【方丈記】心が迷っているのか。あるいは、
鎌倉時代の歌人、鴨長明の作品。
移動式の草庵に独りで暮らした彼が五八歳の晩年(1212年)に書いたとされています。六二歳没。
「ゆく河の水は絶えずして、」と始まる冒頭を何度と見たか分からない。だから、今回はあえて別の箇所を引用して考えたいと思います。俗世から隔離して生き、達観した印象を放つ彼ですが、その一方で人間的な苦悩が感じられる一節を取り上げます。
柱や板の継ぎ目は掛け金で留めている
さて、六十歳になり、命の露も消えそうになるときに及んで、さらにまた梢の葉に結ぶ露のような、はかない住居を作ることになった。いわば、これは旅人が一夜の宿を作ったり、成長した蚕が繭を作ったりするようなものだ。それまでに生活してきた家と比べると、その百分の一にも及ばない住居だ。ああだ、こうだと言っているうちに、どんどんと年を取り、住居は移動のたびに狭くなっていく。
人の世から隠れるように移動して生活していたようです。

方丈記を書いた草庵があったとされる場所
移動式の草庵についても詳しく書いています。
その家は、世間一般の感じのものではない。広さはわずか一丈四方、高さは七尺ほどだ。建てる場所をきちんと決めたわけではなく、土台を組み、簡単な屋根を作り、柱や板の継ぎ目は掛け金で留めている。もし、気に入らないことがあったら、簡単によそへ引っ越せるようにという考えから、そのようにしている。
柱や板を留め金で仮どめしていたんですね。将来もし仮棲まいをすることになったら参考にしようと思いました。釘なんか打ったらバラすのに大変ですから。
自分の心にそんなふうに問い掛けても、心は何も答えなかった
仏の教えは、何事についても執着を持つなと説く。いま、こうして草案を愛することも、閑寂に愛着を持つことも、仏の教えに背くことかもしれないが、ただ、それはそれ、というだけのこととして過ぎていくだろう。
執着とはなんだろう。単純に持つだけでは執着とは言わない気がする。例えば、火事が起きて火の手が迫っているのに、愛着のある家から逃げられないことは執着と言えるかもしれない。
金に執着する
人に執着する
物に執着する
英語では obsession, attachment などになるでしょうか。前者は依存的な執着で、後者は軽い接着のイメージも含む気がします。
鴨長明は草庵に棲み続けることを執着として仏教に背くかもしれないが「それはそれ」として受け流しています。ある意味、教えに執着していないから、私は彼の考えが自然かなと思いました。
静かな晩に、この道理を考え続け、自分で自分の心に問い掛けた。世間から遠ざかって山林に分け入る暮らしを選んだのは、仏道修行のためだったはずだ、と。
ただし、彼の心には迷いがあるようです。
貧しい暮らしをしてきたせいで、心が迷っているのか。あるいは、迷いの多い心のために狂っているのか。だが、自分の心にそんなふうに問い掛けても、心は何も答えなかった。ただ、舌を動かして、阿弥陀仏の名を二、三度、唱えただけだった。
心が迷うことと迷った心のために狂っていることを分けて書いたのはなぜでしょう?よくわかりません。
「自分の心にそんなふうに問い掛けても、心は何も答えなかった」
と、死ぬまで気の迷いが消えなかったことを書き綴る正直さを、読みながら深く感じました。
状況や時代は違うけれど、自分の弱さを愛した「鼠」と似たものを感じます。
身を滅ぼしても、狂った世間や理不尽な社会に決して迎合しない本当の強さを両者から感じます。
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