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報恩講を終えて

 報恩講とは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の命日を縁として勤められる、浄土真宗で最も大切にされている仏事(法要)です。親鸞聖人の恩徳に感謝し、仏法の教えを改めて確かめ、今後の生きるよりどころとするための行事であり、お寺だけでなく、家庭でも行われます。

主な目的と内容
・報恩感謝: 親鸞聖人の教えに遇えたことへの感謝を表します。
・教えの再確認: 仏法に耳を傾け、法話を聞くことで、教えをより深く理解し、日々の生活に生かすことを誓います。
・親鸞聖人の遺徳を偲ぶ: 聖人の生涯や教えを偲び、その徳を讃えます。 

主な特徴
日程: 浄土真宗本願寺派では新暦の1月16日を中心に、真宗大谷派では旧暦の11月28日を中心に行われますが、各地の寺院や家庭では時期を前倒しして「お取越(おとりこし)」などと呼ばれる形で勤めることもあります。
・開催場所: 本山、全国の別院や寺院、各家庭などで勤められます。
・内容: 勤行のほか、法話、帰敬式、お斎(食事)などが執り行われることもあります。 

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 秋から冬へと季節が移る。今年も何とか無事に報恩講を勤めることができました。まだ少し後始末が残ってるけど。

 京都(本山)に近い地域の特徴として、秋の報恩講と新年明けて1月の終わりに御正忌報恩講と、旧暦・新暦どちらも勤めるお寺が多いのですが、ウチも年二回。僕の子供の頃はまだ、金土日と週末三日間に渡り、何座も勤まる法要で、ウチの場合、特にこの秋の報恩講は布教使の先生をお招きして、御法義のお取り継ぎしていただく尊いご縁になります。他寺院の御法中(お坊さん)をはじめ、沢山の門徒さんがお参りされてましたし、準備から後片付けに至るまで、多くの方が当番制で担って、みんなで勤める大切な二大行事でした。
 祖父の時代には、七日間の期間で勤めている時もあったそうですが、父の代には、五日間~週末三日間となり、更に土日のみ週末二日にまで減り、僕の代の今、週末二日でもお参りは減り続けています。

 先代も使ってたから僕も何気に使ってたけど、この報恩講を表現してきた『大切に護り続けられてきた尊い仏事行事』という言葉が空転しているように感じます。
 実際は『面倒くさくて嫌だけど、何か田舎の付き合いもあって、やらなきゃならないどーでもいー集まり』になっていったよーな気がします。まー、ここまで露骨に表現できるヒトはまだ少ないかもしれませんが、、、今、お参りされるヒトの心のどこかに、こーゆー想いのカケラがあれば、それは必ず次世代に影響するのだと思います。そーやって受け継がれてきましたから。

 この報恩講に向けて、何日も準備に取り掛かります。仏事に限らず何事もですが、イベントなど、事前準備から多くのヒトが関わり、その雰囲気の中に身を置くことで育てられていく心もあり、また団結していく仲間も得られたりします。お寺に関わる周囲の大人の姿を、僕は幼い頃から見てきて、これを『洗脳』だなーと感じてきました。祖父や父はお茶を濁すように『お育て』という言葉で表現してましたので、僕も何気に使ってましたけど、嫌々やってたり、面倒がってるのが随所に漏れてて、きっちり次世代に受け継がれてきました。
 ご法要の企画・運営、講師の手配連絡、お寺の掃除、報恩講用の特別な御荘厳(お飾り・お供え)、門徒さんへの案内・準備、お参り用にストーブを出して、灯油を用意。幕をかけたり、仏旗を揚げて、これに、大昔は食事の用意などがあったので、連日まだ日が明ける前からお寺に人が集まって運営されていました。が、今は基本、住職のワンオペです。

 本当の舞台裏を暴露すると、今でも、年老いた前坊守(母)が手を出すのがやめられないお陰で、ここまで何とか形が維持できてきました。が、それもソロソロ限界です、母が、認めませんけどね。
 父の時代の門徒さんと、僕に交代してからの門徒さんでは、世代も代わり、感覚がまるで違います。完全に受け身体質、これでは自分たちが造り上げる自分たちの法要ではなくて、『面倒な集まり』に参加させられる被害者の会。
 毎年、準備しながら、ボロボロの仏具を眺めて思います。その時、その時、できることを一生懸命やれたでしょうか?何となく、ギリギリいっぱいのやっつけで繋がってきただけなのでしょうか?
 本当に次世代に繋ぐことを考えて、結果がコレなのでしょうか?

 一人居て喜ばば二人と思うべし、二人居て喜ばば三人と思うべし、その一人は親鸞なり

御臨末の御書

 親鸞聖人は言いました。お念仏の仲間は決してひとりぼっちにはならない。親鸞聖人や阿弥陀さまが常にともにいてくださる。

 僕は今、本当にひとりです。

 親鸞聖人や阿弥陀さまがそこにいてくれるから、ひとりでやってますけど、母が老体に鞭打ってできる時間も限られてるし、門徒さんの協力も減り続け、僕がひとりでできることも限られていて、その僕も、これからどんどん老いていく。今がジリ貧なんかじゃない、今が限界なんです。ジリジリ貧していったのは、幼い頃から見ていた大人の姿。

 来…

 犀角歩…

 々ドクドク毒々…くどくどと、

 色んな言葉が脳裏を過りますが、適当なものが見当たりません。これからもこの『大切に護り続けられてきた尊い仏事行事』をどーしていくのか、ひとりで考えていきます、そこに親鸞聖人と阿弥陀さまがいるから。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり

歎異抄 後序

 よくよく案ずれば、ウチのお寺のこの度の報恩講もまた、ひとえに僕ひとりのためなりけり。
 報恩講があるからこそ、年間二回は、このポジションに戻ることができています。

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