見出し画像

【バリ山行】芥川賞読んでいく:51冊目【2024年受賞作】

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今回は2024年(第171回) 芥川賞受賞作 バリ山行 を読みました。

先日行った芥川賞の感想Note100記事読む企画では、100記事中15記事がこの本を取り上げていました。人気です。

(去年の作品だしそりゃ人気でしょ)と思ってましたが、読んでみるとその人気のわけがわかりました。読みやすいだけでなく、普遍的な問題が隠れています。

小説内では中小企業が大企業に吸収されるんですが、そうした社会レベルで生じるさまざまな問題を個人レベルでしかも山登りという日常的なテーマの中で描き上げたところが作品の特徴だと思います。


バリとは何か?

会社の登山サークルに参加した主人公はバリ登山というものを初めて知ります。

確かに踏み跡はある、なのでここもルートなのかも知れないが、そもそも登山地図に載っていないような径を歩いても良いのだろうか。

バリエーション・ルートという地図に載っていないようなルートを行くのがバリです。バリをやっている人(妻鹿めがさん)が会社にいる一方で、バリを非難する上司がいます。

「せやからあかんねんて、そういうのは。妻鹿やろ?俺は藤木さんにも言うたんやで。アレはあきませんよって。あんなもん危険行為やで。現場で言うたら不安全行動で、一発退場や。登山は紳士のスポーツや。せやからちゃんとルール守ってやらなあかんねん。ルールて何んや言うたら安全や。登山道を歩くなんて当たり前やねん。だいたい俺はソロ登山もどうかと思うねん。ひとりで登って、何もなかったらええけど、うっかりに滑落したらどないする?職場にも家族にもごっつい迷惑かけるやろ。想像力が足りんねんて。事故には全部原因があるんやで」

登山は紳士のスポーツらしいです。事故には全部原因があると言っています。

一方の会社は

お客さんから直接仕事をして受ける元請的な形態から、大企業に仲介してもらう下請けに会社は変わろうとしています。

そんな疑問と反発の声の噴出に先手を打つように「いろんなご意見はあると思いますが」と社長が口を開いた。これまでの客先に日参する「御用聞き」のような営業手法はもう古い。今後は元請業者と「ビジネスパートナーとして連携」し、安定経営を目指す。現場での勘や経験に頼る瓶工ではなく、ゼネコンの施工基準や管理体制を学び、「成長しないとダメなんですよ」と社長は語った。

https://shop.curama.jp/posts/159 

それは本当に成長なんだろうか。

元請工事を止めて下請工事に徹すれば、利益率は下がるが受注は安定する。数字の見込みが立つというのは経営側にとってはやりやすいのだろう。毎月、毎月、営業の進捗を追い、受注予測に神経を擦り減らして資金繰りを考える。見込みの案件が期中に入るのか、来期に持ち越すのか。思いがけず受注できることもあれば、またその逆もあるわけで、日々そんな胃が縮むような経営の苦しみは私にはわからないが、下請工事に徹することでそれらが解決するとは思えない。

人は安定したいという欲求を持っていて、この会社の変化もそれに依っているように見える。
人はなぜ安定を求めるのだろう?予測がしやすいからだろうか。不安定な状況では神経がすり減るというが、”神経がすり減る”とはなんだろう。


「私」は妻鹿さんとバリに行く

木立の中に猪を捕獲する為の巨大な鉄製の檻が据えてある。木立の道を抜けるとまた住宅街に出た。住宅地の端、山に続く道は赤色の柵で行き止まりになっており、「近づくと危険」という看板まで脇にあったが、表鹿さんは当たり前のように柵の隙間を抜けようとする。
「いいんですか?」続きながら訊く。「ん?大丈夫だよ。ここはメジャールートだから」

海の堤防には柵がよく張られている。釣り人たちはその柵を越えて夜な夜な釣りをする。それに似ている。
たまに誰かが通報して警察が来る。赤いランプを焚きながら「ただちに退去しなさい」とメガフォンでアナウンスする。釣り人はため息をつきながら柵を再び乗り越え帰路に着く。警察は黙ってみている。検挙も何もない。

こうしたルールは現代に溢れかえっているように見える。皆さんはどう思いますか?


「バリはさ、ルートが合ってるかじゃないんだよ。行けるかどうかだよ。行けるところがルートなんだよ」

と妻鹿さんは言う。

そして今日初めて、まともに歩く登山道の快適さに私は驚いた。念入りに整地されたような地面。土はフカフカと浮くように柔らかく、こんな道であればどこまでも歩いて行けそうに思った。整備された登山道というものがいかに人に優しく、歩く為に整えられたものであるのかを私は痛感した。「歩かされているんですよ」なんて槇さんが言っていたことの意味がわかった。

「私」はバリによって、いつも歩いていた道がいかに快適であったかを認識し始める。そして、厳しい自然の美しさに感動し、その厳しさにすら慣れてくる。ところが、足を踏み外し滑落する。

会社がどうなるかとかさ、そういう恐怖とか不安感ってさ、自分で作り出してるもんだよ。

「あれは本物だったでしょ?本物の危機、あれだよ」
「あれはほんと、怖かったです」
会社がどうなるかとかさ、そういう恐怖とか不安感ってさ、自分で作り出してるもんだよ。それが増殖して伝染するんだよ。今、会社でもみんなちょっとおかしくなってるでしょ。でもそれは予測だし、イメージって言うか、不安感の、感でさ、それは本物じゃないんだよ。まぼろしだよ。だからね、だからやるしかないんだよ、実際に」

と妻鹿さんは言う。死にかけた私はそんな言葉にモヤモヤしながら歩を進める。そして、疲れも手伝って感情が爆発する。

山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか!本物の危機は山じゃないですよ。街ですよ!生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!ズルくないですか?不安から眼を逸らして、山は、バリは刺激的ですけど、いや"本物"って、そんな刺数的なもんじゃなく、もっと当たり前の、ぼんやりした日常にあって、もっともっと怖ろしいもんじゃないですか。妻鹿さんも、弟さんー」言いかけて口を噤み、唾を飲み込んだ。

妻鹿さんは静かに聞き、何も意見せずに「いこっか」と言う。

本物の危機は山にあるのか、それとも街にあるのか?

不快ではなく寧ろ深い眠りに沈み込んでいたようなここちよさ

地図も地形図も見ずにそのまま淡々と歩くと、不意に身体が浮くように感じた。落葉を踏む音と呼気、そこに自分の心音が混じる。歩きながらそれを聞く。それらは勝手に同調し、反発し、跳ね、熱を帯びた身体の中で騒ぎ、酔いに似た感覚があった。酔いに任せ、私は眠るように歩き続けた。ふと断崖に行き当たって気づいて、自分はいつからそうして歩いていたのだろうかと戸惑った。歩いていた間の意識がすっかり抜け落ちている。それは奇妙な感覚だった。しかし不快ではなく寧ろ深い眠りに沈み込んでいたようなここちよさがあった。

ランニングをしていてもこの感覚に陥ることがある。釣りでもそう。同じ動作をただ繰り返すことで意識が消えていって心地よささえ感じる。

ダンス・ダンス・ダンスを思い出す

「踊るんだよ」
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしていくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

(上)p.164
羊男の言葉

こっちの世界とは、街のことではないだろうか?


今回の疑問




いいなと思ったら応援しよう!

たびくらげ ブックオフで100円の本買いたいです