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「自分は無価値」と受け入れ、自分に値付けする練習|せやかて工藤理論

自分がうつ病にならないのが不思議な私です。
最近写真も文章も私生活も暗礁に乗り上げてしまい、メンタルが月面の様相を呈していました。

詰まるところ、「自分の価値・存在意義」というものが分からないという壁に面しておりまして。
撮ることの価値
書くことの価値
生きることの価値
存在する価値

たぶん思春期に一通り思い悩んで、世界との向き合い方を学んでくるのでしょう。
しかし私にはその下地がなかったのか、はたまた下地を破壊されたのか、しょうもない悩みリバイバルを引き起こした次第です。
撮ることの意味
書くことの意味
生きることの意味
存在する意味

価値も意味も見えなくなって、いとも容易く土日を潰してしまいましたので、ちょっと頭を切り替えるべく、意味もなく書くことにしました。

自分は無価値

私にとっての価値は「代替不可能性」です。

ボールペンを例に挙げると、「書く」という行為自体は鉛筆や万年筆、毛筆などで代替可能です。
しかし視認性も筆記性もよく、それでいて修正に難があるという偽造防止機能を備えている、という点で他の筆記具には代替不可能でしょう。
ここでボールペンは「価値のある存在」
と私は考えます。

一方で「情報伝達手段」としての機能ではどうでしょう。
メモ書きや手紙など、ペンであることに意味が存在するなら良いですね。
しかし電子メールやSNSなどでは、情報量も伝達速度も、その後の二次利用においても、ボールペンは代替可能どころか不要です。
ここでボールペンは「価値のない存在」
です。

話を私自身に戻します。
私の写真や文章などのスキルは代替可能でしょうか。
すごく容易く「代替可能」と言い切ります。
私より優れた人はごまんといます。
仮に同じ料金で同じ時間を消費するなら、より優れた人の方を選びますね。

ではスキルを定量的に測って代替可能性を考慮することは可能でしょうか。
SNS全盛の現代では、フォロワー数やリアクションの多さで容易に比較できるでしょう。
そこには様々な要素が絡み、純粋にスキルを評価できているとは言い切れませんが、少なからず「多くの人にアプローチできる人間」です。

そんな世界において、私の「代替不可能性」などないでしょう。
仮に今関係が継続しているモデルさんや劇団さんに、私と同等かそれ以上のスキルを有して、料金も同等かそれ以下に提示してくる人間がいたとしたら、私の存在価値は灰燼に帰すのです。

死神の総隊長の始解で燃やされますよ。

これはスキルに限らず、仕事も人間関係も、「自分と同等かそれ以上の存在」を仮定すると「必ずしも自分である必要などない」という結論に帰着します。
この世の「象徴」とされる人物以外は代替可能であって、脅威が発生すれば無価値に帰す程度の存在です。
この世に「存在しないと困る価値」を有した人間は、ほとんどいません。

これにて、私の無価値が証明されました。
めでたしめでたし。

無価値であることを受け入れる

と、ここまで詭弁を述べてきました。
前節で「無価値が証明された」と宣いましたが、証明されたのは「代替可能性」であって、無価値性ではありません。
しかし代替不可能であることと価値は、少なからず相関があると言っていいでしょう。

私の拙い脳では、2つの相関を切り離すに十分な論を組み立てられませんでした。
そして諦めました。
自分の価値の証明は不可能と。
この世の誰にとっても掛け替えのない存在ではないと。
自分なんて居なくなっても世界に何の影響もない、無価値な存在であると認めざるを得ませんでした。

さて、無価値な人間は存在していいのでしょうか。
かつて植松聖という人物が起こした事件がありました。
主張は「生きていてはいけない人間がいる」というもので、実行に移した形です。
世間の反応は「植松は生かしてはいけない」です。
果たして、彼の主張は通ったのです。
憲法で「基本的人権」というものが定義されているにも拘わらず、存在していいための基準が世間的には存在する、と。

またしても話を戻しましょう。
「私という存在は、存在していてもいいのか?」という問い。
肯定するなら、世界をジェノサイドかディストピアに導かねばなりません。
ありとあらゆる無価値な存在を抹消するのですから。
つまるところ否定するしかなく、ともすると「無価値であっても代替可能であっても、存在していい」なる論に帰結します。

私は無価値ですが、消えなくても良さそうです。

じゃあハッタリで評価して値付けしよう

世はまさに大資本主義社会。
ありとあらゆる価値は資本によって取引されます。
ハッタリでも生産性がなくても、値が付けば取引の対象足りえます。

私は消えなくてもいいので、生活しなければなりません。
たとえ無価値でも取引に身を投じなければならない一般市民ですので、ハッタリで自分の価値を決めてしまおう。
という試みの説明に1900字かけてきました。

まずは写真です。
いやぁ過去の写真見ても「素敵に写ってくれてるなぁ」とシミジミすることが多々あります。
たとえばこんな。

【役者ポートレートVol.6】蒼じゅんの川越さんぽ より
https://note.com/t_eclectus/n/nefe104f3a646?magazine_key=ma1ac443a103d
【役者ポートレートVol.17】浅草お着物旅情 より
https://note.com/t_eclectus/n/n805bf9b1b5db?magazine_key=ma1ac443a103d

自分の感性は世間一般とズレていると認識していますので、モデルさん自身が認識している姿とは違って撮れるのでしょう。
いや、そう撮れます。
新たな自分に気付いてもらえるような写真です。
と言い切ります。
今日からそうです私が決めました。

あとは「決して可愛いとか美しいとかを撮るものでない」というポリシーは値付けに値するでしょう。
そこに物語がある、物語を感じられる、そんな写真。
撮影の裏側でも、公開した反響でも、ストーリーでも、「語れる写真」を目指している点はいいフォトグラファーだと今日から宣伝文句にします

まったくのウソではないですが、少なからずハッタリです。
なんせ鳴かず飛ばずですし。
でもハッタリだろうはハットリだろうが、せやかて工藤、ゆうても「言ったもん勝ち」じゃけぇ。
私が決めた。今決めた。

文章もきっと自分で気づいてない特徴とか価値があるでしょう。
壁打ちしてたつもりが誰かにキャッチしてもらって、大事にしてもらっているのでしょう。
たくさん見た記事でもそう言われているのでそうです。
私のアウトプットを信じないことには、誰も信じてくれないのでしょうから。

終わりに:この記事のねらい

この記事の真の狙いは「ネガティブな記事をネガティブなまま終わらせない」こと。
今現在、鬱屈した心境にいるのは事実です。
それを吐露するだけなら、泥団子食べたカオナシ状態で「この後どう掃除するんや…はた迷惑な…」です。

なので自分の考えを捻じ曲げるしかありません。
ネガティブでいればそれ以上傷つかないですが、周囲に迷惑でしかないでしょうし。
私の考えを肯定的に否定して、矛盾を抱えたままハッタリをかますハッタリ記事に仕立て上げる練習です。
アトポキシン的な劇薬でも使わない限り、私の考えなど迷宮入りしてしまうでしょうから。

無理やりコナンにつなげたところで、じゃあな名探偵。

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