【赤頭巾ちゃん気をつけて】芥川賞読んでいく:52冊目【1969年受賞作】
芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今回は1969年(第61回) 芥川賞受賞作 を読みました。
おまえたち正統派の方法ではどうしてもできないものを、異端者のおれが見つけてそしてやってやる
主人公のぼくは東京の進学校に通っていて、何事もうまくやるタイプ。東大の兄がいて、勉学に対する興味もある。
ある同級生が出てきてこう言うシーンがある。
おれの言うのは、繰返すけれどそういうおまえたちの生き方そのものなんだ。おまえたちがそうやって力を養い鍛えていく方法そのものみたいなもの、そしてその底に流れている自信というか力みたいなものだ。つまりおまえたちは一言でいえば正統派なんだ。そしておれはカーッと熱くなる。おれの中でおれのすごい野心みたいなものがカーッと目を覚ます。そして要するに一言でいえば、おれはおまえたちを、おまえをペースメーカーにしちゃえと考えたんだ。つまりおまえたちだって、おまえたちのやり方そのものじゃどうしても届かないようなもの、どうしても力及ばないものがおまえたちの生き方そのものの中にあるはずだ。それをおれは必ず見つける。
この気持ちわかる。自分も周りは正統派に囲まれて、その純粋な力を感じていた。学問というのはそういう力で迷いもしない方向性を持って確実に進んでいくものだ。
おまえたち正統派の方法ではどうしてもできないものを、異端者のおれが見つけてそしてやってやる。
安部公房の言葉を思い出した。
下の方に貯まるゴミと上の方に貯まるゴミ
時代を先導するのは結局ははずれもの
ほんとうの敵はおまえたちじゃあなくて他にいた
「問題はね。」と彼はそうして、またゆっくりと話し始めた。「問題はね、どう言うか、要するに簡単に言やあ、おれのほんとうの敵はおまえたちじゃあなくて他にいたっていうようなこと、つまりおれがおまえたちをおれのペースメーカー、つまり手強い敵として考え、おまえたちだけをマークしているうちに、いつの間にかほんとうの敵が足もとやうしろから来ていておれをバッサリやろうとしているっていうようなことなんだ。
この新しい敵ってのは、おまえたちみたいにはっきりとマークできるような見事な相手じゃない。なんともつかまえどころがないような得体の知れないような何か、いわば時代の流れそのものみたいな何かなんだ。
社会、社会の流れ、それを構成する人たち
逃げて逃げて逃げまくる
自分にとって重要な問題の見つけ方
「逃げて逃げて逃げまくる方法」というのがあるのだ。つまり、誰かがもしなんかの問題にぶつかったら、とにかくまずそれから逃げてみること、特にそれが重大な問題であると思われれば思われるほど秘術をつくして逃げまくってみること、そしてもし逃げきれればそれは結局どうでもよかった問題なのであり、それは逃げまくる力と比例して増えてくるはずで、つまり、逆にどんな問題にとっつかまってジタバタするかでそいつの力は決ってくる、だから逃げて逃げて逃げまくれ、そうして、それでもどうしても逃げきれない問題があったらそれこそ諸兄の問題で・・・・・。そうだ、でもそうしたらどうするのだろう?
逃げ切れれば、それはどうでもいい問題である。
逃げきれなかった場合は重要な問題であるという。
そして食べ物だけじゃない、着る物にしても持物にしても、ぼくにはどこか、そういったものは結局どうでもいいことじゃないかと思ってしまうようなそんな何かがあるのだ。何をどう食べようと何を着ようとどんな万年筆でどんなノートに書こうと、そんなことはどうでもいいことなんじゃあるまいか。
食べ物、着るもの、持ち物、確かにどうでもいいといえばどうでもいいものだ。
でもそうやって、どうでもいいどうでもいいと棄てていって、いったい何が残るのだろうか?
結局は何が重要な問題として残るのだろう。
多くのどうでもいい問題から逃げきり、そしてほんとうに重大な問題だけを見つけたとしても、その時にはもうそれを解決する力も時間もなかったということになったら、いったいどうなるというのだろう。
そういうこともある
そうなんだ、彼らはああやっていかにも若々しく青春を燃焼させその倍じるところをやれるだけやったと宿じきって、そして結局は例の「挫折」をして社会の中にとけこみ、そしてそれでもおおわが青春よ若き日よなどといって、その一生を甘さと苦さのうまくまじったいわくありげなものにして生きるのだ。
他人を追及するのは簡単だ。
重要な問題は何?と自分に問いかけた時、答えられるか
今回はこの辺まで
注目した文章は他にあるけど、なんとなく気分が乗らない。
いい本だったのになんでだろう
そして、それと同時にぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。つまりその先生と話していると、このぼくまでがそのちっちゃな精神の翼みたいなのをぼくなりに一生命拡げてとびまわり出すような、そんな生き生きとした歓びがあったんだ。そしてそんな自由でのびやかな快感に酔うと同時に、ぼくはうんと勉強して頑張って、いまにこの先生をワアーッと言わせてやるぞ、なんてえらく緊張してファイトを燃やしたりしちゃって......。
それとともに彼女の顔にすべて言葉ではとらえられないような表情が見え隠れするありさまを、すっかり魂を奪われたように飽きることなく眺めていた。ここにいるのは、明らかに一人前の見事な女性、たとえば「あなたは美しい」とか「きみはきれいだ」とかいった言葉がすべて空しく素通りしてしまうとでもいったような、素晴しい大人の女性にちがいなかった。
ぼくの体験、ぼくの知識、ぼくの記憶、ぼくの決意、ぼくの思い出、ぼくの感動、ぼくの夢といった、つまりぼくのすべてとの或るわけの分らぬ結びつきから生まれてくるものなのだ。そしてぼくは、いまのところまだわけの分らぬこのぼくのなかのさまざまな結びつきをできるだけ大事にしょう、その結びつきの一つとなるはずの一つ一つのぼくの出来事を大事にしようとそんなことをいつも思っている。たとえそれが女の子を泣かさないといった言ってみれば馬鹿みたいなことであっても、それがなんていうか要するにこのぼくのものである限り、いつかは必ずぼくの何かと結びついて、あるいはぼくをそれこそいろんなスレスレのところで、どっこいまだまだと辛うじて支えるものとなるかもしれない、なんて。
そしてこれはもちろん逆の場合もそうで、さっきの「イオニア派」じゃないが、敵はもうそれこそ頭にくるほどキビシクやってくる。愚痴を言うわけじゃないけれど、イオニア派なんてのは相当に情状酌量の余地ありと思うのだが、でもまあ相手は女の子で、こっちは男の子なんだからやむを得ない(のだろう?)。
たびたび出てくるイオニア派とはなんだろう
もちろんぼくは、こういうなんていうか、いわば現実を直視するスタイルに一種の美しさがあることは認める。何故って、ぼくたちが生きている限り、誰だって否応なしになんかの形で、この現実を直視するスタイルをとらざるを得ないにちがいないんだから。
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