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闘技会 第二話

 初戦は一瞬で終わった。

 勝つには勝った――というのが闘技者の実感だったが、はた目からは圧勝したと思われたにちがいない。相手の繰りだした蹴りをかわし、内に飛びこむと同時にあごに掌底を一発。相手は失神し、勝敗は決した。はじまりからおわりまで、ものの十秒とかからなかったかもしれない。

 しかし試合の出来には大いに不満が残ったので、あまり喜んではいられなかった。対戦前、なにか障害があるとしたらそれは観客だろうと闘技者は考えていた。観客の声や動きといったものが、闘技者の感覚を惑わすかもしれないと。だがじっさい立ってみると、たしかに見たこともないほどおおぜいの観客が舞台を取り巻いていたが、なんの問題にもならなかった。というのも、舞台の中央から観客席まではかなりの距離があるので、観客ひとりひとりの姿など、もはやただのぼやけた点にすぎない。舞台の書き割りみたいなものだ。歓声やヤジにしてもうるさいことはうるさいけれど、その音はあまりに異質で、人の声というよりも雷鳴だとか滝のとどろきだとか、そうした無秩序な唸り、ただの自然現象のように感じられる。いくらやかましくとも、意味のない雑音であれば無視するのはたやすい。

 ではいったいなにが問題だったのかといえば、それは闘技場の広さだった。闘技場の舞台は、もう途方もなく広い。舞台のそでから中央にたどり着くまで、いそいで歩いたって何分もかかる。百人が同時に戦ったとしてもまだ余裕がありそうなくらいだ。

 闘技者は中央に足を進めるにつれて、しだいに距離感が――武術家にとってなにより重要な距離感が失われていくのを感じた。それは普通の人からすれば気がつかないほどのわずかな喪失だったが、闘技者にとっては致命的な問題だった。あるいは狭いところにずっと閉じ込められていた弊害なのかもしれない。

 というのも、闘技者の試合が行われたのは、二、三週間先どころか、二か月もたってからだったのだ。それだけのあいだ、あんな狭い部屋に居つづけたら誰だって感覚がおかしくなるというもの。しかしそれは相手も同じらしく、きょろきょろと周りを見、ひどく落ちつかない様子だった。

 相手が不用意にくりだした蹴りをかわせたのは偶然だった。長年の経験で体が勝手に動いたというだけにすぎない。もし相手がもっとすごい使い手だったら、倒されたのは闘技者の方だったかもしれなかった。

 闘技者は、つぎの試合では、審判を目印とすることを思いついた。審判は立会人として間違いが起きないよう、闘技者たちのすぐそばにいる。そいつを対戦相手といっしょに視野のなかに入れて戦えば、距離感を狂わせられるあの奇妙な現象を、いくらか軽減できるかもしれない。

 そうして闘技者が部屋に戻り、勝利の余韻にひたっていると、

「いやあ、お見事でした」と使者が顔を上気させ、ずかずかと入ってきた。「相手が蹴りを出して、そのあとすぐひっくり返ったのは、あなたがなにか技を出されたんですね? あんまり速くて何がなんだかよく分かりませんでしたが……」

 使者はいつもの堅苦しいほどていねいな物言いとは違い、前置きもなしに、ぶしつけと思えるほどの質問を投げかけた。それだけで興奮の度合いが分かろうというものだった。闘技者は使者の目の前で、先のたたかいをゆっくりと再現し、説明してやった。

「なるほどそういうことだったのですか。わたしは体を動かすことはてんで駄目でして、的外れなことを申しあげたようで……。しかし舞台のあなたは堂どうとして、とても立派に見えましたよ。まったくたいしたものです、ええ、ええ。ところでケガは? ケガはなかったでしょうね?」

 大丈夫だという言葉のかわりに闘技者が得意の型を演じてみせると、使者は安心し、大きく息をはいた。

「それはよかった。心配だったのですよ。たとい勝ってもケガをしたらどうにもなりませんからね。というのも今後、試合の間隔はどんどん短くなっていきます。いままでは二か月かかりましたが、つぎは半分の一か月になります。参加者が半分に減ったからです。つぎのつぎは更に半分になるでしょう。つまり二週間です。こうなってくるともうケガを治している時間はありません。せっかく勝っても、つぎの試合は出場辞退ということになりかねないのです」

 闘技者はうなずいて、なるべくケガを負わないようにという題目を、頭の中のチェックリストに書き込んだ。しかし、試合の間隔がどんどん短くなるという使者の言葉は、闘技者はいまひとつ信じる気になれなかった。こと日程にかんして、いままで使者の予想は当たったためしがなかったからだ。

 そしてその闘技者の読みは、まったく正しかった。

 何日か経って、使者は以前のような青白い顔をして入ってきた。闘技会がはじまる前の、あの手続きに追われている顔だ。なんでも二回戦は延期となり、その前に敗者復活戦がおこなわれることになったのだという。

「優れた人材を取りこぼしたくないのです」と使者はいった。「初戦の組み合わせは先着順ですので、たまたま強者と強者が争った可能性もあったわけです。そんな強者が、わずかの差で消えていたとしたらあまりに惜しいという意見が出てきました。そこで敗者復活戦を催すことになったのです」

 ほとんどの敗退者はすでに帰路についているため、呼び戻しているところだという。

 使者の予想はまったくあてにならないので、闘技者はその敗者復活戦とやらにどのくらい時間がかかるか自分で見立ててみた。遠くの者を呼び戻すにはかなりの時間がかかるだろう。闘技者自身、何日もかけて都までやってきたのだ。そこからまた試合をするとなると、初戦とおなじかあるいはそれ以上かかるかもしれない。闘技者は深いため息をついた。

 春のはじめにやってきて、もう四か月がたった。短い夏が過ぎようとしていた。闘技場の厚い壁が強い日ざしをさえぎってくれるので、暑さはそれほどでもない。日のささない奥の壁は、いつもひんやりしていた。

 闘技者はわざを鍛え、食事をし、使者と会話を交わし、夕日が沈むのを見た。そしてたまに手紙を書いた。以前はもっとひんぱんだったが、いまは月に一度。なにしろ闘技者はずっと部屋に閉じこもりっきりだから、書くことがなにもない。妻は闘技者が送った分ときっちり同数の、事務的な返信をよこした。

 使者の話によると、敗者復活戦の進捗は予定どおりだという。

 それにしても競技は毎日催されているはずなのに、外は妙に静かで、自分が戦ったときはあれほど騒がしかった歓声が部屋まで届いてこないのを、闘技者は不思議に思った。それに加えて、壁のむこうでは自分と同じように他の参加者が生活しているはずなのに、ちょっとした物音さえしない。部屋は人里離れた洞窟のように、ほとんど無音だった。これはどうもおかしい。

 壁が厚いからだと使者は説明した。が、闘技者は納得しなかった。

 闘技者はそのうち、闘技会も、たくさんの参加者も、仕官の約束も、なにもかもがぜんぶ嘘で、じつは闘技場には自分しかおらず、使者も、案内人も、下卑た配膳の男も、観客さえも、誰かに雇われた役者であって、皆で示しあわせて闘技者のことを騙そうとしているのではないかと思うようになった。

 その奇妙な見解は日ごとに強くなり、闘技者はある日、思い切って使者にそれとなく考えを伝えた。あたまがおかしくなったと思われるのではないかと心配したが、使者は笑ったりせず、時どきうなずきながら、闘技者の話を最後まで真剣にきいた。

「なるほどおもしろい考えです。突飛に思えますが、あなたに見えている範囲においては矛盾がないのかもしれません。ですがもちろん、わたしは役者なんかではありませんし、運営にたずさわる者として、闘技会はまちがいなく開催され、進行中であることは保証します。ですが証明はできません。参加者のおひとりにすぎないあなたに、内情を何もかも明かすというのは難しいのです。しかしあなたのお考えにはひとつおかしな点が見受けられます。つまり、そこまで大げさな仕掛けをして、いったい誰がなんの目的であなたを騙そうとしているというのですか?」

 使者の問いに闘技者は何もこたえられず、押し黙ってしまった。

 ここにやってきて半年、初戦から四か月の後、闘技者はふたたび舞台に立った。

 季節はもう、冬の入口にさしかかっていた。つめたい風が吹き上がるように巻いて、突き固められた地面にうっすらと砂けむりをおこした。

 二戦目は、だいぶ時間がかかった。が、初戦よりもやりやすかった。相手は拳闘士で、鋭いこぶしと足さばきは要注意だが、ひざより下への攻撃はできない。闘技者は這いつくばるような姿勢で相手に近づき、足で挟んで倒すと、うしろから絞めて失神させた。

 もはや初戦のときのような失敗はない。舞台の広さにも慣れたし、距離感にも不安はなくなった。完璧な試合運びだった。

 使者によると、対戦相手は優勝候補にも挙げられていた都では有名な拳闘士だったらしい。それを難なく倒した闘技者の評判は、急騰しているとのこと。

「今なら熊だって倒せそうな気がします」

 と闘技者はめずらしく大口をたたいた。

「ところで、つぎの試合についてですが――」

 闘技者は待ちきれないといった様子で、つぎの試合の予定をたずねた。以前にきいたところでは、それは二週間後のはずだった。参加者が更に半分になったからだ。

 しかし使者は、

「つぎの試合は来年になります」

 とこともなげにいった。

「なんですって!?」

 闘技者はおどろいて声を張り上げた。

「ご存じないんですか? 都では冬のあいだ、催し物はいっさい行われないのです。あなたの故郷おくにはそうではないのかもしれませんが、都の冬は長くて厳しい。風も強いし雪も降ります。寒くて人も集まりません。とても催し物などやってられないのです――」

 都の冬は、あたたかい地方で育った闘技者にはことさらきつく感じられた。そのうえ闘技場には、冬を越すための設備がととのっていなかった。というのも、年をまたいで催し物がおこなわれることなど、今まで一度もなかったからだ。

 開けっぱなしの窓にあわただしく戸板がとりつけられ、部屋に風が吹き込んでくるのはひとまず避けられた。が、闘技場の構造上、暖炉などの暖房設備を設けるのはむずかしいらしかった。かわりに、部屋には炭火をおこした火鉢がとどけられた。しかし暖房としては、ほとんど意味をなさかった。つめたい石の壁がすべての熱を奪ってしまうからだ。涼しかった夏とは反対に、石の蓄熱作用が悪い方向に働いているようだった。闘技者は支給された毛布にくるまり、ふるえながら過ごした。

 食事は冷えていた。スープもつめたかった。配膳の都合で多少ぬるくなるのは仕方がないとしても、あまりにもひどい。いくら食事にこだわりのない闘技者でもさすがに文句を言いたくなる。寒いのは我慢してもせめて温かいものくらいは口にしたかった。しかし配膳の下卑た男は、怒号でそれに応えた。

 幸いなことに、闘技場の舞台は参加者たちに開放された。闘技場が閉鎖され、外部との接触を心配する必要がなくなったのと、競技が進み人が減ったからだという。

 以前、使者が椀の底に例えた闘技場の舞台は、冷えたスープよりももっとつめたかった。それでも闘技者は舞台を訪れずにはいられなかった。というのも、戸板のせいで部屋は昼でも暗く、気が滅入ってくるからだ。それはほかの参加者たちもおなじらしく、舞台にはいつも人の姿があった。

 闘技者は試合以外で、はじめて自分以外の参加者を見た。ということは、やはり闘技会は嘘でもまやかしでもなかったわけだ。もしあの参加者たちが役者でなければ、だが……。

 日のあたる屋外といっても、舞台のほとんどは観客席の影になっていて、照らされているのは端に残る三日月状の細い部分だけだった。そのわずかなすき間に、むくつけき男たちがあつまり、亡霊のようにうろついている。

 闘技者もそのひだまりのなかに入っていって、ぞんぶんに日を浴びた。ほかの参加者とは話さなかった。必要以上に近づきもしなかった。相手に自分の手のうちを見せたくなかったし、どこに監視の目があるか分からないのだから。

 つめたい風が針のように肌を刺した。が、闘技者は寒さに我慢できなくなるぎりぎりまで、体を日にさらしていた。あの狭くて暗い部屋に戻りたくなかったし、日を浴びたからといってべつに暖かくもなかったけれど、悪いものが浄化されていくような気がしたのだ。

 春がやってきた。冷え込みがやわらぎ、氷室ひむろと化していた部屋もだんだん暖かくなってくると、闘技者の気持ちにも余裕がでてきた。訓練を再開し、ゆるんだ体を締め直した。

 不思議なことに、鍛え直していく過程で、闘技者はいままでにないほど自分のわざが冴え、力が高まってゆくのを感じた。あるいは冬のあいだ、ずっとからだを休めていたのがよかったのかもしれない。闘技者は百万の人びとが住む都の中心にいながら、奇妙にも世間から孤立し、孤立したことが武術家の進化をうながしたらしかった。

 競技が再開されると、今度は逆に、おそろしいほどの速さで進行した。週に一度の間隔で試合が組まれ、闘技者は難なく相手を倒していった。すべてが順調で、最終的な勝利は目前と思われたが、競技はとつぜん中断された。

 王が亡くなったのだ。喪の間、催し物は一切おこなわれない。闘技会もむろん延期される。喪の期間は、慣例からいって三年ほどだろうと使者は述べた。

 しかし闘技者からすると、あと三年など待っていられない。闘技者は訴えた。努力してここまでやってきた、いま自分は武術家として最上の状態にあるのだ、山の頂にいるのだと。しかしいまが最高ということは、三年後にはもう最高ではない、その時にはもう自分は衰えている、下り坂になっているのだと。だからとても三年も待つことはできない、観客などいなくてもいい、内密にでいいから試合をさせてほしい、というようなことを闘技者は目をうるませながら懇願した。

 王国民として喪に服すべきときに武闘会を続けたいなどというのは、側近候補として、いただけない態度だと使者は思ったが、闘技者の気持ちも理解できなくはなかった。この狭い牢獄のような場所に閉じ込められ、出番を待ちながら、何年もかかってようやくここまでたどりついたのだ。無理もなかった。しかし一介の役人がいくら同情したところで、国の決まりごとをくつがえすことなどできるわけがない。

「おっしゃることはわかります。ですがどうか落ちついてください。わたしもできればあなたの願いを叶えてさしあげたい。しかしそれは無理な話です。こうも考えてみてください。あなたはいま残っている参加者のなかでもかなり若い方です。つまりあなたが衰えるということは、ほかの参加者はもっと衰えるということです。ですから、仮にあなたの力が衰えたとしても、三年後には、あなたは今よりもいっそう相手を圧倒することになるでしょう。それにもしあなた自身の力が衰えたとしても、できることはまだたくさんあります。たとえば後進の指導とか育成とかそういったものです。培ってきたわざを次の世代に伝えるのも先駆者の、あなたの重要な役目ではないでしょうか」

 使者の言葉は、闘技者をなぐさめなかった。この男は自分の気持ちをまったく理解していない。物わかりがよいように見えても、しょせんは王室の人間なのだ。

 闘技者は悲痛な面持ちでいった。

「でも、わたしは後進の指導とか育成とか、そんなものには興味はないんです。わたしが、わたし自身が強くなり、王の盾となって、敵とたたかいたいのです。他のことなんかまったくどうでもいいのです!」

 三年が過ぎた。喪が明け、闘技場はふたたび開かれたが、闘技会は再開されなかった。なぜかといえば、

「時代が変わってしまったのです」

 と使者は残念そうにいった。

「三年のうちに、市民の意識は大きく変わってしまいました。闘技会はもう、人気の演目ではありません。もちろん一部の人たちにはまだ人気があります。が、批判する者はそれ以上に多い。あまりに残酷だという声があります。たたかいを見世物にするべきではないという意見もあります。詩や音楽や演劇といった、もっと平和で文化的な催しをするべきだというのです。新しい治世への期待が、新しい文化の創出を求めているのだ。闘技会など旧弊で、因習的な催し物だというわけです。そんなものは滅びるべきだというのです。わたしはそのような考えには反対ですが、そう思う者もたくさんいる。新王は文化や芸術に造詣が深いお方ですから、後者の考えに耳を傾けられるでしょう。われわれは劣勢です。事実、闘技場は作り変えられようとしています。闘技場の呼び名も変わりました。『演芸場』という名になったのです。もうここは闘技だけの場ではありません。詩を吟じ、歌い、踊り、劇が演じられる、そういう場でもあるのです。市民には好評を得ています。毎日たくさんの人が詰めかけ、闘技会以上の熱気があります。ただの物珍しさもあるでしょうが、今のところはそうなのです。しかしそれも長くは続かないでしょう。あの心が奮い立つような、ちからとちからの、肉体と肉体のぶつかりあいが、ふたたび求められる日がやってきます。そうなってくれば新王も心変わりせざるを得ません。われわれはそれまで息をひそめて、出番を待つしかないのです」

 使者の熱のこもった演説に、闘技者は何も感じなかった。どうでもいいと思った。そんな話はもう聞き飽きたのだ。王家にも、使者にも、市民にも、期待するものは何もない。ただ己のわざを磨くのみだ。

 闘技者のたたかう相手は、もはやほかの参加者などではない。もっと先の、もっと別のものだった。老い。衰え。無為な年月。たたかわなければならないのは、そういうものだった。そしてそれに対抗する手段を闘技者は持っていなかった――。

 長い月日がたった。

 闘技場あらため演芸場で催されている新たな演目の数々は、依然として人気だった。ある流行が廃れても、新しい流行がつくられ、以前の流行に取って代わる。そこに闘技会が入りこむ余地などなかった。たたかいの時代がまたやってくるという使者の予想はかんぜんに外れた。かつてその場所で闘技会なる催し物が行われていたことなど、もう誰も覚えてなどいないだろう。

 故郷から何か月かぶりに手紙がとどいた。しばらく返信が途絶えていたのは、まめな妻にしてはめずらしいことだった。開けてみると、文字の筆致がいつもと違っていたので、妻が書いたのではないことはすぐに分かった。それは息子からの手紙だった。手紙には、妻が病に倒れ亡くなったということが書かれていた。何年もまえから体が悪かったのだが、闘技者を心配させないようずっと隠していたのだという。それが先日、ついに力尽きたのだと。息子は成人し、所帯も持って、仕事も順調であるから、仕送りはもう必要ない。手紙を出すのもこれが最後だと書かれてあった。

 読み終えても、なんの感慨もわいてこなかった。どこか現実味のない、遠い世界の出来事のように感じた。闘技者はそれまでと同じように、手紙を行李のなかにしまった。

 闘技者は、息子のことを考えていた。やせっぽちで、小さくて、いつも泣いてばかりいた息子を、想像で大人の姿に成長させてみた。ヒゲを生やし、闘技者と同じくらいの背丈に育った姿に。しかしそれはあまりにぼんやりしすぎていて、像を結ばなかった。

 何年か前、もう待つのはやめて故郷に戻ろうかと考えたことがある。あまり流行らず、食べるのにあくせくしている小さな道場主ではあったが、戻ろうと思えば戻れるのだ。仕官への道は絶たれるが、それでも今よりはましかもしれない。そう考えたが、けっきょく戻らなかった。

 しかしいま、妻が亡くなり、息子も父親との縁を切ろうとしている。これでもう、故郷とのつながりは完全に絶たれた。戻るところはもうない。これからはどうにかしてこの街で、この闘技場だか演芸場だかをたよりに、ひとりで生きていくしかない。

 その夜、闘技者はひさしぶりに妻の夢を見た。

 ベッドで、妻は背中を向けて寝ていた。闘技者が妻の体に手をまわして抱きかかえようとすると、急に背中がふくらんできて、はちきれんばかりになった。丸く盛り上がった三角筋。硬くたくましい僧帽筋。大きく広がった広背筋。妻の背中ではない。いつの間にか妻は、以前に対戦した拳闘士になり代わっていた。闘技者は意味も分からず、ただ本能のままに絞めわざで失神させようとしたが、拳闘士の背中はどんどん大きくなっていき、まわした手は振りほどかれてしまった。拳闘士の背中は無限に大きくなっていくようだった――。

 闘技者は、だんだん人と口を利かなくなった。もともと無口な方だったし、しゃべる相手は限られていた。他の参加者とは口を利かず目も合わせなかったし、配膳の男は憎まれ口を叩くくらいだったが、使者とはよく話をした。以前は、訪ねてきた使者と二時間も三時間も話し込むことがよくあった。しかし今では使者が話しかけても、うなずいたり、首を振ったりするのみで、どうしても応えなければならないときだけ、ひと言ふた言くちを開くようなありさまだった。

 闘技者は長年の監禁生活――正確には自分の意思でそこにいるのだから監禁とは言えないけれど、闘技場の小さな部屋での生活は、闘技者の精神に、ある奇妙な概念、奇妙な哲学を生み出した。

 つまり、闘技場のみがこの世で唯一の存在であり、それ以外のすべて、窓から見える街も、そこに暮らす人びとも、遠くに見える山並みや、空や、大地でさえも嘘であり、ただの影なのだと。

 また、闘技場の生活のみが真の現実、本当に起きたことであり、妻や、息子や、出来の悪い弟子たち、故郷の思い出、それらはもとより存在せず、すべてが嘘の記憶なのだと考えるようになった。

 ある日の夕暮れ、闘技者が壁に映った黄色い染み、落日の日ざしを見ていると、その光がとつぜん消えた。闘技者は動揺したが、いつの間にか日が沈んだのだろうと納得した。しかしそのあと、闘技場の外にある偽の現実、まやかしの世界が演じるのをやめてしまったのかもしれないと思った。

 あるいはもっとほかのことが起きたのかもしれなかったが、闘技者には何が本当に起きたことなのか、考えてもよく分からなかった――。

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