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初夏のエメラルド|掌編小説(#風まかせ文芸部)

 季節の変わり目は、なぜかいつも少しだけ心が落ち着かない。過ぎ去った春の日々への寂しさと、これからやって来る夏への戸惑い。しかし、この古い扇風機が一定のリズムで送り出してくる風を受けていると、そのざわついていた心の内側も、不思議と平穏になっていくのが分かった。

 時計の針は、とうに午前二時を回っている。ワンルームの狭い部屋には、私とこの年季の入った扇風機しか起きていない。実家を出る時に祖母が持たせてくれた扇風機で、今のスマートな家電とは程遠く、羽は毒々しいエメラルドグリーンのプラスチック製だ。スイッチを押すと「ガチリ」と重たい音がして、首を振るたびに「きぃ、きぃ」と耳障りな音を立てる。でも、その不器用な音が、かつて過ごした実家の広い和室や、青い匂いのする風の記憶を呼び起こして、私を安心させるのだった。
 窓を少しだけ開けておくと、網戸越しに、まだどこか冷たさを残した夜気が忍び込んでくる。昼間の街は、アスファルトが熱を帯びて息苦しいほどだった。すっかり夏めいてきた周囲のスピードに、私は少しだけ置いていかれそうな焦りを感じていたのかもしれない。新しい環境の中で上手くやれているつもりでも、夜、一人になると、心の中にヒリヒリするような焦りや疲れが溜まっていることに気づく。
 しかし、扇風機から送られてくる風は、そんな都会の喧騒を忘れさせるほどに優しい。一番弱い風力に設定された風は、リネンのカーテンの裾をほんの少しだけ揺らし、私の剥き出しの足首を撫でていく。冷房の凍えるような冷たさとは違う、どこか生温くて、水の気配を含んだ初夏の風。
 私は枕元に置いた、冷たい麦茶のグラスに手を伸ばした。表面の結露した水滴が指先を濡らし、ひやりとした心地よさが伝わる。窓の外からは、いつの間にか春の虫とは違う、少しだけ力強い夏の生き物の気配が漂い始めていた。
 季節は確実に、私の焦りなど置き去りにして歩みを進めている。

 ――まぁ、いいか。

 ぽつりと呟いた声は、扇風機の回る音にかき消された。この古い機械は、ただひたすらに、一定のリズムで風を送り続けている。過去を振り返ることも、未来を恐れることもなく、ただ「今」という時間を肯定するように。
 私はベッドに寝転び、天井を見上げた。扇風機の規則正しい首振りに合わせて、街灯が落とす部屋の影が、ゆっくりと動いては戻る。その心地よい揺らぎに身を任せているうちに、重たくなってきたまぶたの裏に、眩しい夏の光が「予感」として浮かんできた。

 ――明日は、今日より少しだけ良い日になるかもしれない。

 微かな機械音を子守唄代わりに、私はゆっくりと深い眠りへと落ちていった。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「真夜中の扇風機」です。


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