銀河を駆ける蹄|短編小説(#風まかせ文芸部)
【作品紹介】
地方都市の、とある高校の屋上で、主人公は白紙の進路希望調査の紙をポケットに入れたまま、ぼんやりと空を見ていた。「現実を見ろ」と言う教師と、「堅実に生きろ」と言う両親。そんな言葉が重りとなって主人公の足にまとわりつく。そんな時、「あるもの」が頭上から降ってくる。僕はその「あるもの」と一緒に銀河を駆ける…。
僕の足は、いつだって地面に縛り付けられていた。
地方都市の、どこにでもある高校の屋上。フェンスにしがみつきながら見上げる空は、僕にとって自由の象徴ではなく、「拒絶」の証だった。
進路希望調査の白紙の紙が、ポケットの中でくしゃりと音を立てる。教師は「現実を見ろ」と言い、両親は「堅実に生きろ」と言う。誰もが僕の足首に、目に見えない重りを一つずつ増やしていく。
「遠くへ……行きたい」
独り言は風にさらわれ、夕焼けの空に溶けていった。
――その時。
空の向こう、燃えるような茜色の雲を切り裂いて、それは現れた。最初、それは渡り鳥の群れか、墜落する小型機に見えた。でも、その影はあまりに白く、あまりに優雅に、僕の知っている物理法則を無視した軌跡を描いて落ちてきた。
――ドドォォォン!
凄まじい衝撃音と共に、学校の裏に広がる森の奥深くで土煙が上がった。僕は反射的に走り出していた。重いローファーを鳴らし、息を切らし、森の中の立入禁止のフェンスを越えて、何かに呼ばれているような、そんな予感に突き動かされていた。
森の奥、古い祠がある広場に、「それ」はいた。折れた大樹のそばで横たわっている、白い獣。
――馬。
でも、普通の馬じゃない。その背中には、まるでシルクのカーテンを束ねたような、巨大で美しい一対の翼があった。翼は月の光を反射し、真珠のように淡く輝いている。
「天馬……」
僕の震える声に、その生き物はゆっくりと頭を上げた。黄金色の瞳が僕を射抜く。知性と、深い悲しみを湛えた瞳だった。
左の翼の付け根から青い血が流れている。空で何かに襲われたか、あるいは激しい乱気流に巻き込まれたようだった。
「大丈夫だよ、何もしないから」
僕はゆっくりと近づいた。ポケットの中にあった、飲みかけのペットボトルの水をハンカチに浸し、傷口を拭おうとする。
天馬は最初、威嚇するように鼻を鳴らしたが、僕の必死な目を見て、ふっと力を抜いた。
「君も落ちてきたんだね。僕と同じだ」
僕は自分の境遇を天馬に語りかけた。やりたいことが見つからないこと。期待という名の重力に押し潰されそうなこと。天馬は静かに、僕の独白という愚痴を聞いてくれた。
傷口の応急処置をして一時間が経ち、夜の帳が降りる頃には、天馬の青い血は止まっていた。不思議なことに、僕が触れると傷口が淡く発光し、みるみるうちに塞がっていくのが分かった。
「もう、飛べる?」
僕が問いかけると、天馬はゆっくりと立ち上がった。四本の足がしっかりと大地を掴み、巨大な翼がバサリと開かれる。その迫力に、僕は一歩後ずさりした。
天馬は黄金色の瞳で僕を見つめ、自分の背中を鼻先で指し示した。
「乗れって……?」
天馬は短く、いななきで答える。僕は意を決して、その白い背に跨った。
――温かい。
筋肉が躍動し、生きているという圧倒的なエネルギーが伝わってくる。
天馬が助走を始めた。
最初はただの速い馬だった。でも、その速さが加速するにつれ、周囲の景色が引き伸ばされ、重力が消えていく。
天馬が地面を蹴り、大きく翼を広げた瞬間、僕たちの体は浮き上がった。視界を塞いでいた木々が足下へ消え、耳を打つ激しい風の音と共に、一気に雲を突き抜ける。でも、不思議と怖くなかった。
眼下には、宝石をぶちまけたような街の灯りが広がっている。僕があんなに苦しんでいた小さな学校も、窮屈だった家も、今はただの光の粒に過ぎない。
見上げれば、そこには銀河があった。天馬は蹄で夜空を蹴り、星々の間を駆け抜けていく。まるで宇宙の真ん中を走っているような解放感。
「綺麗だ、本当に……」
僕は呟いた。重力に縛られ、地面ばかり見ていた僕には、この世界の広さが分かっていなかった。
天馬は大きく旋回し、一番輝く星に向かってさらに高度を上げた。冷たい空気が肺を焼き、血が熱くたぎる。
自由とは、どこかへ逃げることじゃない。この高い視点から、自分の人生を肯定できる強さを持つことなんだ。
東の空が白み始めた頃、天馬は静かに、元の森の広場へと舞い降りた。僕が背中から降りると、天馬は満足げに一度だけ鼻を寄せ、僕の頬を撫でた。その瞳にはもう、悲しみはなかった。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
僕がそう言うと、天馬は力強く翼を広げた。黄金の粉を振り撒きながら、一気に天高くへと駆け上がっていく。朝日の中に溶けていくそのシルエットを、僕はいつまでも目で追いかけ続けた。
気がつくと、僕は自分の部屋の机の前に座っていた。
――夢?
そう思ってポケットを探ると、あの一枚の進路希望調査の紙が出てきた。くしゃくしゃになった紙の裏には、見たこともない、青く輝く羽が一枚、貼り付いていた。
僕はペンを取った。書くべきことは、もう決まっている。
重力はある。困難もある。でも、僕の心の中には、あの銀河を駆け回った天馬の蹄の音が響いている。
窓を開け、大きく息を吸い込んだ。今日から、僕の本当の飛行が始まる。足は地面についているけど、僕の魂は、あの大空を駆け抜ける天馬と同じ高さにある。
「さぁ、行こう」
僕は一歩、踏み出した。昨日の僕よりも、少しだけ軽くなったその足取りで。
(了)
iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「馬」です。
急に合唱曲「空駆ける天馬」を思い出し、書いてみました。
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