第32章 5メートルの距離
――声より先に、事実があった――
それは、ほんの5メートルほどの距離だった。
声を荒げる必要も、身振りを交える必要もない、十分すぎる間隔だった。
遺産相続の調停が始まっていた。その途中で、母も亡くなった。
年末に葬儀を行い、四十九日の法要を終えて、ようやく少し落ち着いた頃だった。
実家の庭先で、相手方夫婦の姿を見かけた。
葬儀に弔問いただいた共通の知人へお礼を伝えるため、記帳された連絡先を確認したいと、私は相手方に頼んだ。
相手方は言った。
「個人情報だから渡せない」
その直後だった。相手方は携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「暴力を受けています」
「痛い、痛い、やめろ」
電話口に向けて、そう聞こえる言葉が発せられた。
私は、少し離れた場所に立っていた。互いに触れることも、近づくこともない距離だった。
しばらくして、二人の警察官が到着した。相手方が電話をかけた先は、110番だった。
私は、疑われる立場に置かれた。
けれど、慌てなかった。
相手方に暴力を行使していないこと。相手方夫婦に会う直前から、すべてのやり取りを録音していたこと。それを、そのまま警察官に伝えた。
録音は、会う前から始まり、警察官が到着するまで途切れていなかった。
警察官は録音を確認し、状況を整理した。私は、そのまま帰宅した。
あの録音は、偶然残っていたものではなかった。
以前、相手方から受けた暴力について警察へ相談した際、こう助言を受けていた。
「話すときは距離を取り、できるだけ記録を残してください」
私は、いつでも録音を始められるよう、iPhoneのボイスメモを使えるようにしていた。その言葉を、守っていただけだった。
誰かを陥れるためではない。自分を守るためだった。
その録音には、選び取られた部分がなかった。会う前から終わりまでが、順番のまま残っていた。
大きな声は必要なかった。
5メートルの距離。
残っていた録音。
その二つが、私の代わりに事実を語った。
その日、私を守ったのは、声ではなかった。
暮らしの中で残った、一つの記録だった。
🌸この記事は連載
『それでも、家族と暮らしたかった』の一章です。
家族の生活が、ある日
「証拠」と呼ばれるものへ変わっていく。
その過程を、順番のまま記録しています。
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