見出し画像

トンネルを抜けるとそこは縄文のムラだった タイムスリップto三内丸山遺跡【紀行文】

 世界遺産の北海道・北東北の縄文遺跡群の構成資産の一つ、三内丸山遺跡を訪れました。巨大な縄文ウォールなど、さすが1000年以上も続いたムラと唸らせる超ド級の遺物が並ぶ縄文時遊館で事前学習。
 今回、いよいよ遺跡へのトンネルを潜ります。まさに、縄文時代にタイムトラベルしたような感覚を味わえる素晴らしい体験でした。


三内丸山遺跡 ガイドツアーへ

 定時のガイドツアーに向かう集合場所に行くと、既に20名以上の参加者がいました。あまりに多いので、私たちの回は、二班に分けての出発でした。
 ガイドは若い女性の方でした。
 まず三内丸山遺跡全体のジオラマで、簡単に概説してくれました。全景をみて本当に広いムラだと思います。

大まかな地図をイメージしてから向かいます
あの大型掘立柱建物の模型もあります! 近くの子供の墓や北盛土とはなんでしょう?
そして右上の儀式はいったい・・・

 これまで見てきた縄文の遺跡は、多くても100人程度が暮らす集団でしたが、この三内丸山遺跡には最盛期には500人以上が暮らしていたといいます。
 この規模をまとめるには、相当強力な指導者や社会的制度が存在していたのではないでしょうか。
 一通りの解説を受けた後いよいよ、遺跡に続くトンネルへ向かいます。

遺跡に向かうトンネルが見えてきました。光り輝く空間が見えています。
このトンネルを抜けると・・・
縄文時代にタイムスリップ!

 トンネルを抜けるとそこには、縄文のムラでした。

☀  ☽  ★ 

 眼前に広がる雄大な縄文の景色と遠くの森からムラの広場を通って流れてくる風に思わずため息が漏れました。
 なんと素晴らしい場所なのでしょう。

 広大に広がる縄文の村には、いくつかの住居跡、そして左手奥にはあの巨大な木柱が立っているのがみえます。

 誘われるように歩みを進めると「特別史跡 三内丸山遺跡」の標柱がありました。北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産の構成資産には、必ずこの標識が立っているそうです。
 このデザイン本当にいいですね!

 標柱と遺跡の解説 北海道・北東北の縄文遺跡群には、共通してこの標柱がある
左手奥に6本の柱が見える手前の土嚢は発掘現場 まだまだ調査は続いている

縄文時代の「死」と精神世界 墓制を考える

 ガイドさんに導かれて、先ほどの標柱から左手の道を歩いていきます。
 すぐに見えてきたのは、いくつものこんもりとした塚のようなもの。塚の周りには、石がランダムに並べられていました。
 どうやら、ここは集落の中でもリーダー格の人々が葬られたと思われる墓。こことは別の大人の墓があり、区分されていました。

環状配石墓と道路跡

 この道路際に並ぶ墓は、楕円形に土が盛られ、その周りに石があるが、不規則にしか見えないこの配石には、どうやら規則性があるようで、現在研究が進められているようです。実に興味深いですね!

別の場所にある大人の墓
大人の墓の一部は、発掘当時の形で見ることができます

 ここで見つかった大人は屈葬の形で埋められていたことがわかっています。
 この時代、既に葬送儀礼があったことは確実ですが、一体どのような気持ちで人々が死者を見送ったのでしょうか。

 この大人の墓とは別に子供の墓というのもあります。大型掘立柱建物(あの6本の巨大柱)の近く、北の盛土との間です。
 子供の遺体は使われなくなった土器を一部壊し、その中に遺体を入れて埋葬されていたそうです。
 大人と区分されていたことから、子供に関しては一種の呪術的な意味合いが込められ埋葬されていたことがわかります。

右の解説版にあるとおり、子供は煮炊きをしていた土器を再利用して、そこに穴をうがち、丸石と共に埋められていたようです。

私は、縄文土器は通常では食べられない堅果類を煮炊きすることで、食べ物に変えてくれるマジカルな意味合いを持つものだった、と考えています。
 たわわに実る木の実は、神々の世界から分け与えられたもの。それをさらにマジカルな力で人に恵みとして与えてくれる装置、それが縄文土器なのかもしれません。
 その役割を終えた土器を壊すことで、神の世界に返し、同時にその中に早世した子供の遺体を詰めることで、再び一緒に神の世界に返し、新しい命として生まれ変わらせる。
 また人間の世界に来て欲しい――そう願いを込めて。

 現在のアイヌに伝わる文化から想像すると、そのような神からの授かり物的な概念が当時もあったのではないかと、そう思いました。

子どもの墓(壺)に入っていた丸石
國學院大學の特別展「アイヌモシㇼ―アイヌの世界と多様な文化―」より
アイヌ文化には、縄文のころから続く独特の世界観が伝わっています

 現代でも続く七五三のお祝い、この七歳とは柳田民俗学によれば七つ前は神の内というような観念があったからではないかとされています。
 現代よりも圧倒的に乳幼児の存命率が低かったであろうこの時代、子供は神に返し、その再来を願う、それはまるで毎年たわわな実をつける栗や栃の実などの自然の循環になぞらえていたのかもしれません。

遺跡はまだまだ発掘が続いています。新しい事実が明らかになる日も来るかも。

復元住居と縄文の暮らし

 ガイドさんが次に案内してくれたのが、復元された住居跡。

 復元された住居については、想像・ロマンで補っているところがあるそうで、現在のところ3パターンの屋根が想定されているそうです。
 一つは土屋根、一つは茅葺き、そしてもう一つは樹皮です。
 この中でも現在、近くで発掘された成果により焼けた土が発見されたということで、土屋根であったのではないかという説が有力だそうです。

こちらは樹皮による屋根
左手奥は、土の屋根、手前は茅葺の屋根
諸説あるため、こうして複数のパターンで再現しているようです
竪穴住居の内部

 竪穴式住居ですので、約1メートルほど掘り下げた中に人々は暮らしていました。
 1メートルほど掘り下げることで夏涼しく、冬暖かい一定の気温で過ごすことができる断熱効果があるそうです。

ゴミ捨て場からは大量の土器などの遺物が。そしてその中には、翡翠もありました。

 この復元住居跡の近くにはゴミ捨て場(貝塚)がありました。村内には2箇所あり、様々な土器や貝殻等の捨て場は積み重なり、小山を形成していました。
 現在その一部を、写真のように観察することができます。

 縄文時遊館でみた「縄文ウォール」は圧巻でしたが、こうした場所から大量に見つかっているのですね。

圧巻の縄文ウォールも、この三内丸山遺跡のほんの一部でしかないことが分かる・・・

湿地がもたらした奇跡

 遺跡の北側には、現在北館川が流れていますが、そこに続く湿地は北の谷と呼ばれ、ここにも多くのものが捨てられていました。

 ため池でもあるここからは、現在も水が湧いているそうです。この低湿地であったからこそ、酸性土壌では残りにくい骨や木製品などの一部が残っていたという、まさに奇跡のような場所なのです。
 あの有名な縄文ポシェットもこのあたりから出土したようです。

ここも一部が、発掘時のままに再現されています
こんもりとした盛土の地形になっており、そして谷の向こうに湿地、ため池があります
現在も水が湧き出ており、こうした湿地、ため池になっています
さあ、いよいよ大型掘立柱が間近にみえてきました

 かなり長くなってしまいましたので、一旦今回はここまで。
 次回、大型掘立柱とその周辺の建造物について書きます。


いいなと思ったら応援しよう!

タキカワスエヒト サポートいただけたら、より勉強してよい記事を書いて行きます。ちょっと遠くの気になるあの場所の紀行文を書きます。

この記事が参加している募集