第33章 証拠にならなかった日々
――写真にも、証言にも、ならなかった時間――
裁判が始まってから、私は何度も写真を見返した。
りんご狩りをしている父と母。
田植え機を運転する父。
餅をつく父。
ブルーベリーの苗を並べる私。
柿の苗木を植える父。
蜂を追いかける父。
流しそうめんを囲んで笑う家族。
どの写真も、裁判のために撮ったものではなかった。
その日は、ただその日を楽しみたかっただけだった。
田植えの日も、稲刈りの日も、私は父の隣にいた。田植え機の運転を覚え、コンバインの使い方を教わり、もち米は一緒にはざ掛けした。
年末になると、そのもち米を使って家族や友人と餅をついた。父は手返しをし、私は杵を持ち、妻は出来上がった餅を伸ばしていた。
それは毎年繰り返される、我が家の冬の風景だった。
畑では、玉ねぎを植え、ジャガイモを植え、自然薯を育て、夏野菜を収穫した。余った野菜は親戚や近所の人へ渡した。
誰かに評価してもらうためではない。ただ、食べ切れないほど採れたからだった。
ブルーベリーも同じだった。父は「枝はこう切るんだ」と言い、挿し木の方法を教えてくれた。私は教わった通りに毎年繰り返した。
一本、また一本と苗木を増やし、失敗した木もあれば、枯れた木もあった。そのたびに培養土を変え、植え替えの時期を変え、少しずつ方法を修正した。
今では二百本を超える苗木を番号で管理し、どの培養土が育ちやすいかまで記録している。
柿も同じだった。干し柿を作る農家へ見学に行った日、父は「この柿なら甘くなるかもしれんな」と話し、私は苗木を探した。
同じ頃、みかんの木も数本植えた。この土地で育つのかを確かめるためだった。
数年後、柿はたくさん実るようになった。父は干し柿を作り始めた。
家の一部屋を、柿を干すための場にしていた。甘くなるまでには、ひと月近くかかる。
干し柿まで作れるようになった父は、次はりんごだと話した。いつも二人で出かけていたりんご狩りの農園で、育て方を聞いてきていた。
私は、その言葉を聞きながら、どこへ植えたら日当たりが良いだろうと考えていた。
十二月、父は入院した。
干し柿は、父の口には入らなかった。
三月、一時退院した父が、私にジャガイモを植えるよう言った日。父はメモ帳に、次に植える苗木の候補を書き留めていった。
みかん、ブルーベリー、そして、りんご。
注文書にも、同じ苗木が書き込まれていた。
その後まもなく、父は再び入院した。
病室で、父は私に言った。
「注文書を書いたから、実家にあるのを郵便局に出しておいてくれ」
それから間もなく、父は亡くなった。
注文書は、出すときを失った。
りんごの木は、植わっていない。
裁判では、これらは「管理主体性」「営農継続性」「死因贈与」という言葉で整理された。
生活そのものではなく、法律上意味を持つ部分だけが取り出され、評価されるからである。
しかし、父と過ごしていた当時、私は「これは将来の証拠になる」などと一度も思ったことはなかった。
ただ父と一緒に畑へ行き、苗木を植え、収穫し、餅をつき、笑っていただけだった。
父が亡くなったあとも同じだった。四十九日までに終えなければならない数多くの手続を、一つずつ進めた。
年金、保険、銀行、公共料金、農協、相続財産の整理。
母がこれからも安心して暮らせるように確認し、必要な手続を続けていった。
それらも裁判では、ほとんど語られなかった。
けれど、私にとっては、それもまた生活だった。
裁判を経験して、私の中に残ったことがある。
証拠とは、生活とは別に存在するものではない。
生活の中から、あとになって法律という物差しで切り取られた一部分なのである。
そして、あとになって意味を持ったのは、証拠にするつもりのなかった記録のほうだった。
訴訟が始まるより何年も前に残されていた、という理由で。
だから、証拠にならなかった日々は、存在しなかった日々ではない。
むしろ、証拠にならなかった時間のほうが、人生の大部分を占めている。
判決文には書かれない。
尋問でも語られない。
争点にもならない。
それでも、
確かに存在していた日々がある。
だから私は、その時間だけは、「証拠」ではなく、「生活」として残すことにした。
🌸この記事は連載
『それでも、家族と暮らしたかった』の一章です。
家族の生活が、ある日
「証拠」と呼ばれるものへ変わっていく。
その過程を、順番のまま記録しています。
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