豊かな森の文化が栄えたムラ 世界遺産の三内丸山遺跡-縄文時遊館【紀行文】
縄文時代の北海道と東北には、独自の豊かな縄文文化が広がっていました。特にその中でも、青森県にある三内丸山遺跡は、6本の巨大な木柱が空に向かってそびえていた巨大な集落。
栗林が広がる豊かな自然の中で、縄文時代の人々はどのように暮らし、何を考え生きていたのでしょうか。
今回は世界遺産にもなった東北の縄文文化を巡ってきました。

夜行バスで青森へ
これまで中部高地の縄文中期の土器や土偶を多く見てきましたが、北陸や東北の遺跡や土器を見たいという思いが強くなり、昨年は北陸へ、そして今年は東北へと旅をすることにしました。
私の住む静岡から青森県まではかなりの距離。なかなか交通費もかかる中、今回思い切って夜行バスで青森まで行ってみることにしました。
まだまだ残暑が厳しい、9月の連休、満員の夜行バスでいざ東北へ!



さすがに疲れた・・・
20時台に横浜駅を出発し、青森までバスに揺られること12時間。体の節々の痛みに耐えながら青森駅に着いたのは翌朝9時半でした。
そこからすぐに青森駅から三内丸山遺跡行きの市営バスに乗り、揺られること30分。
ついに特別史跡三内丸山遺跡にたどり着きました。

さて、その内容は?
運良く晴天に恵まれたこの日。本州関東地区ではまだまだ暑い日々が続いていましたが、この辺りは秋を感じる涼しさ。遺跡を巡るには絶好の日和でした。
三内丸山遺跡とその周辺
少し三内丸山遺跡やその周辺の情報をお知らせします。
遺跡は青森県青森市の中心街からほど近いところにあり、東北自動車道の青森ICからすぐです。
三内丸山の「内(ナイ)」は沢地や川などを表すアイヌ語由来の地名要素から来ていると言われています。周囲よりも高台にあり、縄文海進のあったころは、5mほど海面が高かったため、集落の近くに入り江があったようです。
現在は近くに沖館川が流れています。
また、隣には奈良美智さんや青森市出身の棟方志功の作品などを楽しむことができる青森県立美術館があります。


この記事はまた別に作成予定
三内丸山遺跡は1997年3月5日に国の特別史跡に指定され、2021年7月27日にユネスコにより北海道・北東北の縄文遺跡群として世界文化遺産に登録されました。
その中でも、エース級の遺跡が三内丸山遺跡。1992年から始まった発掘調査で、縄文時代前期から中期(約5900-4200年前)の大規模な集落跡が見つかりました。
青森市周辺は、驚くほどの平地が広がっており、山並みも穏やかに感じました。現在よりも気候が温暖だったと言われる時代、とても住みやすい場所だったであろうことは、なるほど、想像ができました。
縄文時遊館で事前学習
巨大な資料館が「縄文時遊館」として整備されており、近くには物販施設やレストランなどがあります。
早速、縄文時遊館の中に入ってみます。
エントランスでは、巨大な縄文土器が出迎えてくれました。また、縄文の服装を体験できるコーナーもあり、ここで縄文人になり切ってから、館内を旅するのもいいかもしれません。

観覧時間は10月~5月が9:00~17:00、6月~9月とゴールデンウィークは9:00~18:00
奥に進んでいくと三内丸山遺跡で発掘された遺物を展示する「さんまるミュージアム」があります。時間限定ですが、この資料を解説しながら歩いてくれるサービスもあるようです。
また、三内丸山遺跡では、30分に1回ほどの間隔で、約50分の無料解説ツアーを実施しています。私は先にさんまるミュージアムを一通り見た後、ガイドツアーに参加しました。


縄文時遊館に入ってすぐに、可愛らしい縄文人の子どもと犬が案内をしてくれます。

土器解説のコーナーでは、中部高地とは違った、三内丸山・東北地域に特徴的な土器が飾られていました。
円筒式土器は、底が平たくすぼまっています。

縄文人の子どもの左手の室内では、三内丸山遺跡で発掘された特徴的な遺物がシックに展示されていました。
私としてはこの土器の口縁部の形がとても気になりました。ここでは4つの山を持つ土器が制作されていますが、その土器の4つの山がとても正確に作られているのです。


向かい合う2つの山を重ね合わせるように見るとぴったりと形が重なるのがわかります。
制作初期のものは一部ずれているのがありますが、後期に至るとぴったりと造形が重なり、形がしっかりしています。
だんだんと土器作成の熟練度が増していったことがわかります。
また、ここでは4つの山のピークですが、近くでは5つの山のピークの土器が発掘されていたりもして、地域ごとの違いがあったりするそうです。
縄文のネットワークと社会
ここで出土する黒曜石は、北海道や信州からのものが流れ込んでおり、やはりここでも広範な縄文ネットワークがあったことが分かります。
三内丸山遺跡は縄文前期から中期まで約1700年間続いたムラと言われており、おそらく縄文時代においても超有名な集落だったのではないでしょうか。
ここでは黒曜石の他、新潟糸魚川のヒスイも出土しています。



土偶や石棒も数多く出土しており、普遍的に行われていた縄文人の祈りの姿が見えてきます。
個人的な印象ですが、この東北の土偶は、中部高地よりもより抽象的で素朴な精霊のようにみえます。もし土偶がアニミズム的な精霊を表しているのであれば、高度で洗練された祭祀があったのではないかと思いました。
私は、土偶は携帯していたお守りのようなものとも思っており、このミニチュア土偶などをみると、現代に生きる私たちに続く共通した感性を感じます。
三内丸山の豊かな暮らし
この三内丸山遺跡を特徴づけるの要素の一つは"栗”だと思います。
三内丸山遺跡には最も人口が多かった頃、約500人近くの人が住んでいたと言われていますが、その人口を支えたのが広大に広がる栗林で、現在でも多くの栗の木があるそうです。
栗は収穫されて、アク抜きをした後、貯蔵されていました。
また、栗の木はとても硬いのですが、縄文人は石の斧でこれを切り倒し、柱や住居を作っていました。


複雑な編み物が行われ、堅果類の採取などが行われていた証拠であるが、これが現代まで残ったという奇跡よ
近くでは海産物も豊富に採れ、また山の幸としてムササビなども食べられていたようです。
山の幸・海の幸、そして栗などの堅果類という森の恵みがあり、とても豊かな食生活が三内丸山のムラにはありました。


それほど栄えたこの縄文の村、一体何が原因でいつの間にか廃れてしまったのでしょうか。
その謎は、このあと参加したガイドツアーの中で明かされます。
江戸時代の紀行文作家「菅江真澄」も訪れた三内丸山遺跡
この三内丸山遺跡は実は、江戸時代から既に知られていました。
江戸時代の博物学者・紀行家の菅江真澄は、東北地方を旅する中でこの三内丸山遺跡とみられる場所を訪れ、既に当時露出していた遺物の土器の記録を残しています。

諏訪の御頭祭のスケッチも残しており、神長官守矢史料館の資料も、この菅江のスケッチをもとにしているものがある 「大館市立図書館」

江戸時代には知られていた三内丸山遺跡ですが、転機となったのは、平成初頭に、ここに野球場を作るという計画が持ち上がった時です。
発掘調査を行う中で、突如として6本の巨大な木柱の跡が現れました。そしてそこには地下水の影響で腐食を免れた栗の木が一部残っていました。
このセンセーショナルな発見は、瞬く間に全国的を駆け巡り、6本の巨大な木柱が存在する遺跡は、一躍有名になりました。





野球場の建設は中止され、大々的な発掘調査が行われました結果、その特異性・特徴が明らかになったことから、平成9年3月に国史跡指定、さらに平成12年11月には国の特別史跡となり、整備されることになりました。

続きはこちら:トンネルを抜けるとそこは縄文のムラだった タイムスリップto三内丸山遺跡【紀行文】
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