地下の真実、地上のロマン 三内丸山遺跡の巨大6柱は何のために【紀行文】
巨大な6本のクリの木の大型掘立柱は、三内丸山遺跡の「顔」であり、最大の謎です。
考古学的な発見という地下の真実をもとに、私たちは地上のロマンを想像し、往時の姿に想いを馳せます。
なぜ、これほど巨大な柱が建てられたのか。そして、このムラを訪れた旅人は、一体何を思ったのか。
いよいよ、時を超えた謎、三内丸山遺跡の核心に迫ります。
栗の木の柱はなぜ残ったか
前回の記事では、三内丸山遺跡内のツアーに参加し、ガイドの解説を受けながら大型掘立柱の近くまでやってきました。前回の記事はこちら。

いよいよ例の巨大な木柱が間近に見えてきました。実はこの木柱は復元であり、実際に木柱の穴が見つかった場所は、別の覆屋の下にあります。
その覆屋の中に入ってみると、そこには発掘当時の穴が再現され、栗の木が残されていました。人がすっぽりと入るほどの直径1メートルの穴。この直径を持つ栗の木を切り出すのは、どれだけ大変な労力だったことでしょう。

直径1メートル近い栗の木を切り倒し、そして6本も立てる。何か崇高な、そして切実な目的がなければこのような事業はできなかったのではないかと思います。
この穴には今でも水が湧いているので、常にポンプで水を汲み出しています。通常、酸性土壌で栗の木は腐ってしまいますが、ここでは絶えず湧き出す水が、木材を水漬けの状態にし、腐敗を防いだため、現代まで残ったのです。

栗の木は、根元が焼かれて焦げており、防腐措置がされていました。また若干内側に傾いた形で発見されており、倒れにくい構造になっていたようです。
こうして奇跡的に残っていた栗の木の巨大木柱。その穴の大きさに度肝を抜かれて、その驚きのまま、いよいよ復元された6本の柱の元に向かいました。

地下の真実、そして地上のロマン
ツアーのガイドさんが「こちらは、地下の真実、そして地上のロマンなんです」と語ってくれました。
つまり、ここで見つかった真実というのは、巨大な6つの穴とそこに残されていた栗の木のこと。その地上部にはどのような形の建物があったか、そこは想像・ロマンの領域なのです。

櫓のようになっています
いくつかの案があり、6本の木柱のみが立っていたという説、そしてこの復元モデルのように櫓状であったという説、そしてこの櫓には屋根があったという説等があります。
栗の木は若干内側に傾いた形であり、幹回りの大きさなどから高さが約14.7mと推定されているようです。
しかし、どのような機能を持っていたのか、どのような形状であったかについては、どれも決定打にかけることから、現在は折衷案として櫓状に組んだ形で展示をしているそうです。
縄文尺は約35センチ
もう一つ面白い話を聞きました。当時はおそらく腕の長さを基準とした縄文尺が使われていました。
現在のわかりやすい基準に直すと35センチが1つの基準となっており、その35センチの倍数であらゆる建物等が作られているそうです。
この大型掘立柱の穴の間隔も、4.2mと35センチの12倍になっています。
また、近くにある高床式の建物も、この35センチの縄文尺が使われていました。

巨大な6柱はなぜ建てられたのか
この6本の巨大な木柱、一体何のために建てられたのでしょうか?
私が知っている有名な説としては、この6本の木柱の位置が計算されており、冬至や夏至のタイミングでこの木柱に太陽の光が差す、いわば縄文時代のカレンダーであったという説です。
しかしカレンダーとして使うだけではこのような巨大な木柱が必要ではなかったとの反論もあり、その他にも目的があったのではないかと思います。

もう一つは、この縄文の村が巨大なネットワークの中心地点であったことから、灯台的な役割があったのではないかということです。
確かにこの櫓はある程度離れたところからも目立ちます。また、海がすぐ近くにまで迫っていたことから、海路から来た人にとっても目立つ灯台のような役割があったのではないでしょうか。
また同時にこの櫓に人が常駐することで、外来の交易者がやってきたことを集落に伝える役割もあったのではないかと思われます。

また、祭祀施設であったとの説もあります。私も、この説がもっとも近いのではないかと思っており、この周辺は霊廟・祭壇的なものではないかと思いました。
この大型掘立柱を見たとき、先日訪れた新潟の寺地遺跡などの巨大木柱の事例、そして今に続く諏訪の御柱などが想起されました。
黒曜石や翡翠のネットワークのうち、諏訪から北陸経由での東北へのルートがありました。
そうしてつながった人々が共通で抱いた、当時の死生観を反映させた霊的な意味が、ここ込められているのではないかと思っています。

それは折口信夫も言っている通り、柱や端・橋には天と地をつなぐものという意味が込められていたのでしょう。
あらゆるものには神々が宿っており、その神々がやってくるときの道筋・導入部にこの木柱はなっているのではないか。また神々の世界に亡くなったものを返すときに、この木柱が儀式的に使われたのではないかと思います。
この木柱のすぐ近くで、子供の墓が多く見つかっているということも、葬送儀礼、神の世界に魂を返すような儀礼が行われていたのではないか、ということの裏付けにもなるのではないかと考えました。
巨大な祭祀遺跡と文化を持った高度な宗教集団、そんなイメージが私の中にロマンとして浮かび上がってきたのです。
栗に支えられたムラの終焉
他の同時代の遺跡では類を見ないこの巨大木柱を有するこのムラも、終わりを迎える時が来ました。
それはおそらくは、気候変動によるものだったようです。縄文中期ごろのユートピア的な温暖で食料が豊富に手に入った時代が急速に終わり、厳しい冬の時代を迎えたのです。
縄文時代の前期~中期は気候が温暖化傾向にあり、縄文海進と呼ばれる海水の上昇もありました。このころ縄文文化は最盛期を迎え、中部高地にもあの素晴らしい土器文化が栄えます。
この三内丸山遺跡も中期に最盛期を迎えていました。
ところが、後期に入ると急速に気温が低下しました。2度ほど世界的に気温が下降した結果、予期しない大雨、そして植物相の変化をもたらしました。これは日本全国に限らず、世界的にも起こっていたようで、長江文明などでも同時期衰退現象がみられるそうです。
三内丸山遺跡を支えた豊富な栗林は衰え、人々は分散化して暮らしていくことを余儀なくされました。そのため、この三内丸山の大きなムラは、栗林と共にひっそりと消えていったようなのです。
ムラの入り口に立つ
三内丸山遺跡の見学ツアーが終わり、最後に一人この三内丸山遺跡の入り口(北側)を訪れました。
その北側の入り口の両脇には、大人の墓が広がっています。

現在は森が広がっているが、かつては港に続く入口でした

港についた旅人は、まずこの村の歴代の大人の墓に見守られて、ムラに入ってきたのでしょう。
村の入り口に墓が配置されているのは、先祖が境界を守る塞の神のような役割を担っていたのかもしれません。

私はこの入り口に立ち、この三内丸山遺跡の村を訪れた旅人の気分になっていました。
村全体を見渡せる場所であり、道路幅はとても広いです。両脇に広がる墳墓がこの村を作ってきた人々の魂が見えるようです。
交易に訪れた人は、黒曜石やヒスイなど、また役に立つ石器など各地の産物を持って立ち寄ったことでしょう。

そして、右手に見える巨大な木柱に畏れ、そしてこの村への畏敬の念を抱きながら、中心部に向かっていったことでしょう。
しかし、私はふと思いました。
平和な時代と言われる縄文時代、外敵を警戒する必要がなかったのであれば、これらの墓は、海からやってくる人々や神々を出迎える歓迎の意味があったのではないか、そう感じました。
タイムトラベルto縄文

三内丸山遺跡の中を多くの人が散策していました。中には縄文服を着て、笛を吹きながら、子供と戯れて遊んでいる親子連れもありました。
ここは縄文時代に現代人を連れて行ってくれるタイムトンネルのような場所です。縄文の心に変わり、心を解放する不思議な効果がある場所だと思いました。
青森の地には、まだまだ巡りたい場所がたくさんあります。


遮光器土偶の見つかった津軽方面、そして北海道の続縄文文化とのつながり。それらを巡り、またいろいろ勉強と体験をして、またここに戻ってきたいと思いました。
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