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死者の書に導かれ中将姫伝説の當麻寺へ【Re紀行文】


※奈良再訪にあたりリライトしたものです。

死者の書に導かれて

 奈良盆地の南西に位置する當麻の地へ向かう朝、私は少し早めに目覚めた。空はまだ白み始めたばかりで、窓の外の景色はかすんで見える。

 静岡から車で4~5時間ほどの道のりであるが、その距離以上に、遠くの地へと来たという感じがする。
 私が當麻の地を目指したのは、民俗学者であり小説家であり、そして歌人であった折口信夫(釈超空)の「死者の書」に導かれたから。
 彼は、膨大な作品や論文を残しているが、小説家としては「死者の書」が唯一といっていいほどの作品だ。
 しかしこの作品はとてつもない奥行をもったものであり、読後、私の中でずっとこの異世界からの香りが燻っている。

當麻寺の門をくぐり、當麻曼陀羅と曼陀羅厨子を見学

 當麻寺は、用明天皇の皇子・麻呂子親王が建立したと伝わる古刹である。 
 當麻寺はもとは相撲でも有名な當麻氏の氏寺だった。

中将姫伝説の解説版より

 そして、ここに伝わる中将姫伝説は、その悲劇的な人生と美しい曼荼羅の話から様々な作品を生み出す元となっている。​

 朝9時ごろの當麻寺の山門付近からは、遠くに二上山がくっきり見えた。
 人気も少ない境内を歩く。落ち着いた山間の寺院を歩くとき感じる、安らいだ心地があった。

 中将姫の曼陀羅が収められていたという奥の本堂まで行く。​現在は、奈良国立博物館にオリジナルを収蔵しているとのことだ。
 ​中将姫が一夜で織り上げたとされる蓮糸の曼荼羅(根本曼荼羅)は、伝承では蓮糸であるが、実際は絹糸であり、また舶来品の可能性も指摘されている。​ 
 しかし重要なことは、この国宝により紡がれてきた信仰、そしてこの曼荼羅によって生み出された写本や演劇、文芸品などがあることである。

當麻曼陀羅が収められている本堂

 この本堂で現在みられるのは、第2回転写の文亀本と呼ばれる後代に転写されたものである。​当時の最高の技術が用いられたはずであり、複製とはいえ、その価値も相当であり、文亀曼荼羅も重要文化財である。

 ​曼荼羅の意味自体は、高度な理論や宗教上の意味があるのだろうが、機能としては言葉がわからない人への布教であると思う。
 ​當麻寺の人に聞いたが、当時この曼荼羅は裏打ちがない形で吊られており、本堂の裏手から差し込む日の光が透けて光り輝くようになっていたと聞いている。​まさに極楽浄土を見せる映画スクリーンのような役割を果たしていたのであろう。

中将姫信仰が変えた伽藍の配置

中将姫ご縁日 練供養会式では、観音様の仮面をつけ練り歩く

 中将姫ご縁日練供養会式では、演劇のような形で中将姫が極楽に迎えられる様子が再現され、この道を通っていくそうだ。
 民衆芸能的な趣があり、陽気な催しであると思った。機会があればぜひ見てみたい。

 お寺の方から面白い話を聞いた。
 「昔、當麻氏の氏寺だったころは、現在の本堂はメインではなく、手前の金堂とその対面の講堂こそが、仏像が安置されている「本堂」でしたよ。」
 當麻氏の氏寺としての性格が薄れ、中将姫の當麻曼荼羅詣でが盛んになり、現在の本堂が正面にくるように変わったのだそうだ。

写真正面に見えるのが現在の本堂。手前女性がいる建物が金堂(本堂の前の拝殿のようなもの)

 伽藍の配置が九十度回転したことになる。
 金堂と講堂が正面とされていたころの當麻寺の参道は、相当な広さがあり、大陸からの使者を迎えることもあったそうだ。
 それが、民衆の信仰の力により、曼荼羅を本尊とする現在の本堂へと向きを変えた。
 これは、建物の配置という物理的な変化だけではなく、信仰の重心そのものが変化したことを意味していた。もはや當麻氏の氏寺ではなく、庶民の信仰を一身に集める、中将姫伝説の寺となったのである。

本来の参道。現在その向こうには別の寺がある。

 中将姫がみた極楽を描いた曼荼羅。ここに宿る不思議な力、いや、極楽そのものを見た人々が、この地に集まり、救いを求めたのだろう。
 それは、時間をかけて滲み出るように、人々の足跡によって、新しい参道が自然と生まれ、やがて現在の配置に変化していったのだ。
 「極楽往生」などという言葉を空疎にしか感じなかったが、今この光景の中で改めて、中世の争乱、苦しみの生活の中で真に希求した人々の信仰に思いをはせる。
 光に透ける曼荼羅、練供養に込められた願い、それは美術作品でも演劇でもないのかもしれない。

金堂の裏手に伸びる道を挟むように東西に塔がある。中之坊の庭園内の蓮池から東塔を望む

二上山に沈む日 ーー万葉集の世界

 二上山といえば、思い起こされるのは万葉集に記されたこの哀歌である。

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌
うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む

万葉集 巻二 一六五番歌

 弟・大津皇子が無念のうちに処刑された後、姉である大伯皇女は、その屍が葬られた二上山を見つめながら歌を詠んだ。

 今日までは、まだ記憶の中に面影を鮮やかに思い起こすことができる。しかし、明日からは、その記憶も徐々に薄れていくだろう。やがて、その姿は心の中から消えてしまうかもしれない。そうなったとき、私は二上山を、弟の象徴として見つめ続けるだろう――
 この歌は、そうした喪失と祈りの情を静かに湛えている。

大津皇子座像(奈良国立博物館) 静かな悲しみを湛えている

 『死者の書』の中将姫もまた、同じ二上山に仏を見たと伝えられている。
 この山の形が、特に特異であるようには見えない。

當麻寺からの二上山

 だが、だからこそ、そこには何かがあるのかもしれない。山そのものの造形ではなく、その地に幾重にも折り重なる物語や伝承が、私たちの心に印象を刻みつけているのだろう。

 先人たちの歌や歴史が、実際の風景に深い陰影、時には艶やかな彩を与え、後代の私たちの中で、それぞれの物語を想像させてくれる。文学の力というのは、そうした力をも持つのだと思った。

 中将姫伝説の中で、彼女は仏を感得し、多くの苦難を経て浄土に至る。
 家のしがらみを捨て、当地で隠れるように住んだ一人の女性に、人々は自らを重ねて、やがて独自の信仰を作っていった。
 それは、仏教の理想や理論を離れたところで「祈らずにはいられない」ものなのだと思う。

 そして、そのとき曼荼羅のような「かたち」があることは、救いのひとつでもある。それが目に見え、触れられ、その前に立てる。その場を維持する人々がいて、そこにまた誰かが手を合わせるという営みが、目の前にあった。
 曼荼羅は、円環であり、終わりのない祈りの象徴でもある。


余禄:當麻寺の中之坊 蓮の花の季節にまた訪れたい

 當麻寺の伽藍をじっくりと巡り、その中之坊の庭園も訪ねた。
 この日は一日中、空には厚い雲が垂れ込めていたのだが、奇跡のように、庭を歩いているあいだだけ陽が差し、草花がきらめいて見えた。

當麻寺中之坊内の庭園にあった釈超空の和歌

 もしも蓮の花の咲く季節に、この庭園を訪れることができたなら、きっとそこには、極楽浄土のような風景が広がっているに違いない。

この記事は、以前に公開したものをリライトしたものです。

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