境界線の上を歩け 第六十一回
歩き始めてからどれくらい経ったのか、正確には見ていない。
だが、身体のどこかが“午前中”だと理解している。
街は、完全には消えていない。
低い建物。
整えられた芝生。
ガラスの奥で誰かがキーボードを叩いている。
だが——もう“仕事の街”ではない。
通り過ぎる場所だ。
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「お昼、どこでにする?」
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マユが少し前を歩きながら振り返る。
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「もう少し先だな」
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スマートフォンは見ない。
頭の中に入っている。
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「この辺りにあるはずだ」
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それだけで十分だった。
マユは何も聞かない。
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やがて見えてくる。
テラス席。
白いパラソル。
昼前の光を受けて、ゆっくりと人が集まり始めている。
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Cafe Borrone
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「ここ?」
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「ああ」
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店に入る。
焼きたてのパンの匂い。
コーヒーの苦さ。
誰かの笑い声。
どこにでもあるはずの空間なのに、少しだけ違って感じる。
それは——歩いて来たからだ。
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サンドイッチとサラダ。
それと、コーヒー。
マユはフォークを持ったまま、少しだけ空を見た。
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「なんかさ」
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「うん?」
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「“移動してる”感じするね」
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その言い方に、少しだけ笑う。
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「車じゃ分からないやつだな」
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「うん」
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一口食べる。
パンの温度。
野菜の水分。
単純な味。
それでいい。
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店を出ると、日差しが少し強くなっていた。
午後に入っている。
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「…あとどれくらい?」
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「半分くらいだな」
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「…ほんとに?」
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「嘘は言わない」
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マユが小さく笑う。
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歩く。
同じような道が続く。
だが、同じではない。
足の裏が、それを知っている。
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リズムが、少しだけ揃ってくる。
最初のぎこちなさは消えている。
無言の時間が増える。
それは悪くない。
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やがて、街の気配が戻ってくる。
車の数。
人の声。
信号のリズム。
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「今日の目的地に着いたな」
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視線の先に広がるのは、
Palo Alto
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完全な都会ではない。
生活がある。
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ホテルの前で立ち止まる。
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「ここだ」
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「もう決めてたの?」
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「一応な」
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フロントでチェックイン。
手続きは短い。
鍵を受け取る。
それだけで、今日の“終点”が確定する。
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部屋に入ると、マユがベッドにそのまま座り込む。
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「……あー」
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声にならない声。
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「どうだ?」
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「…普通に疲れた」
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「だろうな」
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だが、その顔はどこか軽い。
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シャワーを浴びて、少しだけ休む。
外の光が、ゆっくりと色を変えていく。
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「夜、どうする?」
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マユがベッドの上で転がりながら聞く。
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「近くでいい店がある」
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「もう調べてあるの?」
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「歩く前に全部見てる」
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「……さすが」
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呆れたように笑う。
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夜。
静かな通りを歩く。
昼とは違う顔。
少しだけ落ち着いた空気。
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入ったのは、
Trellis Restaurant
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ワインを一杯。
軽めのパスタ。
温かい料理。
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マユがグラスを傾けながら言う。
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「ねえ」
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「うん?」
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「まだ一日目だよね」
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「ああ」
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「なんかさ——」
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少しだけ考える。
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「もうちょっと先に行ってる感じする」
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その言葉を、しばらく考える。
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「それはいいことだな」
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「うん」
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静かに笑う。
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店を出る。
夜の空気が、少し冷たい。
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ホテルへ戻る道。
並んで歩く。
昼とは違う足取り。
少しだけ、重い。
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だが——
止まらない。
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「明日も、歩くんだよね」
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「もちろん」
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「どこまで?」
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「…まだ決めてない」
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「珍しいね」
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「明日、考えるさ」
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マユが笑う。
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部屋に戻る。
ベッドに倒れる。
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身体が、静かに沈む。
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一日目が終わった。
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だが——
まだ、何も分かっていない。
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それでもいい。
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二人は、もう歩き出している。
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