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【章間コラム4】 医学的条件の重なり

――意識があることと、判断が安定していることは同じではない――


母は、普通に会話をしていた。返事もできたし、こちらの言葉も理解しているように見えた。だからこそ、私は迷っていた。

――その状態を、「判断できている」と呼んでよいのかどうか。

会話が成立することと、判断が安定していることは、同じではない。

日常生活では、このような状態は「判断能力に問題はない」と受け止められがちである。だが臨床では、意識が清明であることと、複雑な判断を安定して行えることは同義ではない。

判断とは、単に言葉に反応できることではない。情報を理解し、その意味と結果を見通し、複数の選択肢を比較し、一貫した基準で選ぶという、複数の認知過程の統合である。

この統合は、どこか一箇所が途切れても、外からは分かりにくい。

返事はできる。話も始められる。だが、その先が続かない。時間の枠は口にできても、その中身が伴わない。そうした形で現れることがある。

そしてこの統合は、身体的条件の影響を受けうる。だから私は、結論ではなく、条件を見ることにした。

私は診断を書かない。書くのは「条件の重なり」だ。

1 呼吸状態と酸素供給

肺がんの進行に伴い、母には咳や呼吸困難の症状が現れていた。呼吸状態の変化は、血中の酸素濃度に影響を与えうる。

脳は酸素供給に強く依存する臓器であり、酸素供給が低下した状態では、

- 注意力の低下
- 反応速度の遅延
- 思考の柔軟性の低下
- 判断の安定性の低下

などが生じうることが知られている。

数値だけを見れば、わずかな低下に見えることがある。だが臨床研究では、酸素飽和度(SpO₂)が90〜94%の範囲にあるとき、実行機能――計画を立て、判断し、抑制する働き――の低下が顕著に現れると報告されている。

しかも、その数値が酸素を投与した上でのものであれば、意味は変わる。補われてなお届かない、ということだからである。

こうした変化は、必ずしも外見に現れない。

会話が可能で、日常的な受け答えに大きな問題がないように見える場合でも、複雑な判断においては影響が生じることがある。

2 炎症・栄養・全身状態

進行がんの状態では、体内に持続的な炎症反応が存在することが多い。炎症は身体だけでなく、脳機能にも影響を及ぼしうることが知られている。

また、栄養状態の変化、体重減少、全身倦怠感といった要素も、認知機能に影響を与える可能性がある。

これらは単独では軽微に見える場合でも、複数が重なることで、判断の安定性に影響を与える条件となりうる。

3 医療用麻薬(オピオイド)の作用と、生活上の使われ方

オピオイドは緩和医療において不可欠な薬剤であり、適切に使用されれば患者の苦痛を大きく軽減する。その使用自体は、適切な医療的対応である。

一方で、オピオイドは中枢神経系に作用する薬剤であり、

- 眠気
- 注意力の低下
- 思考速度の変化
- 反応時間の延長

などが生じることがある。多くの場合、日常生活は維持可能であり、意思疎通も可能である。しかし、複雑な判断が求められる場面では、影響が現れる可能性があることも臨床では知られている。

オピオイドの使われ方には、幅がある。症状のために必要な範囲で使う状態から、心の苦しさへの対処として使う状態、そして依存へと至る状態まで、それらは切れ目なく続いている。

その途中にあたる状態が「ケミカルコーピング」と呼ばれる。痛みや身体症状を和らげる範囲を超えて、不安、孤独、眠れなさへの対処として薬が使われる状態を指す。

どこかに境界線が引かれているのではない。連続している。だから「依存症か、そうでないか」という二択で捉えようとすると、その途中にある状態が見えなくなる。

この状態は、強い不安や苦痛の中で、患者が耐えるために選び取る一つの適応様式として理解されることもある。

それは弱さの表れではなく、その人が置かれている状況の厳しさを示す現象である。

4 「単独」ではなく「同時に」起きること

重要なのは、どれか一つではない。それらが、同時に存在していたということである。

そしてそのとき、判断は「できる/できない」ではなく、「揺れる状態」として現れることがある。

- 低酸素状態
- 炎症反応
- 全身状態の変化
- 医療用麻薬の使用

これらが重なった場合、その影響は単純な足し算ではなく、より複雑な形で現れることがある。臨床においては、このような状況では判断の安定性について慎重な観察が必要とされる。

5 変動するということ

先に「揺れる状態」と書いた。この揺れには、医学的な名前がある。

高齢であること、酸素が足りないこと、体の中で炎症が続いていること、医療用麻薬を使っていること、入院という環境の変化。これらを背景として、注意力や思考のまとまりが一時的に損なわれる状態を、せん妄という。

その最も重要な特徴は、変動することである。

分単位、時間単位、日単位で状態が変わる。落ち着いている時間帯があり、そうでない時間帯がある。一時的に症状がほとんど見えなくなる時期もある。

つまり、ある時点で「問題なし」と観察されたことは、別の時点でも同じだったことを意味しない。

母について、医療側は早い時期からこのリスクを把握していた。薬剤師の記録には「せん妄リスク薬あり」と繰り返し記され、転倒の危険度は高く評価され、入院時には家族向けの説明用紙が渡されていた。制度上も、せん妄のリスクが高い患者として扱われていた。

これは、せん妄と診断されていたという意味ではない。そうではなく、変動しうる状態として、継続的な観察が必要だと判断されていた、ということである。

そして、継続的な観察が必要だとされる状態について、ある一日の、ある時刻の記録だけを取り出して、その前後を推し量ることはできない。

6 記録と生活のズレ

裁判では診療記録が重要な資料となる。それは医学的判断の基盤でもある。だが患者の状態は診察室だけで完結しない。

問診は、その場で尋ね、その場の答えを記録する。

答える側が、いま何に困っているかを思い出せる状態にあるかどうかまでは、問診票には現れない。

生活の中の変化は、継続的に接する者が観察することが多い。医療記録は重要だが、生活全体を完全に反映するものではない。

私は医師の判断を否定したいのではない。生活で観察されていた変化と、記録に残る内容に、異なる側面があり得ると理解していた。

7 当時、私が立てた臨床疑問(CQ)

私は母を評価したいのではない。ただ、当時どのような条件の中で意思が形成されていたのかを、観察者として理解したいと考えた。そのため私は、医療者として次の問いを設定した。

以下は、医療者どうしが議論するための形式で書いてある。読みにくいかもしれない。だが、この形でなければ文献を探せない。問いを厳密にしなければ、答えも厳密にならないからである。

CQ1:進行がんによる慢性的な低酸素状態(酸素投与下でSpO₂94%前後)は、法的行為に必要な高次脳機能(判断力・実行機能)に、恒常的かつ不可逆的な器質的障害を確立させたといえるか。

CQ2:疼痛がない状況でのレスキュー薬(強オピオイド系・速放性・医療用麻薬)の頻回使用は、公的基準上、単なる「身体的苦痛や不安に対するやむを得ない対処(セルフ・ケア)」に分類されるか、それとも自己制御力及び洞察力の低下を伴う慢性オピオイド精神依存との整合性を検討すべき状況に分類されるか。

CQ3:終末期患者に見られる「症状の変動」は、法的に安定した意思能力の証明となるか、あるいは意思能力に影響しうる急性脳症(せん妄)の存在を疑わせるものか。

文献を検索し、公的ガイドラインや臨床研究を参照し、仮説を批判的に吟味する。それは結論を導くためというより、状態を正確に理解するための手順である。

ここで残したいのは結論ではなく、判断が「安定しにくい条件が同時に存在した」という構造である。

判断は単一要素では決まらない。

だから私は、当時の条件を、順番のまま並べておく。

それが、私にできる記録の形だった。





🌸この記事は連載
『それでも、家族と暮らしたかった』
の章間コラムです。

家族の生活が、ある日
「証拠」と呼ばれるものへ変わっていく。

その過程を記録しています。


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