「ファインダー越しの私の世界」に「私」を感じて欲しくないのです。
「なぜ写真を撮るのか」
それは写真に望みを託したから。
どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。
「ファインダー越しの私の世界」ってご存じですか?
InstagramとかTwitterでキラキラした写真がたくさん投稿されるハッシュタグです。
このハッシュタグを字面通り受け取ると、写真という語の言い換えに過ぎないのでは?と度々思います。
写真ってファインダーから覗いた画を記録に残すわけですし。
もしくは「自己紹介は写真に代えさせていただきます」という自己表現の現れだと(原義はこちらが近そう)。
かく言う私も、風景写真では慣例でタグ付けしています。
特に深い意味を考慮しているわけではなく、タグ検索からの流入を期待しているだけなのですが。
しかしその一方で、写真から私という人物を想像したり想起したりして欲しくはない、という矛盾も抱えてもいます。
今回はそんなお話し。
写真に対する願望
「なぜ写真を撮るのか」
冒頭の問いに対する回答は、遡ること2年半前にnoteへしたためておりました。
別に撮られて魂抜かれるワケでもないのですが。
しかし私自身が記録として残ってしまうことへの絶望感は、どう表現したものか、うまく表現できない感覚ながらも強烈に存在するのです。
「自分は写らなくていい。撮ることで相手が喜んでくれたり、見る人の印象に残ったり、そういった影響を残せればいい。」という結論。撮られたくない、と撮りたい、は二律背反ではなく、同時に存在していても無矛盾であり、自身を表現する上で欠くことのできないアイデンティティである。
久しぶりに記事を見て「これが結論でええやん」になりそうな月曜日なのですが、掘り下げます。
プロレス撮ったり人撮ったり。
そんな中で浮かんでくるのは、「自分の夢を叶えてくれる」という感覚でした。
自分なら靴の先端であろうとバックパックであろうと影であろうと、見切れた瞬間絶望するのに、そんな行為を喜んでもらえる。
醜い自分が見た景色を、美しいと共感してもらえる。
これを夢と呼ぶほかないでしょう。
夢が叶うのです。
夢がかなう場所。
写真は心の舞浜なんです。
写真は私か
写真は夢であることが証明できました。
過言ですが。
さてここで「ファインダー越しの私の世界」の話を。
冒頭で自己紹介・自己表現の要素を含むタグだと申しました。
では「ファインダー越しの私の世界」は「私」でしょうか。
考えるまでもなく、単なる画像データですので「私」ではありません。
じゃあフィルムなら、と考えても化学反応のなれの果てですので「私」ではありません。
唯物論的な考え方は相容れなさそうです。
しかしその写真を、もといその風景を美しいと感じ、美しいと感じるように切り取り、美しいと感じるように現像したのは、まぎれもなく「私」です。
そんな「私の」感覚に共感してほしい、そんな感覚を抱く「私を」美しいと感じて欲しい、なんていう願望と言えましょう。
たとえば

私が好きな北鎌倉の光景です。
とても美しいです。
「美しいとは」という哲学は抜きにして、この光景が美しいのは事実としましょう。
その上で「この美しさを表現できる自分は美しいか、素晴らしいか」という問いは自明ではなく、人によっては他者からの承認が必要となります。
写真は私ではありません。
故に写真を評価することは、私自身を評価することと等しくはありません。
しかし私自身への評価も欲しい。
ここから話をややこしくしましょう。
「私」を感じないでください
じそん‐しん【自尊心】
〘名〙 自尊の気持。自分を尊び他からの干渉をうけないで、品位を保とうとする心理や態度。プライド。
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%B0%8A%E5%BF%83-520232
なぜ私が記録に残りたくないのか。
端的には自尊心の欠落で説明できましょう。
これを前提に話を進めます。
タイマーやリモコン、自撮り用の機材を使う場合を除き、写真を撮るときには撮影者本人は写りません。
しかし事実として撮影した本人という存在自体はあって、場合によっては写真から撮影者の影を感じとることもできます。


2枚ともメチャクチャ気に入っている写真なのですが、落ち着くのは1枚目です。
目線がカメラを向いているか否かの違いです。
決して目線もらってる写真を嫌っておらず好きではあるのですが、「私がそこに立っている」という事実はPhotoshopでも消し去れないし、見る人によっては存在を感じ取ってしまうのでは、と。
私が表現したいのは、その世界であって、物語であって、生き様です。
名作の絵本のような、作者がどういう人間かに拘わらず、だだ見えているもの自体が心地よいか否かで見て欲しくて。
写真はファインダー越しの私の世界だけど
写真は私ではないので
ファインダー越しの私の世界から私の存在を見ないでください
そこにわたしはいたくありません
…めんどくさい(#^ω^)
まとめ:写真は美しいのか
本稿を書くきっかけは単純でした。
「ファインダー越しの私の世界」から「女性のスカートの中身を写さんばかりの際どい世界をみるオッサン」を感じ取れる現実へのアンチテーゼ。
写真は美しくあってほしい。
おわり。
さて、目線の話からプロレスはいいぞ、というお話しへ。
本稿を書こうと思ったキッカケその2です。
3月26日に、とある選手の引退興行がありまして。
Twitterのタイムラインに沢山の言葉と写真が流れてきた時に、いろいろ思うことを書きたいなと。
たくさんの人を愛し、たくさんの人から愛されるあなたのことが大好きでした。あなたがいてくれたから今日まで私は東京女子のファンを続けてこれました。天満のどかというレスラーと出会えた人生で幸せでした。
— さかやき sakayaki (@sakayaki_SZK) March 27, 2022
2022.3.26 大手町三井ホール#天満のどか #tjpw pic.twitter.com/KrMnKcpaDy
私が「写真うまくなりたい」と思わせてもらえるカメラマンさん方は、真摯にプロレスへも写真へも向き合っている方々です。
機材や技術に関しては言及するまでもないですが、「美しい」と感じさせる姿勢や熱意を持っているなと。
私もかつて引退を見届けた者として、その居たたまれなさと送り出しができる感慨を多少なりとも理解しているつもりです。
その特別な瞬間に対して、自分の持っている技術や知識を総動員して、感謝をもって臨める姿勢に「写真の美しさ」はあるなとしみじみ。
写真に対する願望、私を感じないでほしい、でも私を認めてほしい。
どこまでも自分の写真はエゴイズムでした。
モデルさんに失礼ですので全否定はしないですが、果たしてエゴイズムから美しさは生まれるものなのか、と。
本来美しいはずの写真の、その美しさを引き出せるのか。
人間賛歌のような、ブルーハーツのような、泥の中にある煌めきを出せるのか。
先人たちのような写真撮りになれるのか。
ファインダーの手前に居る自分とは。
せめて誠実でありたいなと。
好きな歌手はビリー・ジョエル、そんな月曜日。
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素敵なカメラマン方々
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