「鑑賞は体験である」って考えて展示を作りたい|アート展の満足度
美術展・アート展に行って、いかに満足したかの指標って、作品のクオリティーだけじゃないんです。
「いかに良い体験だったか」が重要。
年に20程度の美術展・アート展へ足を運ぶ私。
入場無料のものもあれば、美術館などお金を払って見に行くものもあります。
その中で、観て感動したもの、満足したもの、不満なもの、と”いい展示だったか”という点で違いが出てきます。
美術展のつくり方であったり、キュレーションの方法については学術的に研究されている分野と思うので、下手に立ち入るのは危険と思いますが。
素人目線で感じていることについて書いてみます。
期待と発見
一番わかりやすい要素は「期待と発見」です。
特に計画して行く展示では重要な要素。
まずは「期待」。
例えばモネを含めた印象派の展示があったとしましょう。
多くの方はモネの睡蓮が見られると会場へ足を運ぶわけです。
そして実際に壁へだいだいと飾られている睡蓮を目にして「ああ~あの有名な睡蓮だ~」と感動して満足する、と。
わたしも同じような経験は何度もあります。
たとえば森アーツセンターギャラリーの「MUKA展」、バンクシーのかの有名なシュレッダーへかけられた風船を持つ少女の絵。
「おぉ~これがあの事件を引き起こした……そして近くに警備員いる仰々しさ……いろいろすげぇ……」なんて思ったものです。
そして「発見」。
事前に期待していなかったのに、現地で観たら感動してしまった、という作品があると充実の展示だなと。
常設展だとありがち。
私の記憶にあるなかだと、ポーラ美術館収蔵ののベルト・モリゾ《ベランダにて》とか、遠距離現在で展示されていたティナ・エングホフの〈心当たりあるご親族へ〉とか。
あとはSOMPO美術館にあるゴッホの《ひまわり》。
ロートレックの展示を見に行ったとき、最後の最後にゴッホが仰々しく飾られてて全部持って行った衝撃は今でも忘れられないです。
どちらもシンプルに「なにかいい絵が見られたなぁ」という具体的な事象を捉えたものです。
だったらもっと抽象的な話もできるはず。
作者と話せる
これは個展だったりグループ展だったり、作者さんが在廊しているとき限定。
制作背景やその意図、ステートメントに書ききれていないような思想なんかを訊いたり、自分の感想をぶつけてみたり、といった対面でのコミュニケーションです。
Web上で感想投げてもいいんですけどね。
展示する側の目線で書くと、わざわざ会場まで足を運んで感想言ってくれる人ってめっちゃありがたいんです。
そして観る側からしても、直接お話しするのは大事な時間だったりします。
作品を通じて何を伝えたいのか、何を見てほしいのか、作るうえで何を考え何を思ったのか、といった情報は全て伝えきることは出来ません。
崇高な作品であっても、最高なステートメントであっても。
それらはある一つの視点に過ぎず、ちょっとずつ情報を紡ぎ合わせていくことで自分なりの作品観を作り上げていくもの(かもしれない)です。
この点については過去に記事を書いています。
写真そのものの背景だけでなく、写真に対する考え方、被写体への思い入れ、モデルさんとの関係性など、話すことってたくさんあるのです。
そこに発見があるし、気づきがあるし。
同じ空間で、作品を前にして、色々語る楽しさというのはひとしおです。
考えさせられることがある
上述したティナ・エングホフの〈心当たりあるご親族へ〉は、2024年に観た展示で最も、これまで観たものでも5本の指に入るほど、私の中にインパクトを残した作品群でした。
当時の感想を記事にもしています。
エングホフの写真はジャーナリズム性にも作品性にも富んでいて、写真の本質を突き付けられたような感覚でした。
なにより「この場所には確かに人が住んでいて、しかしその人生は終わっていて、生々しい跡や生活の残骸が虚無を伝えてくる」ような、心臓を貫かれる悲しさ虚しさは、さまざまな思考を生み出させるのです。
別の展示を上げるとすると、2023年に東京都写真美術館で開催された「TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見」から。
齋藤陽道<感動>。
かなりの点数を壁一面に並べた作品群ですが、この中の一葉にとても惹かれたことを覚えています。
車いすの少年が浜辺で叫んでいる写真。
キャプションや解説がついているわけではないけど、何か伝わってきて、勝手に色々考えてしまう。
特に現代アートの領域で顕著ですが、社会課題への問題提起はアートにおいて重要なファクターとなっています。
孤独死、障害、格差、差別、犯罪、環境など、この世界において起きている社会課題を様々な切り口で表現すること。
写真のジャーナリズム性はこの点に非常にマッチしていて、鑑賞することでまるで当事者になったかのように考える時間を作らされる。
おそらく、美術展に行く一番の目的はこれになるのでしょう。
自分が考えも及ばない世界のことを、抽象的な表現を通じて届けてくれる。
その空間に足を運ぶことこそ、美術館が美術館たる意義なのではないかな、と。
鑑賞は体験である
タイトル回収。
「期待と発見」「作者と話す」「考えさせられる」。
別々の要素なようで、通底していることがあります。
それは展示空間という場における「体験」です。
お目当てのものが見られたという体験。
未知の新しい発見があるという体験。
気になっていた人と話せたという体験。
思考の世界に没入するという体験。
美術展に足を運ぶ意義というのは、この体験にあるのだと私は考えています。
この論を補強してくれるTEDスピーチをご紹介します。
私はよくロビーや展示室に行ってお客さんがくるのを見ています。
ある人は心地よさそうにくつろいでいます。自分の求めるものがわかっているのです。居心地の悪そうな人もいます。ここが威圧的で、エリート主義の牙城のように感じているのです。
私が打ち破りたいのはこの感覚です。私は観客を内省的な心理状態にしたいんです。(中略)見なれた物の中に未知のものを発見し、新しいことに挑戦しはじめるのです。
(中略)居心地が悪くてiPhoneやBlackberryをいじりたくなる人をとらえて、代わりに好奇心が広がる場所を作り出すのです。
https://www.ted.com/talks/thomas_p_campbell_weaving_narratives_in_museum_galleries?subtitle=ja
展示というのは、単に作品を飾るだけではないのです。
その場を通じて何かを掴んでもらう体験を提供することまでセットで展示なのです。
私であれば、写真に興味がない人、ポートレートに興味がない人、演劇に興味がない人に対して、何か興味を引いてもらえるような作品を提供すること。
写真がよく分からない人、ポートレートって苦手だって人、そして何より写ってくださるモデルさんに、鑑賞者の椅子を提供すること。
読んでくれる人がいるかわからないけど、文章という形で気づきを提供すること。
いち展示をする者としての視点は、どんな体験を提供するか指針を示すことです。
ですが限られた壁の中で表現できることってわずかです。
ならグループ展を開催する側に回ることも必要なのでは?と考え始めています。
どんな体験を提供する空間なのか、その対象は鑑賞者なのか、出展者なのか、はたまたそれ以外の人なのか。
でもいち出展者以上には出来ることは多そう、大変だけど。
結論:もっと鑑賞体験について考えた方がいい
これまで素敵な展示の話をしてきました。
これを機に読者たるあなたが鑑賞体験を求めて、どこかに足を運んでくれたらうれしいです。
ですが綺麗ごとだけでは済みません。
数々の展示を観に行けば、いいもの以上にそうでないものも多く見ることになるのです。
私が提唱したいのは、「みんなもっと鑑賞体験について考えた方がいい」。
展示初心者が語るのも違う気がしますが、鑑賞者側としては強く思う。
行く展示全て素晴らしくあれとは言いません。
合う合わないは当然起こりえるので。
でも「何を体験してほしくて設計されているか」が一端でも掴みとれない展示って行っても空しいです。
足を運ぶことで得られるものがあるということは、その作品や作者さん自身が鑑賞者へ向き合っているという証拠です。
「こんなに素敵な作品だから見れば分かるだろう」はそれはそれで良いですが、いち人間がやることなのであれば少し考えるべき。
作品の良し悪しは確かに大事。
でも同時に鑑賞者の視点に立つ必要もあるんじゃないかな?という気付きでした。
私と一緒に空間を作ってくださる方にも、いい体験を提供したいな、という気持ち。
おわり。
↓11/22〜24で写真のグループ展に出展します。
よろしく!

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