
 驚きと共に画面を開くと、そこには見知らぬ人たちからの、怒涛のような祝福の言葉が並んでいた。

☆『お誕生日おめでとうございます! 七十歳という節目、素晴らしいですね』(Kenta)
☆『あなたの歩んできた道のりに敬意を表します。素敵な一日を!』(由紀)
☆『人生の大先輩へ。あなたの存在が、私にとっての励みです』(ハル)

 最初こそ、その数の多さに困惑した。自動生成されたbotボットか何かから送られているのではないかと疑いもした。しかし、読み進めるうちに、それぞれの言葉に込められた熱量が違うことに気づき始めた。一通一通、文体も、選び取られた単語も、そこにある温度も異なる。これらは確かに、日本のどこかで、あるいは世界のどこかで、見知らぬ誰かが私のために打った言葉だ。
 その時、一つのメッセージが目に留まった。差出人の名前は「ユカ」。そのメッセージは、他のものよりも少しだけ長く、丁寧な言葉で綴られていた。

☆『佐藤さん、七十歳のお誕生日おめでとうございます。古稀という素晴らしい節目に、心からお祝いを申し上げます。私は今、三十五歳です。あなたのちょうど半分の人生を生きてきました。今の私は、自分の不甲斐なさに立ち止まりそうになることがよくあります。でも、あなたのように七十年という長い時間を、誠実に、懸命に生きてこられた方がいる。その事実だけで、私は「もう少し頑張ってみよう」という勇気をもらえます。
あなたが積み重ねてきたその経験、その時間は、決して無駄なものではありません。それはいつか、必ず誰かの光になります。どうか、ご自分を誇ってください。素敵な一年になりますように』(ユカ)

「光に、なる……?」
 私はスマートフォンの画面を食い入るように見つめた。
 ユカという女性が、どんな顔をして、どんな場所でこの言葉を打ったのかは分からない。三十五歳といえば、仕事や人生でいろいろなものを背負い、息苦しさや迷いも多い時期だろう。そんな彼女が、会ったこともない、何者でもない一人の老人に、これほどまでのいつくしみを込めた言葉を投げかけてくれた。
 ――私の経験が、誰かの光になる。
 その一文が、凍りついていた私の脳裏を強引にこじ開けた。
 私は自分が無用な人間だと思い込んでいた。会社を定年退職し、家族からも頼られなくなり、ただ死を待つだけの存在だと。しかし、彼女は言った。私の生きてきた時間そのものに価値があると。
 不意に、視界が熱くなった。涙がこぼれ、スマートフォンの画面を濡らした。私は慌てて袖で目を拭ったが、溢れ出る感情は止まらなかった。
 芳江が死んでから、一度もこんな風に泣いたことはなかった。それは悲しみの涙ではなく、自分の存在を丸ごと肯定されたことによる、魂の震えのようなものだった。
「ありがとう、ユカさん……」
 私は暗い居間で、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 翌朝、私はいつになく早起きをした。昨日までの、どこか投げやりな気分は消えていた。ユカさんへの返信は昨夜のうちに何度も書き直し、一番素直な気持ちを込めて送った。

『ユカさんへ。あなたの言葉に、どれほど救われたか分かりません。七十年生きてきて、今が一番、自分が「生きていてよかった」と思えました。私の経験が光になるかは分かりませんが、少なくとも今日、私は新しい一歩を踏み出す勇気をもらいました。あなたも、自分を信じて進んでください』

 返信を終えた私は何かに急かされるように、家の裏手にある古い物置へと向かった。そこは、かつての私の「城」だった場所だ。
 私は現役時代、精密機械の設計技師をしていた。手先は器用な方で、若い頃は木工や機械の修理が趣味だった。物置の中には使い古した工具箱や錆びかけた旋盤、いつか使うつもりで残しておいた端材が埃を被って眠っている。
 重いシャッターを上げ、朝の光を浴びて舞い上がる埃の中に、隅の方に置かれた小さな段ボール箱が目に入った。中を覗くと、それはかつて孫たちが遊び、壊してしまったおもちゃの数々だった。「いつか直してやるよ」と言ったまま、数年間放置していたものだ。
 私はその中から、木製のメリーゴーランドのオルゴールを取り出した。塗装は剥げ、軸は歪み、ねじを巻いても、ギギギ……という不気味な軋み音を立てるだけだ。私はそれを作業台の上に置いた。
「……よし」
 使い慣れたドライバーを手に取ると、指先が微かに震えた。だが、それは衰えによる震えではなく、期待による武者震いだった。

 それから一週間、私は物置にこもりきりになった。精密な歯車を磨き直し、欠けた木のパーツを新たに削り出す。設計技師としての勘は、驚くほどすぐに戻ってきた。
 作業に没頭している間、私は孤独を感じることはなかった。むしろ、自分の指先から何かが再生していく過程に、言いようのない喜びを感じていた。
 ある日の午後、ようやくオルゴールが完成した。ねじを巻くと、清らかな「星に願いを」のメロディと共に、色鮮やかに塗り直された木馬たちが滑らかに回転し始めた。
「よし、できた……」
 満足感と共に、私はふと思った。この技術をただ自分の満足のためだけに使うのは、ユカさんの言ってくれた「光」を無駄にすることではないか、と。

 翌日、私は近所の地区センターを訪れた。受付にいた若い女性職員に、少し緊張しながら切り出した。
「あの……おもちゃの修理のボランティアを、ここでやらせてもらえませんか? 昔、機械の修理とかの仕事をしていたもので……」
 職員は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって応えてくれた。
「ぜひお願いします! 最近、おもちゃ病院をやってほしいという要望が多かったんですよ。でも、直せる方がいなくて……。今、担当の者を呼んで参りますので、少々お待ちください」

 ――一か月後。
 地区センターの談話室の一角に、小さな看板が立った。
『おもちゃの診療所:院長 佐藤』
 最初は数人だった利用者は、口コミで瞬く間に増えていった。
「佐藤さん、これ、息子の宝物なんです。もう直らないって言われたんですけど……」
「おじいちゃん、これ動くようになる?」
 毎日、たくさんの子供たちと、その親たちが壊れたおもちゃを持ってやってくる。
 私は一人一人の顔を見ながら丁寧に話を聞く。そして、魔法のように(子供たちにはそう見えるらしい)おもちゃを直していく。
 直ったおもちゃを手にした子供たちが、満面の笑みで「ありがとう!」と言ってくれるたび、私の胸の奥に、かつてないほどの温かな灯がともる。それは、現役時代のどんな大きなプロジェクトを成し遂げた時よりも、純粋で、深い手応えだった。

 ある土曜日の夕暮れ。おもちゃの診療所を閉め、私は心地よい疲労感と共に帰路についていた。夕日に照らされた街路樹の影が長く伸びている。
 ふと、足元に咲く名もなき野花が目に入った。以前の私なら目もくれずに通り過ぎていただろうが、今の私には、その花さえもが精一杯生きている愛おしい存在に見えた。
 家に戻り、いつものように台所で水を飲む。相変わらず家の中は静かだ。芳江の席には誰もいない。だが、今の私を包む静寂は、以前のような冷たい不在ではなかった。
 明日、修理するおもちゃたちの顔ぶれを思い浮かべる。次に、ユカさんに送るメッセージの内容を考える。私の人生という物語は、七十歳にして、新しい章に突入したのだ。
 私は居間の仏壇の前に座り、芳江の遺影に手を合わせた。
「芳江、俺はもう少し、ここで頑張ってみるよ」
 写真の中の彼女が、少しだけ誇らしげに笑ったような気がした。
 私はスマートフォンで、バースデー・コネクトのアプリを開いた。リストには、そこにはこの先一週間、誕生日を迎える人のリストが並んでいる。

『しょうじ(59歳)
心境:いよいよ還暦になります。仕事、仕事の人生で、自分の誕生日や年齢すら忘れるほど働いてきました。この先、自分には何が残せるのかを考えています』
『Fumi(23歳)
心境:新社会人です。入社した会社が超ブラックでした! 誰か助けて!』
『翔(17歳)
心境:一ミリの狂いもない、滑らかでふしのない完璧な木材のように生きることを強いられている高校生です。この生き方、合ってますよね?』

「滑らかでふしのない完璧な木材」と言う言葉に、思わず目が留まる。
 ――十七歳か……。
 私は深呼吸をして、ゆっくりと文字を打ち始めた。かつて絶望の淵にいた一人の女性から受け取った「光」を、今度は私が、別の誰かへと繋いでいくために。
 この目に見えない、しかし確かな優しさの連鎖の中に、私は確かに生きている。
 窓の外では、夜の帳が降りようとしていた。だが、私の心の中には、消えることのない小さな太陽が煌々と輝き続けていた。

(第二話 完)


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