【前編】国際看護師になるための僕のキャリアデザイン🎨〜遠回りをあとから自分で正解と言う〜
みなさんこんにちは
人道支援家のTaichiroSatoです。
日没の時間が少しづつ早まってきて、夏の心地良い夜の時間を待ち望む今日このごろ。みなさんは月を見ながら何を考えるだろうか?
国際看護師になりたい人たち、すでに国際看護師として活躍している人たちでさえ、「自分のキャリア」について、迷い、悩み、考える機会が多いのではないだろうか。
モデルケースが少なく、目まぐるしく変わる世界情勢とそれによって求められる人材の変遷。数年前にやっていた人を見習って同じキャリアを身に着けたとしても、同じ仕事につけることはおそらくこのジャンルではないのではないだろうか。
それだけに、
各々がどんな自分になりたいのか。
何がしたいのか。
心のコンパスに誠実に、
不安の中ひたすら進む勇気とそんな自分の周りの理解あるチームメンバーがいることが最終的な到着地点の景色を大きく変えることになるのではないかと常々思っている。
そんな思いから、ナスタミ✈という新しいコミュニティを仲間たちと立ち上げた。
国際看護師とそれになりたい人たちのターミナル。
興味のある人は覗いてみてほしい。
というわけで今回は、僕が医療者として国際的に活動するまで、どうやって考え、何を実践してきたのか。
そんな僕のキャリアデザインと考え方について書いてみようと思う。
過去の僕の行動
欲しいものは何でも手に入れる、そんなタイプではなかったのかもしれないが、ここぞというときの僕は、がむしゃらに結果を取るための行動を取っていたことを思い出す。
-大学四年生の頃。
某附属病院の大学に通っていたため、そのままストレート付属の大学病院に行く学生が大多数の中、救急で自分が一番働きたいと思える場所はどこか?(僕の中の80%は、決まりきったレールの上を行きたくないという反骨心だった)を探し、神奈川県在住の救急志望の看護学生(僕)は、千葉に長野にと連日、救命救急センターと名前がつくところを見て回る。
反骨心とは裏腹に、どこを見ても自分いる大学病院のシステムも設備もずば抜けていることを改めて知り、アンチストレートの僕はそのまま大学病院の救急センターを目指すことを決決心したのだった。
とはいえ、当時も今も、某大学附属病院の救命救急センターは日本でも指折りで、全国から入職する8割の新人看護師が救命救急センターを熱望するほどの激戦区。僕が大学病院に入ることを決めたとしても、救命救急センターに入れる保証はない。行けなくても、そこでやる。その覚悟で決心をしていた。が、黙って運に任せるわけにもいかない。少しでも自分が希望部署に配属されるため、行動をおこしたのだった。当時、大学4年生の自分が思いつくこと、できること、救命救急センターに配属になるために可能性のあることは全部やった。
何度も大学人事に足を運び 救急に行きたい と相談し(実際は相談ではなく、意思表示に行っていた。しかも、何度も何度も。話を聞いてくれた人事の方たちには感謝である)、次思い立ったのは、インターンシップ。インターンシップとは、看護学生がその病院や行きたい配属部署のイメージがわくように見学をできるシステムのことで、当時の大学病院のシステムでは、最長で7日のインターンシップが可能であった。理由は、大きな総合病院であり診療科が多いこと、日本全国から学生が見に来ることもあり、他と比べ、長期間でのインターンシップができるように工夫していた。平均すると看護学生は、1-3日間で3つくらいの部署をまわるというのが一般的である。
僕の思考はこうだった。
インターンシップに7日すべて救急を見学し、救急のスタッフに顔を覚えてもらう。そして、インターンシップで7日間すべて救急を見学した学生を救急部署以外のところに配属するのは、採用側も少し気が引けるのではないか?
インターンシップ中は、後に救急の先輩になる人たちからは、今日も同じ学生がいる、何しに来たのか?と聞かれ、 名前を覚えてもらうために来た
と即答していた。
なんとも奇天烈な学生だったことだろう。その後自分は、運良く?救命センター配属の切符を手に入れ働いたが、僕が在職中に7日間インターンシップに来る奇天烈な学生は見ることはなかった。自分以上に職場に迷惑を掛ける学生がいなかったことにホッとしていたものだ。
エピソードをもう一つ紹介しておこう。
-2017年。オーストラリア留学から帰国し、さて国際活動ができる医療者になるぞと前のめりだった僕に予期していない事態が起こる。国境なき医師団の看護師の募集が当時、無期限で停止になったのだ。国境なき医師団に入りたくても入れない時期が長く続いた。その時の状況が少しこちらの記事に書いてあるので興味のある方は覗いてみてほしい。
事実、当時は看護師として国境なき医師団になることができなかったので、看護師が駄目なら違う職業で と、ロジスティシャン(物資調達管理)として応募した。とにかくどんな形でもいい、入団を果たし後からでも看護師のポジションが取れるのではないか、入り口を探すことにとにかく必死だった。
履歴書を送り働きたいとメールを送ると、すぐに人材担当から呼び出されオフィスに呼ばれた。
君の経歴でロジスティシャンのして働くことはできない、落ち着いて考えなさいと諭される。
当たり前の結果である。
今現在、現場でロジスティシャンと共に働くが、こんなにも専門的で幅広い仕事を僕がこなせるとは到底思えず、自分の過去に恥ずかしくも思えるが、そのくらい僕は無知で必死だった。
その後の僕は、とにかく継続的に国境なき医師団と関わること。ロジスティシャンとしての応募を一蹴りされたあとも団体の国内イベントのボランディアとして関わり続けた。
座右の銘
社会人一年目で救命救急センターに配属になったのも、国境なき医師団に入れたのも、自分のこれらの過去があったから、とは断言できない。
ただ、僕自身が納得の行くチャレンジができたかどうか、、目標達成する確率を上げるものは何でもやってみる、選ぶ側がこの人を選ばない理由がない、という環境を作るために正しい道の中でできることは、アイデアを凝らし何でもしてきた。その上でだめだったこともたくさんある。むしろそのほうが多い。しかしその時は、やることをやった、でもだめだった、と僕の心に納得させることが出来るのである。
この頃から、自分の座右の銘が決まる。
「人事尽くして天命を待つ」
できることは、やれるだけやって見る。そして、結果はなるようにしかならない。結果がどうであるかではなく、僕自身がそれを得るために何ができたか。プロセスに目を向けることができるようになり、チャレンジの回数が飛躍的に増えた。今でもこのマインドは、僕の挑戦心の基礎であり、理不尽で自分の力を遥かに超えるものと対峙する海外での活動をする際に生きている。
キャリアデザインと遠回り
ここまで僕の過去の奇天烈なチャレンジについて書いたが、国際看護師になるまでも、なってからも僕の中でキャリアについて考えない時期は、大げさでなく、ない。常に考え、正解がわからず、模索し続けている。おそらく、大多数の国際支援に関わっている仲間たちがこの問題と直面し、悩み、そして前へ進む決断をしている。そんな彼らの悩みや葛藤、気持ちが痛いほどわかるし、僕はそんな彼らを全力で応援したいと思っている。
それなりのボリュームになってきたので今回はここで【前編】とし、投稿を終えることとする。
肝心なキャリアデザインと遠回りについて本投稿ではほとんど触れることができなかったが、キャリアデザインする上での僕のマインドを少し知ってもらえたら【後編】は、より理解がスムーズになるのかもしれない。
次回もお楽しみに。
◎タイトル画提供★¥uu☆さん
※投稿内容は全て個人の見解です。
最後まで記事を読んでいただきありがとうございます!
Best,
Tai
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いつも記事を読んでいただきありがとうございます!!記事にできる内容に限りはありますが、見えない世界を少しでも身近に感じてもらえるように、自分を通して見える世界をこれからも発信していきます☺これからも応援よろしくお願いします🙌