仁光、報恩講やめるってよ
毎年一月三日の夕刻、我が家は家(庫裏)の『お内仏(仏壇)の報恩講』をお勤めしてきた。ウチのお寺は、本堂内陣にご本尊が一体、脇余間に既に廃寺になったお寺から預かったご本尊が一体、そして寺族の居間にある仏間の仏壇にも一体。浄土真宗は弥陀一仏を拠り所とすると言いながら、都合三尊もおわします有り難いお寺。
子供の頃から不思議だった。庫裏から繋がってる本堂に行けば、デカイご本尊がデーンとある。しかも脇にもオマケが1個。その上なんで家にまで仏壇置くんだろ?
少し大人になって理解した。浄土真宗は在家仏教であり。家や家族という単位での信仰スタイルが確立されており、その生活の場である家の中心に、心の拠り所である仏さまが安置されることは、言わば絶対条件なのだ。
一方で寺の本堂はその家族信仰をしている門徒同士、同朋同行の惣道場。心の拠り所とする仏さまの噺をお聴聞する為に作られた、大切なみんなの聞法道場。
つまり、寺族(寺に暮らす者)の私物ではない。寺族には寺族の家族がいて、各々の暮らしがある。そのひとつひとつの心の中心に阿弥陀さまがいて、信仰が成立することを、昔の人はきっちりと節目をつけて生活していたのだと思う。
ウチのお寺では、秋(親鸞聖人御命日・旧暦)に本堂で報恩講を勤め、冬(親鸞聖人御命日・新暦)にも本堂で御正忌報恩講を勤めるので、その合間を縫って『お内仏の報恩講』をお勤めすると、晩秋から初冬の短いスパンで三回も報恩講を勤めている。
ここまで書いて、一般人に報恩講と言ってもピンときて貰えないかもしれないと気づく。報恩講とは↓↓↓
https://www.hongwanji.or.jp/news/cat5/002203.html#hajimari
で、本題は、ウチの『お内仏の報恩講』を取り止めた噺。
その昔、曾祖母がお正月のお節料理の残りを使ってお斎(仏事法要の折の食事)を支度して、門徒総代さんや寺役当番さんたちを招き前年お世話になった感謝の意味も兼ねて、一月三日の夕方をウチの『お内仏の報恩講』の日としたらしい。そのスタイルを祖父母が繋ぎ、父と母はその意向と法灯を守り、各ご門徒のお家のお仏壇に於いても、同様に守られてきた『お内仏の報恩講』を、蔑ろにして廃れて失くなってしまわないようにと、訴え続けてきた背中を見て、僕は育った。
で、廃れて失くなった。
僕はやっぱりロスジェネ。
昨今、ご門徒のお家で、報恩講が勤まることはほぼゼロ。父の時代には辛うじて、お家の年忌法事が出た年に(ついで)に報恩講を頼まれる人が残っていたが、今やゼロ。それでも父は「毎年お内仏の報恩講を勤めている(ついで)に、法事があれば勤めるというのでないと本来おかしーのだ」と訴え続け、御同行の理解を求め続けたが、無意味。こんな風に言うと父は激怒するが、無意味。ゼロはゼロ。清々しくゼロ。易往而無人。
敗因は、愚かな民の心に寄り添えなかったことだろう。悲しいかな自分が天才であることを知らない天才(父)は、愚民が愚民であることもまた理解できず孤独な希望を絶やすことはない。未だに絶望すらできない。
大きく、多く、沢山、盛大に、丁寧に、大切に、大事に、、、昔の人が機に触れ折に触れ節目を守って努めて勤めたことが、不思議だし、無駄だし、面倒なのですよ、愚民には。それを「時代に合わない」とか言って誤魔化してるだけ。実際のところは「嫌なものは嫌」。それ以上の意味はない。浅瀬の魚がピチャピチャ跳ねても、深海魚は知る由もない。
令和八年、僕は住職としてウチの『お内仏の報恩講』をやめる判断を下した。理由は、僕の目指すミニマルな信仰スタイルの実現にそぐわないから。正月最後の貴重な三日の夕方に招か(呼び付けら)れ、寺族(自己満足)の法要にお参り(付き合わ)され、お節料理の残り物を出される。すっかり罰ゲーム化してしまった報恩講のカタチを守るべきではないと思ったからだ。
僕がやらなければならないのは、そーやって、僕らまで『お内仏の報恩講』が繋がってきたことに込められた願いを、まーったく伝わらなかった浅瀬の魚が食べられる適正サイズにすることだ。
実際に今年、『お内仏の報恩講』をやめてみて、自分の心にポッカリと穴が空いていることに気がつく。無駄だ、面倒だと、アレコレ御託を並べてみても、自分に差し向けられた願いが、その空洞に詰まっていたことを、失くして改めて知ることができる。それは果たして、合理的でないからできなくなったのか、時代に適合せずにできなくなったのか、自分の心だけが、その正解を知っている。
誤魔化せない。僕は自分にかけられている願いを、これからも自分のスタイルで伝え続け、願い続けた父や母、祖父母やご先祖に、ほんの少しだけでも報いたいと思う。でなければ、僕など、ここに生きていたのか、いなかったのか、それすらハッキリしない、ちっぽけな雑魚に過ぎない。いや、肉眼ではよくわからないプランクトンかもしれない。
でも、それは浅瀬の魚が食べるのに向いているサイズ感なのかもしれない。

