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【海峡の光】芥川賞読んでいく:38冊目

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。読んできた中でいいと思った作品からNoteにまとめていきます。
背伸びせず、今持っている力でまとめていきますので冗長になります。計画性なしの見切り発車で書いていきます。前回まとめたのは、

もし読んでくれる人があるなら「ここの解釈はおかしいんじゃない?」とか「私はこう思うよ」とか「いいね」とか些細なものでもコメントしてくれたら嬉しいです。今回まとめるのは、

第116回(1996年)の芥川賞受賞作です。作者は辻仁成。


受刑者たちは、看守という像を恐れるのであって、私という個人を恐れているのではない

私は口を真一文字に噤み、目深に被った制帽の下からじっと彼らを見た。船長や単板長のように、親しみを幽ませながら接する立場とは違い、看守の私は権力の壁としてのみ存在の意味があった。威圧的に彼らの前に立ちはだかり、自由な世界と規律の世界との境界になる。彼らが間違いを犯さないようにその挙動を徹底的に監視しつづけ、時には力で不正を叩きなおすのである。

私の二つの眼球は、船上の彼らの上をゆっくりと移動した。どこに誰がいて、何をしているかをきちんと把握するために、彼ら以上にいつも神経質かつ俊敏でなければならなかった。温和な風が私の類を浚っていこうと、私は決して人懐っこい自然に対してさえ心を許すことはなかった。

3章

看守の私が船上の受刑者たちを見張るシーンである。(函館の)刑務所で働く刑務官として威厳を持っている様子が小説ではたびたび強調される。”権力の”という表現はその堅さを読者に認識させる。そうした規律の内側とシャバとも呼ばれる外側との間で揺り動かされる心情が描かれる。

船長が訓練生たちに向かって、がんばれよ、と掛け声をかけても、私は決して仮面をはずさなかった。監視者として彼らに隙を見せず、頑固な視線だけを飛ばした。彼らも決して私と視線を合わせようとはしなかった。監視される者たちにとって、看守は刑務所全体を認識する対象であり、同時に権威の壁の一つの煉瓦に過ぎない。受刑者たちは、看守という像を恐れるのであって、私という個人を恐れているのではない私という個人は、常に彼らの意識の外側にある

私は花井に対しては他のどの受刑者たちよりも感情を見せず、場合によってはより厳しく威圧し、幼い頃の私を彼の記憶が間違えても呼び戻さぬよう、高所へよじ登っては見下ろした。

私という個人は、看守の仮面を被っている。硬い殻の内側の柔らかな身は決して受刑者の意識に悟られてはいけない。
受刑者の中に花井という男がいる。看守である私と同郷で小学生時代には同級生だった。その頃から花井は優等生で成績も優秀だったが、私を虐めたり、猫をなんかしたり、残虐な内面を持ち合わせてもいた。小説を読んでほしい。

一生あそこから出られないんすからねぇ

狭い階段を酔った足でのぼり切り外に出ると、元受刑者の若い男が駆け寄ってきた。どうでしたか、と彼が言うので、楽しかったさ、と答えておいた。
「ちょくちょく寄って下さいよ。健全な店ですから、安心して遊べます」男は念を押すようにそう言った。去ろうとすると、背後から甲走った声が私を呼び止めた。なんか元気ないっすよ。明日も仕事すか?潮風を肺の中一杯に満たしてから振り返ると、当たり前だ、と強く浴びせた。男は黄ばんだ前歯を見せつけるように笑い
「俺らは暫くお務めしたらあそこから出られるけどもさ、おやっさんたちは大変すよね、一生あそこから出られないんすからねぇ」と大声で言った。

刑務所の中に閉じ込められているのは受刑者だけではなく、実は刑務官たちであることをほのめかす文章だ。と同時に、我々は何か名前のついていない大きな壁の中に閉じ込められているのではないか、そうも思わせる示唆的な文章でもあると思った。その名前のつかない何かを人は社会とか世間という名前で呼んだりするのでないだろうか。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、「世間というのは、君じゃないか」という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

人間失格

社会や世間という人を縛る権力的な構造の実体はいったいどこにあるんだろう。人間失格の上の文章はあまりにも有名である。実は世間の実体は目の前のあなたであるという指摘だ。だからこそ、《海峡の光》の私も権力の内側にはいるけれども、結局は私個人の考え方一つで境界を簡単に跨ぐことができると次第に確信していくのである。

世の中の外側にいられることの自由って分かるかい?

『……規律の中に自分を浸して生きることでの生活は、全く僕の理想とも言える。
日本中探しても、こんなに完全に制御されている場所はないだろうね。毎日同じ時間に起きて、決まった時刻に食事をし、勉強をして、一分も狂わず消灯になる。
施設は多少古いが、看守の皆さんは優しいし、それに紳士だ。…そっちにいた頃は、いろいろ欲しがったけれど、こっちではそんな気持ちは一切起こらない。
ねぇ母さん、世の中の外側にいられることの自由って分かるかい?』

面会に来た母親に対して花井が語る場面。
そっちとこっちという言葉から、彼も刑務所の中と外を明確に切り分けて考えていることがわかる。壁の外側ではいろいろ欲しがり、壁の内側ではそんな気持ちは一切起こらない。いったいどっちが壁の外側なんだろう?どっちがより自由なんだろう?自由とはいったいなんだろう、という問いを隠に含んでいる。

世の中の外側(我々が普段生活している場所)では、我々は食べたいものを食べ、ほしいものを買い、したいことをする。一番シンプルな意味での自由ではある。が、食べたい、買いたい、やりたいという欲望はしばしば膨らんでいくものだ。逆に、壁の内側ではそんな気持ちは一切起こらない。なぜだろう?
簡単にほしいものが得られると、さらに欲しくなってしまうから、という答えで満足できるだろうか。満足できないなら、これは知識欲か。なぜ知りたい、知りたいと思ってしまうのだろう。学ぶことは、買うことよりも一見自由に見える。だから、勉強は一般にいいものとみなされ、勉強していれば普通の人は「偉いねえ」という。でも、本当に偉いのか。

刑務所の壁の内では、足るを知れる。逆に、満たされるほど不自由になると言ったのは老子であった。コップにたくさん注いだら溢れちゃうよ、と。コップならどれくらいの大きさで、どれくらい飲み物が入っていて、あとどれくらい入れられるのかわかるけど、欲望の器という(ものがあれば)のは見えないものだから、どれくらい大きいのか知るのは難しい。何も注がない、というのは自然ではない。どれくらいが喉の渇きを癒すのに必要か知ることが自然であると思う。けど、プラクティカルにはどう知るのだろうか。

制服や制帽や手錠の権威の影に潜んで自分を正当化させるしかなかった

時々私は新入調(しんいりしらべ)の最中や、訓練の一瞬に、受刑者たちが自分よりもより広い世界で生きてきたような気がして怯むことがあった。やくざの組長を殺し損ねた者や、大麻を外国から大量に密輸した者、金融強盗事件を引き起こした者、刑務所に入ってくる男たちの理由は様々だったが、日常を逸脱して、社会のルールを踏み外した彼らの無謀と謀反に、道徳に沿って生きてきた自分には到底真似の出来ない無軌道な野性が宿っているような気がした。傷害や恐喝をした者を選めたたえるわけでは決してないが、自分が踏み入れない世界を歩いてきた彼らの狂気じみた人生の道程を、身分帳や本人の口から聞くたびに、常識の中でしか世界を把握できないできた自分が、彼らの何分の一も或いは何十分の一もちっぽけな、世間に媚びた存在に思えてしまうのは何故なのか。この愚かな、到底間違えているとしか言いようのない妄念が、自分の人間としての弱さから来ていることを思い知れば知るほど、私はいっそう小さくなり、制服や制帽や手錠の権威の影に潜んで自分を正当化させるしかなかった。

腑に落ちる。非常に素直な内面描写だと思う。
僕は刑務官ではないけど同じような気持ちを抱えたことがあるから共感できるのだ。例えば、そうだな、学歴というのは一つの権威だと思う。社会に出てみて学歴のない人間がどれだけ学歴を気にしているのか実感する機会が多かった。僕らは学歴なんて気にしないのだけど、持っていない人からすれば気になるのだろう。僕は学歴で人を判断することを本当に愚かだと思っている。学歴と何かしらの能力の相関は認める。が、考察の最中に、自分が培ってきた、自分にとって有利なバックグラウンドにテーマを引き込んで考える癖が、おそらく僕にはあったし、今でもあるだろう。自分の得意な領域で考えてみる、というのは悪いことではない。だが、思考のキャパは無限ではないし、時間も無限ではない。毎回、自分の領域で考え始めると、第二に別の観点から考えようとする時に疲れてしまうということがおそらくある。すると、見方というのは偏りが生じるような気がする。そして無意識のうちにそれは進行する。長なったが、これのプラクティカル(実践的)な解決策の一つは、まずは他人の意見を聞く、ということが挙げられると思う。完全に沈黙するのではなく、質問を織り混ぜて話を自然に引き出し(話をしていると引き出しているという自分主体の感覚はなくなる)、自分の認識で擦り合わせていく。旅をしていると、そういう機会が多い。

僕はここで一人の日本人と出会った。彼はWEBで仕事をしながら旅をしていた。大学の頃から自分で勉強していて、それをもとに生計を立てていた。
ここの宿は落ち着いて話ができるスペースがあるのでおすすめです。コンビニもご飯屋さんも近くにあるし、景色も悪くない。
人と話すと自分のちっぽけさ『自分の人間としての弱さ』が実感できる。弱さを実感するというのは簡単ではないと思う。そのうちこれについても書きたい。

両者を意識の中で巧みに棲み分け、その二つの次元を行き来する(分人)

煙草に火を付けようとしても風がライターの炎をすぐに吹き消した。救急車のサイレンが遠くで他人事のように鳴り響く。人通りの少ない小路を過っていく哀れな、そう見えただけで実際に哀れかどうかは人間なんかに分かるはずもない、一匹の痩せこけた黒猫を目で追いながら、この街から抜け出したいと私ははっきり考えていた。一対も早くここの全ての繋がりから自分を出奔させる必要があると焦燥に駆られていた。

9章

実際に哀れかどうかは人間なんかに分かるはずもない。自分の弱さを認識し始めた人間の心情がうまく表現されている。自分の弱さを認識するというのは、自分が思ったこと(あの痩せこけた猫は哀れだ)を疑う、ということだ。権威の中におかれることで自分に染みついていた錯覚(自分には価値がある、自分は強い)を振り払うためには、権威の外に出奔(しゅっぽん)するのが早い。

どんどん私の日常を裏切り破壊し細胞分裂を繰り返すこの現実の世界と、時が止まったままの変容しない世界。両者を意識の中で巧みに棲み分け、その二つの次元を行き来する。そんなことが実際に出来るなら私は解放されるのではないか。

ここは難しい文章だ。

分人”という言葉を思い出す。個人というのは一つのまとまりを持った自分のことだ。個人は “Individual ”というが、その否定の接頭辞 "In-" をとり払うと ”Dividual分人が出てくる。そもそも個人という英語を見れば”分けられないもの”という意味が隠に含まれているのだ。
分人というのは”分けられるもの”だ。何を分けるのか。人格である。
人はしばしば自分の人格が一つに定まっていないことで悩む。学生の頃に「君は明るい人間だね」とか「誰にでも話せるフレンドリーな人だね」と言われて、自分は明るい人間なんだとレッテルを貼ったりしなかったか?俺はした。そうすると落ち込んだ時などに自分の乖離した人格に悩んだり、あるいは「もっと明るい人だと思ってた」などど他人から言われた時にかなり傷つくことになる。これも全て人格は一つであるという幻覚から生じるにすぎない。そうする必要性が一体どこにあるというのか。

分人というのは平野啓一郎の造語だと聞くが本当だろうか。そうだとすればすごい発明だと思う。彼も芥川賞受賞者の一人である。

この本も面白かった。まとめたいと思います。

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